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# 皆既日蝕2024 Total solar eclipse 2024 

#創作大賞2024 #エッセイ部門
 
 私が嫁さんと娘と娘のぬいぐるみを連れて2024年の皆既日蝕を見に行った顛末です。今回の皆既日蝕は太平洋からメキシコのシナロア州、ドゥランゴ州、クアウイラ州、を通り米国のテキサス州など14の州を抜けてカナダの東部の州に渡る地域で見れる日蝕でした。私たちはメキシコのドゥランゴ州で見ました。

皆既日蝕を見に行く旅

 2024年4月8日の皆既日蝕を見に行って来ました。4月5日の金曜日から仕事の休みを取って、飛行機でカンクンからアグアスカリエンテスという街まで行きました。飛行場でレンタカーを借りて金曜日の夜と土曜日の夜サカテカスという街に泊まりました。

思ったより夜は風がきつく4月だというのに寒かったので、行く前にイメージしていた、もっと日蝕がよく見える場所の近くでキャンプでもしよう、という考えはちょっと無理かなと考え直しました。事前に近くの小さな村の宿泊施設に予約をしようと何件かに電話してみたのですが、どこも一杯ということでした。

ただ1件だけNAZA (ナサと読む)という町の近くの村のそのまた外れにあるランチョ(町や村の外れの農地や牧場がある、村人の土地と簡易な建物がある区画)でキャンプができるとの旨を知らせてもらっていました。キャンプの割にあまり安くはなかったのでそこにするか決めかねていましたが、こちらに来てみると夜寝れるかどうか分からない気温だったので、私の嫁さんのお姉さん、彼女の娘たちと孫とサカテカスの街で過ごしました。ちょうどイースター(復活祭)の1週後で街ではコンサートや露店などたくさん出ていました。

日蝕が見える地理的位置

 日蝕がよく見える所というのがどういうことなのかを説明しておきます。部分日蝕や金環日食と違い、皆既日蝕は100パーセント月が太陽を覆い 隠すのが見られるところ、地理的直線が250km幅ほど出来、今回は南西から北東へ時間を追って縦断していくように移っていきます。その幅から離れれば離れるほど月が太陽を覆う部分の割合が少なくなっていきます。

月の影に完全に隠れた太陽の周りのコロナやプロミネンスが見れる現象や、太陽がすべて隠れる直前と皆既が終わった直後、太陽の光が一か所だけ漏れ出て輝く瞬間があり、月の影の周囲に細く内部コロナが輪状に見えるのが、宝石の着いた指輪に似た形状となることから、ダイヤモンドリングと呼ばれる現象などを見るためにはその幅の中にいる必要があります。

またその幅のある1地点で月と太陽が重なっている状態が一番長く続く地点があり100パーセント見える幅の中でもその地点から離れるほど重なっている時間が短くなります。ですからまずその100パーセントに見れる250kmほどの幅の中にいることが大事でできれば長くみられるところにいたいのですが、どこで、どういう場所で、誰と(友達同士だけか、周りにたくさん人がいるのか)など色々考えることがあります。

以前の皆既日蝕の旅

 今回の皆既日蝕を見る上で私が考えていたことを説明するために、私が見た過去の日蝕の話をここでしておきましょう。私が初めて皆既日蝕を見たのは1999年のルーマニアでした。トラシルバニアというドラキュラの話で有名な地方です。完全に同じ場所で皆既日蝕が起こるのは200年ごとの確率になるとのことですが(諸説あります)、ドラキュラが日中に棺桶の寝床から200年ぶりに出れる日になると冗談で言っていました。

ここでドラキュラの話をすると長くなるのでまたの別の記事に譲ります(その日蝕を見に行った時の記事もまた書きたいと思います)。高台の地点で回りが360度見回せてそのすべてに緑の丘陵が続いている素晴らしい眺めの所でした。トランスパーティー(当時はレイブとは呼んでいませんでした)のオーガナイズをする人たちが計画をしていて、結局音楽が鳴っている時間はいろいろ問題が起きて短かったのですが、皆既日蝕を目の当たりにしたその感動は忘れられないものです。

皆既日蝕時のトランスパーティーといえば1998年のコロンビアの砂漠で行われたものが有名でそこに行った友達から話を聞いて次の年にルーマニアまで見に行きました。トランスパーティーに行くグループと日蝕を追いかける人たちの融合が起こったのはその辺から始まったのではないでしょうか?

今回もメキシコのマサトランの近くと米国のテキサス州で日蝕の見れるところでミュージックフェスティバルが行われたのはそういう流れから続いて来ているものです。2001年ザンビア、2002,2003年オーストラリア、2006年トルコ、など私の友人達はトランスパーティーと皆既日蝕の旅に行っていました。私は今回は嫁さんと娘とまったり日蝕を見ることを選びました。

日本での皆既日蝕

 また2009年に日本の屋久島まで皆既日蝕を見に行った時その日は曇りで日蝕を見ることが出来ませんでした。当時もメキシコに住んでいたので屋久島までは遠い道のりだったので見えなかったのはとても残念でした。屋久島の話も別の記事に譲ります。素晴らしい島です。

その日は辺りの島々で曇りの所が多く、たくさんの人が皆既日蝕を見ることができなかったようです。結局見れた人は船に乗っていた人たちで船長が雲の切れ間を探して航海をしたので雲の隙間から見れた人がいたそうです。

天候と日蝕

 この屋久島での皆既日蝕の経験は私にトラウマを与えていました。4月のメキシコ北部で雨が降るという可能性は季節上かなり低いです。ただ私は最後の最後まで皆既日蝕の日にどこにいるべきかというのは決めてしまわないで、天気の状況によって柔軟に移動できるという選択を持っていることは大事なことだと思っていました。

宿泊施設の予約もなく、キャンプには夜寒いと条件的には難しいですが曇りで見れなかったという経験はもうしたくありませんでした。船の船長がやったように、必要であれば雲の切れ間を探して車を走らせるという状況もあり得ると思っていました。

ドゥランゴ州へ

 2024年4月7日の朝サカテカスの街を出て北へ向かいました。ドゥランゴ州、NAZAの町まで車でまだ4時間以上の道のりです。前日に一応NAZAの町の近くの村の外れにあるランチョでキャンプをする予約をしておいたのですが、以前から地図でチェックしていたドゥランゴ州立公園も大きな湖があるようで日蝕を見るにはいいかもと思っていました。サカテカスの街でその州立公園に行ったことがある人に出会ってとてもいいところだと聞いたので、その近くでキャンプをしてそこで見れたらいいなと思いながら車に乗っていました。

2時間ほど車で走ったら北のほうの空が曇ってきました。それまでの青い砂漠の空が噓のようです。景色は依然として砂漠なのですが北へ行けば行くほど空が暗く見えます。私は嫌な予感がしました。

明日が日蝕の日なので出来れば今日中にどこで実際見るのか場所を確認しておきたいと思いましたが、見る場所の情緒よりやはり天気の状況のほうを優先しなければいけないようでした。私は天気予報と雲の移動予報レーダーを見ながらどこへ行くのが一番いいのか決めなければなりませんでした。

天気予報では東に行けば行くほど雲の可能性が高いということと、州立公園から大きな道に出るために時間がかかることを考慮して、明日もし曇りで移動しなければならないとなったら不便なので、州立公園よりも西にあるNAZAの町の近くのランチョに行くことにしました。より大きな道路に近くもし明日もっと西へ移動しなくてはならなくなっても対応できるようにと思いました。

メキシコ北部の自然

 メキシコ北部の内陸性気候と標高のある台地であるために昼は太陽が出ると暑く太陽が沈むと風が吹いて寒いという気候です。この辺りを含めて北部はほとんどの土地が砂漠です。サハラ砂漠のように砂だらけの砂漠ではなく、サボテンや背丈の低い乾燥に強い植物が生える石の沢山ある乾いた土の砂漠です。舗装されている国道沿いには大きな奇岩の形をした岩肌の山がたくさん見えていました。私たちの住むメキシコの最南東のユカタン半島とは違う国というよりも違う惑星の景色に見えます。

NAZAの町の近くまで来ると、大きな奇岩の形をした山も同じように見えているのですが、木々の緑もだんだん見えてきました。地図によるとNAZAという名前の川が流れていて、その両岸が砂漠の中のオアシスになっているようです。村が近くなってくると濃い緑の畑も見えるようになってきました。何を植えている畑なのか初めは分かりませんでした。

今まで観光客などたぶんほとんど来たことがない砂漠のオアシスの村々にとって皆既日蝕を見に来る観光客を受け入れようというのは村始まって以来の一大イベントなのでしょう。そんなにたくさんの人が溢れているわけではなさそうですがもともと小さい村なので宿泊施設などほとんどないのでしょうし、あるものはすべて満室なのでどういうことになっていくのか村の人も予想がつかないのでしょう。

ランチョに到着

 近くの村で少し買い物をしてからランチョに向かいました。ガタガタの未舗装の道の先に木がたくさん規則的に植えてあるランチョに着きました。その木はクルミの木でこの辺りの名産品だと迎えてくれた人が教えてくれました。

水を貯めるだけのプールがあり今から水を入れるからと言っていました。これから水を入れてもどれぐらい時間がかかるのかと思ってしまいました。その横でバーベキューをしているようです。出来たら持って行ってあげるよと気さくなメキシコ人らしく言ってくれました。

結局私たちがその日一番乗りで前日泊った人は出ていったそうで、ここで大丈夫か?とちょと不安になりました。建物の中のキッチンがある部屋の隣のリビングエリアにテントを張ったらどうかと言ってくれて、床は固いけど寒い外よりはかなりましだろうと思いました。

少し離れた街に住むランチョのオーナーの友達が今回の企画をしたようで、たまに週末などに集まってバーベキューをするランチョに観光客が来てキャンプしていいということにして、自分たちも皆既日蝕を楽しもうということでやってるみたいでした。本当は彼らはもっと沢山の客が来ると踏んでいたのかもしれません。地元の村に住む友達も手伝っていて彼らの車でこの辺りを案内してあげると言ってくれました。

NAZAの町とその周辺

 村の近くのNAZAの町にまず連れって行ってもらいました。町といってもその村を少し大きくしただけであまり変わり映えはしません。NAZA(ナサ)という名前はもともと地元の蔓植物で作る複雑な形をする籠のようなもので、川で魚を捕るための罠の名前だと説明してくれました。それを道で売っている人を見ましたが最近は誰もそれで魚は取らないし、作り方も忘れ去られていくものだと言っていました。

スペイン語ではないのでNAZAというのはスペイン人が入ってくる前の地元の言葉であるのでしょう。川の名前もNAZAというのであるいはこの長い川の広範囲に知られた魚を捕る漁法だったのかもしれません。

日に日にメキシコで先住民族の言葉がしゃべられなくなっていくのは時代に流れとはいえそれに伴う知識も失われていくことであって、やはり世界の多様性が減っていくことは悲しいことと言えます。

町の中を通る、泳ぐには流れの強すぎる川を車で渡れる橋があり、その脇の川原に日曜日ということもあり地元の人たちが遊びに来ていました。橋を渡って対岸にある周辺の村も回ってそこが今回の皆既日蝕が一番長く、4分28秒間、見れる地点だそうです。

NASAの研究者がNAZAに

 NASA(米国航空宇宙局)の研究者も来ているとのことでした。NASA のパーカーソーラープローブ(パーカー太陽探査機)が太陽の近く(NASAは太陽を触ったようなものだといいます)を周回しています。人間が今までに作ったものの中で一番太陽に近く、一番速く動く物体だそうです。この探査機にかかる重力は人工物の歴史上、一番強いのでしょう。

太陽の周囲のコロナは太陽表面の約300倍も高温です。これはとても奇妙で、寒い夜に焚き火から離れるとより寒く感じるのが当然で、太陽の近くではその逆の現象が起きています。研究者たちは長年にわたり、この「コロナ加熱問題」の解明に取り組んできました。パーカー探査機から得られたデータと地球上の専門家による日蝕観測データを組み合わせれば、この太陽の謎が解けるかもしれないとのことです。

また皆既日蝕と言えば有名な観測が1919年の5月29日に行われました。皆既日蝕が起こると空がかなり暗くなり星の観測も可能な状態になります。理論物理学の一般相対性理論が発表されてから科学者たちがその真偽に論争を繰り広げる中、アーサー・エディントンによって行われた観測です。

皆既日蝕中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の重力場を通るため屈曲することになり、位置がわずかにずれます。一般相対性理論で予想される数値と実際に観測された数値とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認されたのです。

古代、中世の日蝕

 昔の人たちがまだ皆既日蝕の周期がわかってない頃こんな事がある日突然自分たちの頭上で起こったら、とてもびっくりしたことでしょう。特に中世のヨーロッパ、キリスト教世界で恐れられたようです。周期がほぼ完全に予想されている現代においてもまだ一部の人には畏怖されるもののようです。

メキシコ、ユカタン半島ではではスペインからのキリスト教宣教師たちが焚書をしたのでマヤの書物が現存していないことが残念ですが、現在残っているマヤ文字(古典マヤ語)で書かれた書物は絵文書(codex)といって4つあります。

そのうちのドレスデン絵文書の51ページから58ページには8世紀の33年間に起こる日蝕の予測が正確に書かれているそうです。また火星や金星の運行表や会合周期などの記述もあり、マヤ文明が天文学に通じたことの確固たる証拠として現存するものです。

その他に日蝕の記述はマドリッドとパリの絵文書にも記載があるようです。(地名はその絵文書が保管されている場所の名前)。ちなみにチラムバラムの書やポポルブなどはマヤ語の口述筆記によるものでマヤ語をアルファベットで表記して書かれたもので、マヤ文字で書かれた文書ではない。

トルテカ文明がその他のメソアメリカの各部族に影響を与えたとされる人身御供の儀式はアステカや後期マヤでも彼らのカレンダーに合わせて行われていたようです。ほかの部族からの捕虜が選ばれ、その血と心臓を太陽がまた昇ってくるために捧げられたようであり、後期マヤやほかの文明でも皆既日蝕の日にも儀式は行われたのではないかと考えられています。

村人たち

 私たちを車で案内してくれたカルロスはNAZAの町の近くの村の出身で、もっと若い頃は多数の北部メキシコ人の例にもれず、米国へ出稼ぎに行っていたそうです。しかし自分の生まれた村で農業をしてのんびり暮らすライフスタイルのほうがいいと、数年前に戻ってきたのです。村の周りの濃い緑の畑に植えてあるものはアルファルファ(ムラサキウマゴヤシ)で、馬を育てることで村の経済が潤っているというのもメキシコっぽいなと思いました。ここら辺の子供は9歳ぐらいでもう自分の馬に乗ってその世話して家の手伝いをするそうです。大きな馬に乗った小さな子供が村の中を闊歩していたのです。もしかしたらちょっと雑貨屋まで買い物を頼まれただけなのかもしれません。

砂漠を流れる川

 周りの砂漠の厳しい自然条件にもかかわらず一本の川が人や動物たちを育て生きてゆくことを可能にします。ただ川があれば生きていける人々はとても逞しいのですが川がないと全くの無理ゲーです。オアシスと砂漠のコントラストは激しいのです。米国の都会から帰郷するメキシコ人を見て、幸せを感じるということとはとか、自由とは何かと考えさせられました。厳しい自然の中で川を頼りに生きていくことはとても難しく素朴であるのですが、先進国の都会と比べてこっちの生活がより幸せで自由を感じる人に実際に出会っていろいろ思うことがありました。

メキシコに有名なジョークがあります。昼間からハンモックで寝そべっているメキシコ人を見て、メキシコを訪れている米国人が、「お前は何をして生計を立てているのか?」と聞きました。メキシコ人は「俺は漁師で朝から魚を取って帰ってきた。」米国人は「なぜお前はもっと働かないのか?昼間からハンモックで寝そべってばかりで。」と言います。「もっと働いて一体何が得られるんだ?」とメキシコ人は返します。米国人は首を振りながら、「もっと働けばお金を稼いで自分の船を買って、たくさんの人を雇ってもっと魚が取れる。」「もっと魚が取れて何が得られるんだ?」「何って、自分ではもうそんなに働かないでリラックスする時間が持てるじゃないか。」メキシコ人は寝返りを打ちながら「そんなもんはもう持ってる。」

前夜

 ランチョに戻ってきたら、モレーロ州から車を運転してきた1組のカップルが到着していました。16時間ぶっ通しで運転してきたそうです。どうやら結局私たちと彼らだけが客で後はみんなランチョによく来る友達同士で、またバーベキューをしてます。私たちも軽く夕食を食べて明日に備えようと思いましたが嫁さんと娘がテントに入ってから、私はまた天気予報と地図を見比べてなかなか寝付けません。明日の朝曇ってたらどうしよう?ここを出発して曇ってないところに着くために何時間かかって、そのために何時までにここを出る決心をするのか?どのルートで車を走らせるか?眠れない夜の携帯電話の画面とのにらめっこは続きます。

当日

 朝起きたらまず空を見上げました。微妙な空模様。今のところ空はほぼ晴れているのですが天気予報によると天気は下り坂で東のほうから雲がかかってくる予報でした。取り敢えず朝食をとって天気がどうなるか見届けることにしました。ランチョの人たちは日蝕の前のブランチを用意し始めていました。一晩中牛の頭を一つ丸ごとでかい鍋に入れて煮込んでいたようです。牛の頭にそんなに食べれるところがいっぱいあることにびっくりです。

予報通りだんだん薄い雲がかかってくるように見えました。私はどうしようと悩んでいました。嫁さんと娘は判断は私に任したから私が決めろって言ってくれていました。嫁さんがランチョの人に聞いたらその人の友達が北東の街(トレオン)にいて、電話でそっちは曇っていると言っているとそうだと情報をもたらしてくれました。天気予報通りです。

今から日蝕を見る場所を探しに行くのは正直嫌でした。もし道端の訳のわからないところで見る羽目になったらとか、移動したから見えなかったとかいろいろ頭をよぎりました。でもとりあえず出発しなければいけない事態を考慮してテントからすべての持ち物、それに食べ物を車に入れて出れる準備を始めました。

出発できる準備ができたとき空を見上げると、あれ?もう、ちょっと月が太陽にかかってるではないですか!1時間時間を勘違いしていました。まだ1時間車を走らせることができると思っていましたがどうも勘違いだったようです。もう見れているのだからこれからどこへ行くなんて考えることなどない。ここで見よう!決心しました。今頃?って言われそう、、、。

皆既日蝕

 植えてあるクルミの木の周りの芝生に敷く敷物をまた車から出して、ランチョにあった椅子を借りて来てのんびり鑑賞が始まりました。座ったり寝転がったりといろいろ姿勢を変えて日蝕眼鏡をかけて見ていました。だんだん月が太陽を食べていくようでした。太陽が月のように欠けていくのです、それも数分ごとちょっとずつ。

携帯電話のカメラのレンズに日蝕眼鏡を被せて写真を撮りましたが自動撮影ではうまくいきません。手動でいろいろ設定を変えると、スマホでも結構上手く写真を撮れるようになりました。記事の初めに挙げてある写真もフィルターなしで私のスマホで撮ったものです。もちろん特別なカメラや望遠鏡で撮る写真とは比べ物になりませんが、スマホだけでも写真が取れることに驚いてしまいました。

月が段々覆い被さってくると少しずつ涼しくなって来ました。周りが砂漠のオアシスの真昼間に涼しくなっていくのはとても変な気分でした。また木の葉っぱと葉っぱの間から通ってくる日光、木漏れ日が欠けて見えました。なんと説明したらいいのか、太陽が実際欠けて見えるように、木漏れ日の日光が欠けて見えました。ピンホールカメラエフェクトと言うそうです。

重なっている時間

 昼の12時前に始まった月が太陽を段々覆っていくのが1時間少し経つと、月と太陽が完全に重なるのがかなり近づいてきました。どんどん涼しくなり、空の青が濃くなっていき、地平線の辺りが太陽が沈んだ後の夕方のように見えてきました。どんどん暗くなり、空は夜の暗さではないのですが独特の濃い群青色になって太陽の光がみるみる細くなっていき月の移動がその細くなっていく様で見れるのでした。

最後の一筋の太陽の端の一線が消えてしまい、月が太陽を完全に覆い隠し、2つの天体は完全に重なって見えるのでした。太陽の周りのコロナが地球を照らしているので夜の色ではないのですが星も見えるし、太陽はまぶしくなく、と言うか直接見えないので重なっている二つの天体を肉眼で見ることができました。

夜でも夕方でもない特別な色に染められた空と景色の中で、私たちは見上げ立ち尽くすことしかできませんでした。鳥肌が立ち呆気にとられる天体ショー。唖然として開いた口が塞がらない、目が離せないとはこのことです。もちろん周りの景色や不思議な空の色も見るのですがその原因は空の高いところにある2つの天体のせいです。神秘的という言葉がぴったりくる4分28秒間でした。実際は時間の感覚などなかったのですが。

完全に重なっている時間が過ぎると月がほんの少し通り過ぎるのでまたほんの1筋の太陽が月の脇から見えます。その光のまばゆさに驚いてまた慌てて日蝕眼鏡をかけました。あんなに小さな細い太陽の一点がこんなに眩しいことに、太陽の明るさ、強さを感じないではいられませんでした。太陽の恵みは伊達ではないのです。また少しづつ月が動いていき今までとは反対側の太陽が現れてきて太陽の欠けが反対になっていきます。空の色や景色がまただんだんと変わっていき少しづつ明るくなって、暑くなっていきました。1時間と少しかけてまた元の日常に戻りました、ただその数分の感激の余韻を残して。

宇宙の法則

 月ほど大きい衛星が地球の周りを回って、地球からの太陽と月の距離がぴったりその見かけの大きさに合うという可能性と、地球に生命が生まれた可能性とどちらが高いのかは分かりませんが少なくとも私たち人類にとって一番身近かな宇宙の神秘だと言えるかもしれません。地球サイズの惑星の周りを回る衛星のサイズが月ほど大きいのは太陽系ではもちろん他に類のない比率であり、太陽系以外の恒星を回る惑星と衛星の大きさの比率でも今まで観測されている中ではかなりレアな大きい比率だそうです。

自然が生き物の生活に恵みを与えることにより我々は生きていけるのですし、この惑星の自然はこの宇宙の法則の中の一つです。我々があずかり知らないところで大きな法則は成り立っていて、それを我々は空を見上げることにより実感できるというのは、我々自身が神秘と呼べるものの中に含まれている証拠なのでしょう。

確率でいえばとても低いものでしょう。長い長い時間をかけて塵から宇宙が今のように存在し、太陽と月と地球が釣り合って、この惑星に水をもたらした。いくつもの生物が現れては消え進化を遂げ、お互いが共存しそれぞれが社会を作り家族となる。何千何万の精子の中からその時の卵子と受精し私が私として生まれ、今空を眺めようと砂漠のオアシスまでやってきた。

スティーブン ホーキング博士の言葉を借りるまでもなく、我々人類は宇宙の真ん中にいる存在ではなく、平凡な星のマイナーな惑星に住んでいるのだがそのことを空を見上げて観察することによって知ることができる我々は特別な存在だ。

我々は我々の知恵によって、自分達の首を絞めることをやめなければならない。こんなに確率の低いことが起こっているのは神秘であるし、感謝を忘れるべきではないし、チャンスは活かしたほうが幸せだ。幸せを幸せと感じられるうちに。


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