16 星を見るひと
星も凍るような寒い夜だった。
スパイスを入れたワインを暖めているヤコブの横で、椅子に座りながらディーターがビールを飲んでいた。部屋にはワインのいい香りが漂い、柔らかな光を放つランプが灯されている。ビールもヤコブが今年の麦で作った物でいい飲み具合だ。
「ディーターさんは最近よくオラの家に来てくれるけど、もしかして神父様とケンカでもしただか?」
ヤコブのその言葉に、ディーターは無言でビールを飲み干した。それを見てヤコブがクスッと笑う。
「図星だっただか?」
「そういう訳じゃねぇよ。ちゃんと飯も作ってきてるしな……それとも味見とか言って俺が飲みに来るのは迷惑か?」
「いや、オラは嬉しいけど、神父様が一人で寂しがってるんでないかなと思って」
「…………」
ディーターがそっぽを向いたのを見て、ヤコブは鍋で暖めていたワインをほうろうのポットに移した後、六分儀や毛布などを持って外を指さした。
「なぁ、ディーターさん。オラこれから庭に星を見に行くんだけど、よかったら一緒にどうだか?」
その唐突な誘いにディーターは目を丸くする。
「星? 星なんか見て何するんだよ」
「来年の暦を作ったりするのに必要なんだ。星の動きを読んで、来年の種まきの時期とかを決めたりするだよ。寒くて嫌だって言うなら無理にとは言わねぇけど」
ヤコブの持っている六分儀や星図は何だかちょっと面白そうだった。それに星を見て暦を決めたりするという話にディーターは少し興味があった。少なくともここで一人夜中まで飲んで帰るよりは、一緒に星でも見た方が面白いかも知れない。
「分かった、何だか面白そうだしつきあうか」
その言葉を聞くとヤコブはにっこりと笑い、暖かそうな上着と毛布をディーターに手渡した。
「暖かい格好しないとな。風邪でもひいたら神父様心配するだ。それにディーターさんの格好じゃ、寒くて星なんか見てるどころじゃなさそうだべ」
外はヤコブの言った通りかなり寒かった。吐く息が白く、見上げた星空も凍り付きそうに天高く澄み切っている。
「うわー、こりゃ壮観だな」
ディーターが夜空を見上げていると、ヤコブは近くの切り株に毛布を敷きそこに座る。どうやらそこがヤコブがいつも星を観測している場所らしい。
「ここ座るといいだよ。立ったまま見上げてばっかだと腰が痛くなるべ」
ヤコブはマグカップに湯気の立ち上るグリューヴァインを入れて、ディーターに座るよう促した。ディーターもそれを受け取り毛布を被る。
「確かにこりゃ寒いわ。毛布とかグリューヴァインとかねぇと凍えるな」
「でも今日みたいな凍えるぐらい晴れた日の方が、星がよく見えるだよ。ディーターさん、オリオン座の位置は分かるか?」
ヤコブが南の空を指さすと、そこにはオリオン座の特徴である三つ星が綺麗に並んでいた。この星座がよく見えるようになってくると、冬が来たという感じがする。
「オリオン座か……流石にそれは俺にも分かるな」
空に並んだ三つ星を見ながらディーターはボソッと呟いた。隣ではヤコブが六分儀を使ったり、星図を見たりしながら紙に何かを書き込んでいる。
「オリオン座の話は聞いたことがあるな。確か腕のいい狩人だったんだけどその力に奢りすぎてさそりに刺し殺されたって話だったか?」
グリューヴァインをすすりながらディーターは誰に言うでもなく呟いた。それを聞いたヤコブが六分儀を膝の上に置いて、同じようにグリューヴァインをすする。
「よく知ってるな、ディーターさん。色々言い伝えがあるけど、オリオンは『天上天下自分より強い者はいない』って豪語して、神様の怒りに触れてさそりに刺し殺されただよ。だからオリオン座はさそり座から逃げるように動くだ。また足を刺されないようにってな。何事も奢りすぎたらいけねぇって事だな」
「頭の痛い話だな」
白い息を吐きながらぼやくディーターに、ヤコブがクスッと笑う。
「星の動きは人の心の動きになんとなく似てるだよ。じゃ、次は冬の大三角を探すだ。オリオン座の脇の位置にあるベテルギウスと、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンを繋げた三角だべ」
「星が多すぎて……あ、何となく分かった。あの明るい星を三つ繋げりゃいいんだな」
「で、その三角形の中に一角獣座が…」
「待て、いっぺんに言うな。ただでさえ星が多くて訳分からねぇんだ」
ヤコブは本当に楽しそうに星を見て、その度に色々なことをディーターに教えた。冬の大三角の中を天の川が通っていることや、おおいぬ座を狼に見立てる所もあるなど、星の話をするヤコブはいつも皆の前で見せているのとはまた別の顔だった。
多分村の人間は、ヤコブが星を見て暦を作っていることは知っていても、これほど星に詳しいことは知らないだろう。「こんなに星のこといっぱい喋ったのはディーターさんが初めてだ」とヤコブ自身がそう言っていた。
「すごいな、ヤコブ。こんなに星に詳しいなんて意外だぜ」
ディーターがそう褒めると、ヤコブは照れくさそうにグリューヴァインを一気に飲み干す。
「いや、大したことないだ。オラ達農夫はお天道様次第で作物の出来とかがかなり違うから、生活の知恵みたいなもので教えられただよ。星の動きで先を知れば来年何を作ればいいか分かるからな」
多分それだけではないだろう、とディーターは思っていた。
生活の知恵なら暦の作り方だけを学べばいいのだ。星の運行とそれに関する話までを覚えていて、何も見ずに人に説明できるということはそれだけ星が好きなのだろう。ただ、それを他の村人に教えてないのは何か理由があるのだろうか。
ディーターはふと思いついたことを言ってみた。ヤコブはこの質問に何と答えるだろうか。
「来年はどんな年になりそうだ?」
その言葉を聞いた途端、ヤコブは急に寂しそうな顔をした。そしてゆるゆると首を振る。
「それは言えないだよ」
「何で?」
「オラが分かるのは星の動きと暦だけだ。それに来年どうなるかなんて分かっちまったら面白くないべ? 楽しみは先にとっておいた方がいいだ。ほら、牡牛座が綺麗に見えるだよ」
ヤコブは何か隠していることがある。ディーターは直感的に思っていた。何がどうとははっきりとは言えないが、ヤコブの寂しげな表情は何かを察しているように見えたのだ。
もしかしたらヤコブは暦を作りながら星を読み、村の行く末も見ているのかも知れないと。
だがディーターはそれに触れないことにした。不用意に勘ぐってもろくな事にならないのは目に見えている。それに、村の誰にもしたことがないという星の話まで聞いているのに、信頼されている関係をわざわざ崩すこともない。
ディーターは軽く笑いながらヤコブの指さす方を見た。
「まあ来年のことは来年分かるか、って牡牛座って何処だよ。指さしただけじゃ分からねぇよ」
「うーん、じゃあプレアデス星団を探すだよ。オラの指先を真っ直ぐ見たら、六つの星が固まってるのが見えるはずだ。ディーターさん目はいいほうだか?」
「悪いように見えるか?」
「いや、どっちかってと目はよさそうだべな。じゃあすぐ見つけられるだよ」
満天の星の中から、ヤコブの指さす所に確かに星々が固まっているように見えるところがあった。やっと見つけられたせいもあって、ディーターは思わず子供のように喜ぶ。
「分かった分かった、あそこだろ? 六つ数えられるわ、やった」
「それだけすぐ分かればすごいだよ」
ヤコブはそう言いながらマグカップにグリューヴァインを注ぎ足した。そしてまた六分儀を見たりしながら紙に何かを書き付ける。
「あの星にも何か言い伝えとかあるのか?」
「その話を今ディーターさんにしようと思ってたところだったべ。あの星は天を担ぐアトラスの七人姉妹なんだ。ちゃんと一つ一つ名前が付いてるだよ」
その星の名はケラエノ、エレクトラ、タイゲタ、マイア、ステロペ、メロペ、アルキオネという名前だった。だがディーターは星の数と名前を数えて、一つ足りないことに気づく。
「あれ? 星は六個って言ったよな、一人足りねぇんじゃないか?」
手のひらに息を吹きかけながらディーターがそう言うと、ヤコブはニコニコと笑う。
「そうだべ。プレアデスは七人姉妹なんだが、目で見ると一人足りないだよ。望遠鏡とか使うと、もっとたくさん星があるの分かるんだけどな。ほら見てみるといいべ」
ヤコブが袋から取りだしたのは伸び縮みする小さな望遠鏡だった。かなり古いがよく手入れされていて、それを覗くと確かに六つ以上の星が固まっているように見える。
ディーターがそれに見入っている横で、ヤコブは話をし始めた。
「あれが普段六つしか見えないのは、メロペが自分だけ人間の所に嫁に行ったのを恥ずかしがって姿を消したとか、自分の子供が作ったトロイの街が崩壊するのを悲しんだエレクトラが彗星になって姿を消したとか言われてるだよ。それ以来残った六人が泣いて悲しんでるから青白くぼやけて見えるって……ディーターさんもそろそろ仲直りしたらどうだべ」
「そこに繋げるのかよ」
望遠鏡をヤコブに手渡した後、ディーターは無言でグリューヴァインを飲んだ。
確かに自分も先走りすぎたかも知れない。きっとジムゾンのことだ、自分が夜遅く帰っても何も責めず何も言わないだろう。ただ無言で自分のことを見つめるだけで。
「そろそろグリューヴァインも冷めてきたし、オラの観測も終わっただ。オラの作った美味しいワイン飲みながらチーズでも食べたら、きっとすぐ仲直り出来るだよ。それにオラ……村のみんなのこと大好きだから、誰かが誰かとケンカしてるのは嫌なんだ。みんなに仲良くして欲しい、ってのはオラのわがままだべか」
ディーターはその言葉を聞いて天を仰いだ。満天の星が夜空にきらめいて、それを見ていると自分がとてつもなくちっぽけに思えてくる。
多分ジムゾンは今頃一人の食卓で床ばかり見ているのだろう。そう思うと何だか急に可笑しくなった。
「分かった分かった、俺の負けだ。ここ片づけるの手伝ったら帰って仲直りするよ。もちろんワインとチーズはくれるんだろ?」
「オラが作ったので良ければいくらでもあげるだよ。それに教会まで馬車で送って行こうと思ってたしな」
毛布やポットを片づけながらヤコブがそう言う。ディーターは自分の目の前で手を横に振る。
「いや、一人で帰れるから大丈夫だ」
「ダメだよ。最近人狼が出るって噂もあるし、ディーターさんの事だから、もしかしたらワイン持ったままレジーナさんの所に行っちまうかも知れないべ?」
「ちっ、読まれてるな」
「ディーターさんの考えなんかお見通しだ」
ヤコブがそう言い一瞬沈黙した後、二人とも同時に大笑いした。
何だか分からないけど無性に可笑しかった。星の話から仲直りに無理矢理繋げたのが可笑しかったのか、それに容易く折れてしまったからなのかはよく分からなかったが、何だか無性に笑いたい気分だった。
だが、こうやって笑い合えるのは一瞬だということもディーターには分かっていた。
異端審問官であるフリーデルが本格的に動き出す前に何とかしなければならないこと、その為なら目の前にいるヤコブを騙すことも殺すことも厭わないこと。
共存なんか出来るはずがない。
そんな生ぬるい気持ちで街を出た訳じゃない。
人を喰らい、荒野を駆ける一匹の人狼として生きていくためにここまでやってきたのだ。
でもこの一瞬だけはそんな事を忘れてもいいだろう。最後にここで笑っていられるのはどちらなのかは分からないが。
薄暗い食卓でジムゾンは一人席に着きながら、冷め切ったポトフを見つめていた。
「私がいつまでも迷っているから……」
フリーデルが来た日以来、ディーターとジムゾンは必要最低限のことぐらいしか話さない日々が続いていた。村を襲撃しなければならないことは分かっていた。頭では分かっていたが、感情がそれに付いてこない。
リーザは多分ディーターの言うことに従うだろう。生まれつき人狼のリーザと、人間から人狼になった自分では考え方が元から違う。リーザにとって村人は良き隣人であり、それと同時に良き食料なのだ。だが、自分はそこまで踏み切れない。
今日もディーターはヤコブの所に行っているのだろうか。もしかしたら、こんな自分を見捨ててしまうつもりなのかも知れない。そう思った瞬間だった。
「神父様ー、ディーターさん送って来ただよ」
裏口のドアが開き、そこにヤコブとディーターが立っている。ディーターが手に持っているのはワインの入った革袋とチーズだろうか。
ヤコブはディーターと軽く挨拶を交わしたあと、ジムゾンに向かってぺこりと頭を下げそのまま小走りに去っていった。ヤコブが乗ってきたのだろうか、荷車の音が遠ざかるのが聞こえる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
何を言おう……でも余計なことを言ったらまたディーターを怒らせるかも知れない。ジムゾンがそう思っていると、ディーターは食卓の椅子に腰掛け足を組んだ。
「おい、何ボーっとしてるんだよ。ゴブレット二人分用意しろよ」
「えっ?」
ディーターは冷め切ったポトフを鍋に戻し、チーズをナイフで切り始めた。
「今日は襲撃の話とかそういうのは無しだ。ヤコブがくれたこれで仲良く一杯やろうぜ」
「えっ……は、はい!」
ジムゾンが涙目になりながらそう言うと、ディーターはジムゾンの方を見ながらニヤッと笑う。
「どうせここで一人ポトフ突き回してただけなんだろ? 飲んだり食ったりした後、一緒に星でも見に行こうぜ。リーザも誘ってさ……こんないい星空なんだから、なにもなしで散歩するのもいいだろ」
その言葉にジムゾンは頷くのが精一杯だった。
ヤコブは荷車に乗りながら一人空を見上げていた。
「悪い星が出てるだ……」
ディーターに「来年はどんな年になりそうだ?」と聞かれて、咄嗟に何も言えなかったのはこのせいだ。良い星が出てたのなら「来年もいい年になりそうだよ」と言えたのに、ヤコブはどうしても嘘を吐くことが出来なかったのだ。
何が起こるのか、誰の身に起こるのかは分からない。だが、秋口から星の動きがおかしい事には気づいていた。隣村のアーロイスが川で死んだことや、人狼が出て襲われてる人がいるという話もその前触れかも知れない。
「…………」
誰にも言えなかった。
星を読んで何かを知ったとしても、無闇に人を扇動してはいけないと代々教えられていたからだ。星を読む能力は下手すると予言と同じぐらいの影響力がある。ただの農夫にその力はあまりにも大きすぎる。
四年前の病のことも何かが起こりそうな予感はしていた。
そしてまた同じように災難の予兆が出ている……。
ヤコブが振り返ると教会には灯りが灯っていた。さっきまで暗く見えたはずの教会の灯りが星空よりも光って見える。
「オラに何があってもいいけど、村のみんなが幸せでいられますように」
ヤコブの祈りに答えるかのように、流れ星が尾を引いて西の空に落ちていった。