見出し画像

体育が大の苦手で、跳び箱で顔から落ちたことのあるわたしが考えたこと

体育も、図工/美術も、音楽も、だいたい学校教育で嫌いになっていくのが今の仕組み。
特段「得意」でない子にとっては、なおさら就学前には遊びの中で育んできた知性や才能が、教育カリキュラム・ルールや評価などで、楽しむことがどんどんそがれ、学びと成長は減っていく。

決まった時間内での目標成果なんてものが、就学後には常に付きまとい、才能を発揮する前に「NG」を食らってしぼんでいく。
小学校のとき、体育も大の苦手だった。逆上がりももちろんずっとできないでいた。何十年後のある日、大人のわたしは子供(当時4歳くらい)と一緒に公園に行って冗談半分に鉄棒をやっていたら、生まれて初めてくるんと自力で成功したことがあった。

普通に考えれば、大人になったら身体も重くなり、柔軟性は子供の頃より落ちるもので、「子供の頃はできた逆上がりができなくなる」のが一般的なものだろうに、「子供のときにはできなかった逆上がりができた」とはどういうことだろう。
体育の時間や休み時間などの制限された時間の中では到達できなかった逆上がり。
きっと小学生のときには腕や足、背中、お腹といった身体のあちこちのパーツをどう動かせば逆上がりになるのかをいうのを十分に試せなかったんだろうなと思う。何も考えずに身体を動かすだけでは逆上がりができる子たちもいる中、できない族だったわたしは教員や同級生の声かけに反応して理屈で解釈して身体を動かすに足る脳の回路も身体の反応もまだ発達していなかったのかもしれない。
このときの体験は、身体の可能性はいくつになってもある、という学習となった。もちろん加齢やケガ・障害等でできなくなる理由もあるかもしれないが、勝手に自分でいつの間にか決めた「できない自分設定」は無用・手放していい、ということだ。

絵を描いたり、何か物を作ることもそう。自分の内側からでるものを表現することを大事にして、その時間を無心に楽しめればいいのではないかと思う。音楽もそんなところがベースになるのだな、とボイトレを受けていて感じる。
いずれも他人と比べる必要はなく、自分のなかでの成長や楽しみが、表立っては「上達」と言われるベクトルになる気がする。また、一定の時間内での評価を受ける教育のスタイルから離れると、それぞれのペースやクオリティで充実した満足感が生まれる気もする。

発表会という場は成長具合のチェックポイントでもありながら、他人に見たり聞いてもらったりするという点では、自分がどれだけ本気で準備してその場に臨めるかという、世界に自分を問い・自分で答えを得るところかもしれない。試合(ゲーム)もその性質上勝ち負けというのも成果視点なのではあるが、そこでどれだけ身体的・精神的に対自分比で伸びたり柔軟になれたかという目線もうまれてくるかもしれない。

就学前のこどもの頃のような楽しみ方のままで体育・図工/美術・音楽を続けられれば、包括的に日本語・英語・算数/数学・理科・社会といった教科の学び力にも、良い影響しか生まれないのではないかと思うのは、「受験」社会の中では夢物語なのだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!

ケィティ(Katy)
読んでくださってありがとうございました。 もしもサポートいただいたなら、明るいことや良い氣分の循環につながる活動に使います。