08 幻月
私がその村を訪ねようと思ったのは、アルビンという行商人の話のせいだけではなかった。
確かに彼が私に話した、村にまつわる話に興味がなかったわけではなかったし、どうせ流れていく身なのだから少しの間だけ人と関わるのも一興かという気も多少はあったが、私を動かした一番の理由は別の事だ。
「それに近頃あちこちで人狼が出るって噂も出てるんですよ」
アルビンがそう言ったときに、私にははっきりと見えたのだ。
娼婦のような格好をした人狼の霊が、その方向を指さして妖しげに笑う姿が。
「ニコラスさん、着きましたよ」
アルビンの馬車でやってきたその村は、本当に小さくのどかな村だった。村の中には家が数軒……その中の何軒かは人が住んでいないようにも見える。おそらくアルビンが言っていた流行病のせいで空き家になったところなのだろう。
店らしい店は見たところパン屋ぐらいしかなく、目立つ建物は教会と集会場代わりの宿屋ぐらいで、他は農地と牧草地が広がる普通の村だ。
「気のせいだったか」
アルビンと話していたときに見えた人狼の霊は、確かにこの村へ行くとアルビンが言ったときに現れた。だが、この村にいるのは人間の霊しか見えない。それも生への未練はあれど、人に害なす類の霊ではなさそうだ。
「本当にのんびりするには良さそうな場所だな」
「ええ、本当に良いところです。ニコラスさんも宿屋にお泊まりですよね? ここのレジーナさんの料理はとても美味しいんですよ」
そう言ってアルビンはニコニコと微笑んだ。野宿には慣れているが、冬が近いこの季節に野宿をするほどせっぱ詰まってはいない。それに路銀ならそれなりに持っている。
「ああ、私も宿を借りることにするよ。流石にこの時期に野宿は辛いからな」
「そうですか、じゃあ行きましょう」
宿屋の女主人はアルビンに挨拶をした後、私を部屋に案内してくれた。
彼女……レジーナは私の緑の帽子と緑のマントに少し怪訝な顔をしたが「アルビンの紹介だからね、悪い人じゃないだろうさ」と、快く私を受け入れたようだ。確かにこの格好は他人から見れば怪しいだろう。私だってしたくてこんな目立つ格好をしているわけではない。
「ふぅ」
部屋に入り一人になり鍵をかけた後、私は帽子を取った。
据え付けられている鏡に、帽子の中に隠していた金色の髪と共に左右色違いの瞳がはっきりと映る。右目が青で左目が赤……これが私に生まれつき与えられた試練。この世の者とこの世ならざる霊が見えてしまう悪魔の瞳。
自分の顔をはっきりと鏡で見る。その瞬間だった。
「誰だ!」
この部屋には私しかいないはずなのに何かが動く気配がした。ネズミではない、これは明らかに生きている人間の気配だ。慌てて帽子をかぶるとベッドの下から少女がおずおずと申し訳なさそうに出てきた。
「ごめんなさい、リーザ、かくれんぼしてたの。そしたらお部屋に旅人さんが来て鍵をかけちゃって。ごめんなさい」
リーザと名乗った少女は今にも泣き出しそうな顔をしている。私はほっと溜息をつくと、右目の目線をリーザに合わせて少し屈んだ。
「いや、怒っている訳じゃないんだ。誰もいないと思っていたからちょっとびっくりしただけだよ」
私はマントのポケットをごそごそと探し、綺麗な紙にくるまれているキャンディーを何個かリーザの目の前に差し出す。
「くれるの? リーザ悪い事したのに?」
「驚かせてしまったからね」
「ありがとう。えーと」
もじもじしながら私の顔を見るリーザを見て、私は自分の過敏さを反省した。人の視線が気になるのだったら、もっと自分で気を使うべきだったのだ。子供に何も罪はない。
「ニコラス。呼び捨てで構わないよ」
「ありがとう、ニコラスさん。あのね、またお部屋に来てもいい?」
リーザがドアの前でちらりと振り向いた。
「別にいいが」
私がそう言うとリーザの表情がぱっと明るくなった。一体私の何が気に入ったのか全く分からないが、そんな顔をされるのも悪くないかと少しだけ思う。
「うん。ニコラスさんの髪の毛、今遠くにお出かけしてるママの髪の色と同じなの。だから髪の毛梳いてあげたいなって。それに目の色も凄く綺麗だったの……あっ、誰にも言わないから。またね」
どうやら帽子で隠したのは間に合わず、リーザには目の色を見られていたらしい。だが私の過敏さにリーザは何かを察したのだろうか、私が言う前に「誰にも言わない」と念を押した。
「気を使わせてしまったな」
私は部屋の鍵をかけ直しベッドに倒れ込んだ。ママの髪と同じ……そうリーザが言ったときに、リーザの後ろに見えた女の姿が脳裏に浮かぶ。
あれはリーザの母親なのだろう。だが自殺でもしたのだろうか、その首には縄が巻き付いていた。そしておそらくリーザは自分の母親が死んでることを知らない。
「…………」
知りたくもない悲しい事を知ってしまう、忌まわしき瞳。
この村の方向を指して笑っていた人狼の女の霊と、リーザの母親の霊。
窓の外から聞こえてくる子供達の声を聞きながら、私は微睡みの中に落ちていった。
「ニコラス、君がこの村の恩人だと言うことはよく分かっている。だがすまない、明日にはここを出て行ってくれないか?」
ああ、これは夢だ。
街に出る少し前に訪れたある村の風景。
「分かっている。元より放浪する身の私を信じてくれただけで充分だ」
私はそれ以上何も言わずに、テーブルの上に置かれた銀貨の袋を受け取った。
一晩の宿を借りるつもりで訪れた村で起こった人狼騒ぎ。私は村から出ることを許されず、全ての人狼を退治するまでその村に留められた。
毎晩人狼と思わしき者を処刑するしか村が生き残る道はない……。
隠れている人狼を見つけ出すことが出来る者、死んだ者が人狼であるか見えてしまう私、村人達の疑心暗鬼と推理。村はなんとか滅びの道から救われ、私も人狼に命を奪われることなく騒ぎは終わった。
だが異端者は常に追われる身。
全ての人狼を滅ぼしたその時、風が私の帽子を飛ばした。
「…………!!」
そして私の顔を見た村人達の目は、人狼を見るそれと全く同じだった。そう、青と赤の異なった瞳は人狼と同じぐらい村人達にとっては異端だったのだ。
私は二度と風で飛ばないように帽子を深くかぶり直す。
「では、この村の未来に祝福がありますように」
私は口先だけの祈りを捧げ村長の家を後にした。
神など信じていない、信じるものか。私にはこの世ならざる者が見えるのに、神も天使も見たことがない。私は目に見える物しか信じない。
緑の帽子とマントは自らを異端だと認識するための色。たとえ一時人と関わっても、それは一生続くものではないのだと自分に言い聞かせるための色……。
夕食を済ませた後、リーザは私の部屋に鏡と櫛を持ってやってきた。食事の際に聞いたところでは、リーザはこの宿の女主人であるレジーナに預けられているらしい。
そして人狼騒ぎはこの村の近辺では今のところ起こっていないと言うことも知った。アルビンがレジーナに「この前いた街では娼婦に化けた人狼が出たらしいですよ。でも退治されたそうです、誰がやったのかは知りませんがね」と言っていたから、私が見たのは多分その霊だったのだろう。
「髪の毛梳かせてもらってもいい?」
「ああ、よろしくお願いするよ」
リーザはベッドに腰掛ける私の髪の毛を丁寧に梳きながら色々と話してくれた。
美味しいパンを作るパン屋の話や、アルビンがいつも持ってくる珍しい物の話、そして自分の話。
「レジーナおばちゃんはね、ママのお友達なの。ママが良い子にしていてねって言ったからリーザずっとママのこと待ってるんだ。でもレジーナおばちゃんがとっても優しいから、リーザはママがいなくても大丈夫なの」
「そうなのか、リーザは偉いな。その櫛はレジーナから借りてきたのかい?」
よく見ると鏡と櫛、ブラシは全て揃いの作りになっていて、子供が持つにしてはかなり高価なな物だというのが分かる。
私がそう言うとリーザは首を横に振った。
「ううん、これはママがリーザにくれたの。リーザが大きくなったら使いなさいって」
リーザの母親がくれた物、と言うことは、このセットは母親の形見と言うことになるのだろうか。だが私の口からそんなことは言えない。言えばリーザは傷つくだろうし、第一霊が見えると言っても信じてもらえないだろう。
私は話を変えることにした。
「じゃあリーザはいつもこうやって皆の髪を梳いてあげてるのか?」
「ううん、パメラお姉ちゃんやカタリナお姉ちゃんはこの櫛は大事にしておきなさいって梳かせてくれないの。レジーナおばちゃんはくせっ毛で自分でやるからいいって言うし、リーザの髪の毛はまだ短いから上手に出来ないの」
「そうか」
「ニコラスさんの髪の毛はまっすぐで金色だからママみたい。リーザも大きくなったらママみたいに綺麗な金色の髪になるかな」
私は振り向いてリーザの頭を撫でた。リーザの後ろでは母親が同じようにリーザの頭を撫でている。
「なれるよ。きっとリーザはお母さんに似て綺麗な大人になるだろう」
しまった。
リーザの母親の姿が見えているので、そのまま「綺麗な大人」と言ってしまった。私はリーザの母親の顔を知らないはずなのに。
だがリーザは私の言葉に気づかなかったのか、照れくさそうに笑っただけだった。
「だったらいいな。あ、ニコラスさんにお菓子もらったから、リーザもアルビンさんからもらったトフィーあげる。口あーんして」
リーザはブリキの缶に入ったトフィーを一つ取りだして、私の口に入れた。甘くて香ばしい味が口いっぱいに広がる。
「ありがとう」
「えへへっ。ニコラスさんの目って赤と青なんだね」
「ああ。でも、誰にも言わないで欲しいんだ。皆がリーザのように受け入れてくれるわけではないからね」
胸に残る苦み。
所詮自分は異端なのだ。例えリーザが自分を受け入れたとしても、この村の全員が受け入れてくれるとは限らない。こうやって受け入れられていることさえも夢であるなら、覚める前にこの村を出たほうがいい。
だがリーザはこくっと一つ頷いた後、隣にちょこんと座り私の体に甘えるようにもたれ掛かってきた。あくびをしているところを見ると多分眠いのだろう。私は自分のマントをそっとかける。
「あのね、リーザのパパは赤い目をしてたんだって。でね、ママは青い目だったの。だからニコラスさんはパパとママが一緒にいるみたいで、リーザ嬉しいの。だから誰にも言わない。秘密にしておくね」
ふと顔を上げた。
そこにはリーザの母親が悲しそうな顔をして立っている。自分の娘を抱けない悲しさなのか、それとも何かを私に伝えたいのかは分からない。私は霊を見る瞳を持っていても、声を聞く耳は持っていないのだ。
「…………」
私はリーザの母親に一つだけ頷いた。私に何が出来るのかは分からない。だが、リーザが喜んでくれただけでも私の瞳はそれだけの価値があったのかもしれない。
多分リーザは口では大丈夫と言っていたが、やはり母親が恋しいのだ。ならば一時だけでもその役割を引き受けても良いだろう。
「ああ、二人だけの秘密にしてくれ。そうすれば、少しはここに留まっていられる」
返事はなかった。リーザは私にもたれ掛かったまま、すーすーと寝息を立てている。
私はリーザを起こさないようにそのまま目を閉じた。
明日はアルビンにビーズで装飾されたバッグが売り物にあるかどうか聞いてみよう。そして母親の形見をむき出しで持って傷つけたりしないようにそれを買う事にしよう。色は、青と赤を混ぜ合わせた紫がいい。私が旅立った後でも、いつも隣に両親を感じられるように。
「…………」
私は思わず苦笑した。私の存在はまるで幻月だ。
本物の月ではない幻の月。
だが、たとえ幻であってもそれで誰かが幸せになるのなら……私はふとアルビンの言葉を思い出した。
『それで皆が幸せになるのであればそれでいいんです。偽物の優しさでも、相手が気づかなければ本物ですからね。それでいいんです』
「そうか……」
体にもたれ掛かる軽く暖かいリーザの存在を感じながら、私は一粒だけ涙を流す。
私の目の前にいるリーザの母親は、何故か私を見て薄く微笑んでいた。