ないと言われてもあるし、ないものはない
新興巨大団地で育ったわたしには、現存/機能している「故郷」はなく
その機能を果たせる実家という存在もほぼなく
現在明確に所属しているコミュニティも自分の家族を除けばない
ほぼ、社会の孤島といってもいい立ち位置なのは自覚がある。
根無草とはよくいういけれど、こんな暮らしが長いくせに
それが自分のことのような気はしていなかった
孤立はあんまりにも当たり前で、SNSがある分だけ私史の中ではかなり交流をもてているほうだというのもあるだろう。
でも最近、この地方にやってきて7年以上が過ぎて
自分はいわゆる根無草だったのかもしれないと、ようやく気づいた
【根無し草】ねなし‐ぐさ
1 地中に根を張らず、水に浮いている草。浮き草。
2 浮き草のように漂って定まらない物事や、確かなよりどころのない生活のたとえ。「行方も知らぬ根無し草の旅」
デジタル大辞泉より
浮草のような草
根を貼らずに生きている草
「よりどころ」のない生活
そうか、わたしは根無草だったのか。
どこにも帰る場所はない。執着をした場所もない。
辞書を引いたら腑に落ちた
地中に根を張らずに生きること
まぁ、それはそれで生存戦略なんだからなにがいけないんだろう、と瞬間的に思ってしまったけどね
今回の文中写真は写真AC様からお借りしました☆
そもそも、根無草っておかしくありません?(by浮草先輩)
そもそも浮草は「地に根を張らない草」であって「根がないわけじゃない」んですよ
ちっちゃいけど。
私たち浮草には浮き草なりの正しい根っこが備わっておりますのよ?
人聞きの悪い言い方しないでくださいよね、根無草、だなんて
貧弱かもしれませんけど、あるんです、根っこ。
ないとかいったらこの繊細な根っこがかわいそうじゃないですか。
土からいろいろ引っ張れるほどの強い根っこじゃございませんが
水からいろいろ引っ張ってこられる優秀なシロモノだと、おもっておりますの
住処も決まっておりませんけど
ここじゃないどこか、は、わたしにとっては現実ですわ
それよりも、本当の根無草はこちらのかたがたじゃございませんの?
彼らは本当に根っこがなくて、空中の水分で暮らしていらっしゃいますのよ
わたしなんかが、根なしと称するのはおこがましいばかりのお話ですわ(^^)
全身から必要なものを吸収なさるなんて物凄いことですわ。
彼らにとってのこの世界は、きっとわたしなんかがみているものより遥かに豊かではるかに渇いたものなのでしょう。その証拠に彼らは充分な水分と養分さええることができれば50センチくらいにまで巨大化するそうですから…
わたしはしがない、水面の浮き草
優しい根っこで、たゆたい生きます
浮き草さんにも根っこはあるよ
浮草について考えていたら脳内に発生した浮草さんに怒られてしまいました
彼女たちには彼女たちなりのプライドがあるようです
しかも、上述のエアプランツ巨大化計画のサイトを見ていたら、エアプランツも根っこあるじゃないですか!!知りませんでした。
むしろ根がないのはシダや苔や海藻です。彼らにもあると言えばあるのですけど、見た目的な機能ではたしかに浮草よりも普通の植物に近い機能を有していると言えるでしょう。「根ざす」ための「根」としての機能です。たしかに通常は、地に付着/定着するための機能をもって、根とみなします。
それではやはり浮草を『根無草』というのは「通常のように地に根を張るわけではない草」とういう意味で、“普通の『根』は『無』い『草』” を意図した言葉だと考えられます。
ならばそれは他の日本語表現によくありがちな「いや、わたしの根っこなんて皆様方のように地にしっかりとはっていらっしゃるものではないので、根なしみたいなものですよー」って言う謙遜表現から「あいつは根なしだからな!!」っていう勝ち誇りマウンティングのネタになっていくっていうアレだったのではないでしょうか…考えるとちょっと「あぁー」ってなっちゃいますけど
ないんじゃなくてあるけどちがうだけ
日本では、「普通じゃ無いこと」を見つけては論う文化があります
ちょっと変わってるものには線を引いてその向こうへ追いやろうとします
そして同じとなる安心感を得て、その安心感のために相互監視をしています
ちょっと胸が小さければ貧乳/まな板/ペチャパイといい、大きければすぐ巨乳というのも同じで、わかる特徴はすぐにからかいや揶揄、いじめの対象になってしまいます。
浮き草にだって葉っぱも根っこもあるし光合成だってしてるんだけど、根っこの形と機能、住んでる場所がちょっとちがうだけで「根無草」なんて呼ばれてます。あるのに、根っこ。たしかに「大多数の根っこの基準からちょっとはずれてる」けど。
地に挿さる大きな根っこはないけれど、地を掴む細かい根っこの束もないけど
代わりに浮き草さんには大きなアドバンテージがあります
地に下ろした錨はないのです。
かれらは、所在を変更できます
それは、とても、とてつもない大きなちがいで
その存在自体が地に棲む植物たちからみたらおおよそ脅威のような
はたまたそれを超えた恐怖にしか見えないのかもしれません。
自分たちの最大前提である「居住地の固定性」から解き放たれた存在。
しかも、浮き草さん本人にとっては「居住地の固定性」自体が未知の概念です
だって、地に根を下ろすことが彼女たちにとっては未知の感覚/経験なのですから
「基本的に持っているはず」のもの
つまり、大抵の皆の根っこは地に深く根差して当たり前に大地から水と養分を吸い上げて生きているために移動できるという可能性はなく、移動の自由という概念は持ちえません。しかし、浮き草さんは地に自分を繋いでいないので、移動は自由ですし、地との連結という概念を持ちません。そういう根っこは持ちません。
みなが当たり前に持っているはずのもの=「根っこ」を浮草さんもたしかに持っているのに、もっているそれが共通に持っているはずの固定されているべき概念からはずれた異質なもの=「地に根差さなくてもいい根っこ」であると、いうこと。それは、浮草さんは地に縛られる必要がなくそれが故に移動できてしまうということです。植物であることで当然とおもうはずである前提から外れてしまった存在=「移動が可能、地に縛られていない植物」があるということは他の植物にとっては知らなければ知らないままでいた方がいい、可能性を見なければそのままで済んでしまう、楽でいられるような部分と考えられます。
「ありえないはずの自由を持っている」
その段階で、浮き草さんは、存在自体が破壊者となってしまうのです。
破壊者浮き草(そんなつもりは一切ない)
自分たちが当たり前で崩れないとおもっている概念をそもそも持っていないし崩されているのが当たり前な存在が浮き草さんなのであれば、その存在は存在自体で脅威です。前提が全くちがうところに立っているので、その立ち位置から発する浮き草さんの言葉の全てにその当然の概念を壊してしまうかもしれないという危険性が含まれていてもおかしくありません。いるだけで危ないです。
ある程度閉鎖的なコミュニティでは暗黙に共有されている前提条件があり、その前で人は自分を押さえたり我慢したりを意識的無意識的にたくさんしてしまいます。特に、日本の田舎町のような「育ってきた環境を共有したジモティ」が有力な地域では個人の小さな我慢やメンツや付き合いやつながりがいまだ大きな力を持っていますからなおのこと、皆がその前提のもと、その前提のせいにして、その前提のために動いています。いつ設定されたかもわからない、なんのために作られたかわからない、でも「ずっとそういうことになっている」そういうものに縛られているかのように、キチンと縛られているかどうかを相互に監視しあって、誰かがその苦労から抜け駆けで逃げ出したりしないようにしています
そんなところに浮き草ねーさんがふらりと入ってきたら
そりゃ、縛られ歴も短くて責任も負わされてない若者や子供は影響されてしまいます。そりゃ、年寄りどもはなんだあいつは!します。危険です。双方にとって、あんまりにも。
そういうのを本能的に分かってて、あぶねぇとおもったからきっと浮き草ねーさんたちは自分のことを「根無草」なんて呼んだんだろうな、なんて、完全に妄想なんですけど、大いなる共感と実感を持って考えてしまいました。村を、街を、渡り歩いた芸人のねーさんたち、行商人のおっちゃんたち、旅をすることを余儀無くされたり許されたりした人たちは、「いやいやあなたたちの方が素晴らしい人生を歩んでいますよ、うらやましい限りですよ」っていいながらいろんなものをすり抜けて行ったんだろうな、なんて、おもってしまったのです
都会は反対に、いろいろな人がやってくるのが当たり前なので、どんどんと前提条件が崩れていくのも当たり前の土地です。次々と新しい概念が入ってくるので、それを全て却下していくとしてもそれらの内容は知識として知らしめられてしまい、みながみな、知らない時には戻れなくなってしまいます。変容と需要が、都会の特徴なのでしょう。浮き草さんもそのような土地では危険を感じることは少なく生きることができます。
基盤とするコミュニティの有無
自分自身の生活が、大地に根を張るタイプのものか、それともちっちゃいじぶんでひとりでかき集めてフラフラしてるのかといえば、確実にわたしは後者です。そう。自覚なく人の当たり前を叩き壊してしまうタイプ。
コミュニティと言いましたがそれは地域コミュニティでなくてもよく、家庭だったりもするのでしょうけど、何かに属している限り、コミュニティを作っている限りはどのような場合でもそこ独自の文法が必ず形作られてゆき、みながそれぞれそこでの文法で生きているのだと思います。
わたしは残念ながら自他境界のない毒親の元で育ったために自身の生育してきたコミュニティを既に去っており、しかもそこの異常な文法を努力によって書き換えようとしてきており、さらにはいじめや引きこもりや貧困生活のために人付き合いの経験も(男性との付き合いはたくさんあったのですが(だめんずすぎてあれだけど))ほとんどないため、コミュニティというものを自身の基盤にすることができていません。反対にコミュニティへの参加経験が異様に薄いため、個動以外の経験がほとんどないため、そのせいで浮き草であることを活用したり自覚したりできずに大樹になろうと足掻いてきたようなところがあります。現場ではさながら湿気の多いところに放置されて腐れかけているエアプランツのようなもので、1人で移動することもできません。ねざす土はないのだから、どうにかしたらどうにかなるんじゃないかと思い続けて、ここまできてしまいました(どうにかなってない)
コミュニティを基盤において、そこを自分の帰るところして、そこを自分の自信の源として生きていくことに大きな憧れをずっと持っていましたけれど…
根なしの浮き草にも根っこがあるだけじゃなくて、エアプランツにも根っこがあるのです。異国の植物なうえに雑貨屋で売られてたりしてなんでこんなとこにいるんだよって自分でも思うけれど、それでもここにいるんだし、空気が全て源ならば、ならばでっかくなってやる、とやっと思えるようになりました。
「ない」や「いつのまにかおとしていた」「きがついたらもっていなかった」と向き合うのは大変です。とくに「ない」はどうしようもないので、難しいです。
憧れは、遠くにあるものにしか抱けない感情ですから
そのことに、やっと気づくことができたのです
きみたちへ
ぽんちゃん、ぽこちゃん
きみたちは、どこでそだつことになるだろうね
かーさんは、君たちが一番自由になれる場所でありたいとおもっているよ
かーさんが、とても不自由に、もがいてもがいて、いきてきたから
かろやかに、のびやかに、きみたちが自分自身を由として生きていけるよう
かーさんのフットワークの軽さを見せつけてやりたいとおもってるんだ
君たちの自信の源になるであろう「母」がしっかりたのしくやっていれば
君たちも、わたしなんかよりもっともっと自由に生きていけると思うんだよね
だからかーさんは
破壊者として生まれた過去もまるっとひとのみして面白がって生きていくよ
これからも、これからこそもね
かーさんはそんなことを考えて、今日も君たちに葉っぱを食わせようと思います
葉っぱも根っこも育て育て!今日の葉っぱは小松菜さんだよ
葉っぱが広けりゃ
光合成が捗るからね