01 居待ち月

 月が綺麗な夜だった。
 普段闇を恐れて動かない者でも、月夜は別だ。そして、それが酒場で賭け事を楽しむ者達ならなおさらだ。まあ彼等には朝であろうが夜であろうが、酒と賭け事が楽しめるのならそれでいいのだが。
「……よし」
 ディーターはそんな酒場の雰囲気が好きだった。ちょっと安い酒でもあおって賭け事で多少の金を動かし、たまに気が向いたら儲けた金で女でも買う。明日の事を考えるのは明日になってからでいい。刹那的な生き方だと言われれば否定はしないが、いつ死んだっておかしくないような世の中でいったい誰が明日の保証をしてくれる?
「俺の勝ちだな」
 役の揃ったカードをテーブルにゆっくり広げて見せてから、ディーターは満足げにテーブルの上にあった小金を集め無造作にポケットに突っ込んだ。これで今日は屋根のある場所で眠れるうえ、しばらく酒代と掛け金には困らなそうだ。
「ちっ、もう一回勝負だ」
 カードを配ってゲームを続けようとする男達を手で制し、ディーターは椅子から立ち上がりパンパンとズボンの埃を払う。
「やめとけ、勝負は退き時が肝心なんだよ。勝ってても負けててもな。オヤジ、酒代ここに置いてくぜ。ああ……あいつらのぶんもよろしく頼む、余ったぶんは取っといてくれ」
 そう言ってニヤッと笑うディーターに男達は何も言えなくなった。いつもそうだ。ディーターは負けたときの退き時もよければ、勝ったときの相手への気遣いも忘れない。誰の言葉だっただろうか『勝負事では、弱い方に密かな同情と憐れみを注ぐこと。これが度量の広さというものだ』と言うのがあったが、まだそう年端も行っていないのにディーターには歓楽街で生きていくための貫禄のようなものがあった。
「じゃ、またな」
「ディーター! 負け返すまで、人狼に襲われるなよ」
「人狼? 馬鹿言うな、あんなのただの噂だろ?」
 人狼というものが噂になったのは、ここ数日の事だ。
 最初は街道の側で獣か何かに喰われたような犬の死体があった、というものから始まり、隣村で人が食い殺されたとか、目の光る人間を見たとか、人狼に襲われかけたなどと最近ではまことしやかな噂になってきている。
 馬鹿馬鹿しい……酒が頭まで回ってる奴等が言いそうな事だ。どうせ詳しく聞いたところで、実際は追いはぎや野犬の類だろう。ディーターがそう思って溜息をついたその時だった。男達の中から声があがる。
「嘘じゃねぇよ、この前死んだクラウスって奴がいたろ?」
「ああ、あの飲んだくれか。それがどうした」
 クラウス、というのはよくここで人に酒をたかっては飲んだくれていた、ろくでなしの名前だ。金もないのに賭け事が好きで、ディーターが勝つ度に『今度払う』と言っては、払いをしらばっくれていたような気がする。先日死んだという話は聞いていたが、酔っぱらって川などに落ちたか酒で体をやられたのだと思っていた。この街ではよくあることだ。
「あいつ、二日前に殺されんだよ。死体はひどいもんで……そう、首に大きな噛み跡があった。嘘じゃねぇ! 本当だ!!」
 ひときわ大きな声に酒場がざわめいた。だが、それに反してディーターの心はすうっと冷めていく。
「ふーん、まあせいぜい気をつける事にするわ。じゃあな」
 人狼……そんなものがいるのなら是非この目で見てみたいものだ。どうせこんな生き方をしていれば、自分も早かれ遅かれろくな死に方をしないのは目に見えている。ディーターは酒場から出た後、もう一度吐き捨てるように呟いた。
「馬鹿馬鹿しい」

 月夜の晩に心がざわめくのは、人も狼も同じかも知れない。あの真っ直ぐな光を見ていると、訳もなく心の底がくすぐられる。
「あらディーター。何だか羽振り良さそうじゃない、寄ってかない?」
「いや、今日はやめとく。そんな気になれねぇ」
 街角に立っている派手な化粧をした女達がすれ違いざまに呼び止めるが、ディーターは軽く手を振ってそのエリアを足早に抜けた。人狼の話にでもあてられたのか。それとも天に昇る月にでも見とれていたのか。
 ポケットの中の金貨を指で確認した後、腰に差しているナイフに手を回した。護身用とは言っているが実際喧嘩の時に使った事はない。酔っぱらいや自分のようなならず者との喧嘩なら、拳だけで事が足りてしまうからだ。無駄に刃物を見せて、相手をパニックにするのは馬鹿のする事だ。喧嘩にはルールがある。それを破れば酒場はおろか、この街にいられなくなる事は誰だって知っている。
 パチン、とホルダーを外し、鞘からナイフがスムーズに抜ける事を確かめた。普段から切れ味を確かめるために肉を切ったり果物を剥いたりするのには使っている。無論手入れを怠ったことはない。
 一、二度抜ける事を確かめた後、何だか急に笑いが込みあげた。
「俺は何を恐れているんだ?」
 馬鹿馬鹿しいとか言いながら、実際ナイフの抜き心地を試している。人狼の話を心底信じているわけではないが、何故か心がざわめくのだ。
 まるで何かの前兆のように。
「…………」
 自覚はしていないが、自分はかなり酔っているのかも知れない。こんな夜はとっとと落ち着ける宿を見つけて寝てしまうに限る。そう思ったときだった。
「ねぇディーター……あたしと寝ない?」
 薄暗い路地からかけられた艶めかしい声と、派手な衣装に安い香水の香り。ディーターは一瞬身構えた後その姿を確認し、気が抜けたように溜息をついた。
「なんだ、シャルロッテかよ。悪いな、今日はそんな気分じゃねぇんだ」
 シャルロッテはこの街の娼婦の中でもかなり人気のある女だ。一度も寝た事はないが、若くて美人なだけではなく人情に厚いところも人気の理由なのだろう。ディーターがつれない返事をすると、シャルロッテは急に不安げな表情になった。
「ねぇ……恐いのよ、クラウスがあんな事になって。寝てくれなんて言わないから、ただそばにいて欲しいの」
 ああ、そういえばシャルロッテはよくクラウスの面倒を見ていた。他にもいくらでもいい男はいるのに、何故かクラウスを見放さず自分の稼ぎの中からツケを払ったり、賭け事の金を出したりしていた。そう考えると彼女の孤独と恐怖は計り知れないものだろう。
 孤独を埋めるために誰でもいいから一緒にいて欲しい気は分からなくもないが、色事に首を突っ込むと厄介だ。ディーターは天を仰ぐ。
「俺がお前の孤独を埋められるとは思えないけどな」
「いいの。あたし、ずっと前からあんたの事見てたから」
 安香水と煙草の香りが鼻をくすぐる。
「クラウスはいいのかよ、死んだらそれっきりって訳か?」
「今はあんたしか見えない……」
「冗談キツイぜ」
 ふわっと羽が包むかのように自分に抱きついてこようとしたシャルロッテの体をかわそうとしたその瞬間、鋭い痛みが背中に突き刺さった。
「くっ……!!」
「逃げちゃダメ」
 それは女のものとは思えないほどの、ものすごい力だった。肩から回された腕がディーターの体を掴み、爪が背中に突き刺り肉を破る感触が全身に走る。
「おなかがすいたのよ、ディーター。クラウスは酒浸りで全然美味しくなかったけど、あんたなら、きっとあたしを満たしてくれる……」
 かろうじて自由になっていた左手でシャルロッテの体を離そうとしているが、背中に刺さった爪は容易に抜けない。彼女の目は爛々と赤く光り、口の端からは肉食獣特有の牙が覗いている。もしこれで喉元などに噛みつかれたら、自分の命などひとたまりもないだろう。
「畜生……!」
 ふと「人狼」という言葉が脳裏をかすめた。
 冗談じゃない。いつ死ぬか分からないと覚悟していたとはいえ、こんな所で下らない死に様を晒すわけにはいかない。女の色香に惑わされた様な死に方はしたくない。
 そう思ったと同時に体が動いた。
「シャルロッテ、お前はいい女だよ。一度は寝てみたかったぜ」
 背中に爪を立てられたまま腰からナイフを抜き、自分の体に爪が食い込むのも構わずに、左手でトン……とシャルロッテの体を押す。
「……人狼じゃなかったらな」
 ディーターの腰から抜かれたナイフが、鋭い動作でシャルロッテの美しい胸の中心に吸い込まれた。荒い吐息、ナイフから伝わる生々しい肉の感触、目を見開いたままの凍り付いたような表情……。
 背中に食い込んでいた爪がずるりと外れると同時に、シャルロッテは口から血を流しながら崩れ落ちるように倒れた。
「これで、終わりじゃないよ、ディー……ター……」
 近くを通りがかった誰かがこの騒ぎに気づいたのか、遠くなる意識の向こう側で悲鳴が聞こえた。痛みに耐えきれず思わず膝をつくと、ナイフを持っていた自分の手がシャルロッテの血で赤く染まっているのが見える。
「あんたも、道連れ……だ……よ」
「俺は死なねぇよ」
「今に……分かる、さ……」
 シャルロッテが最後に大きく血を吐き絶命したのを見た後、ディーターの視界は暗転した。
 死ぬとは全く異なる強く大きな鼓動。
 そして、遠く聞こえる誰かの呼び声……。

 何処か遠くで自分を呼んでいる声が聞こえる。
 一人荒野に立って、仲間を捜す小さな狼の遠吠えが。
 自分はその声を探して道を突き進む。仲間に会うために、そして群れとなって戦うために。
 遠吠えはやがて囁きとなって、自分の耳にはっきりとこう聞こえるのだ。
『早くここに来て』
『ひとりぼっちは寂しいの』
『仲間はどこなの、群れを作らなきゃ狩りは出来ない』
 ああ、今すぐ行く。
 その呼び声に答えるために、人を喰らい、荒野を駆け抜け行かなければならない。
 ………一匹の人狼として。

「…………」
 目が覚めると、そこは見慣れた宿屋の天井だった。カーテンの隙間から入ってくる朝日が目に眩しい。
「ディーター? 気が付いたのか」
 ずっとそばで看病していたのだろうか、ぼやけた視界に少しやつれたような酒場のオヤジの顔が見える。自分はどれぐらい眠っていたのだろうか、頭がやけにぐらぐらする。
「丸二日も寝てたんだ。もしかしたら危ないかもしれないって医者は言ってたが、見た目より傷が浅かったようで良かったよ」
 傷と言われディーターは背中に手を伸ばした。包帯を巻かれて手当てされてはいるが、思っていたほどの痛みはない。
「死ぬ気はなかったからな」
 そう言うとディーターは、あの時シャルロッテの血で赤く染まっていた右手をじっと見つめた。血は誰かが拭き取ったらしいが、完全に拭いきれなかったのか爪と指との間に赤黒く縁が出来ている。
「シャルロッテは?」
 ディーターの言葉にオヤジは残念そうに首を振った。
「シャルロッテは人狼だったらしい……お前さんが倒れた後、シャルロッテの牙と爪を見て教会から来た神父達がそう言ってたよ。ディーターは人狼を退治した街の恩人なわけだから、傷が治るまで安心してここにいるといい。金の心配はするな。まあ、後で教会から話を聞きに来るらしいがな」
「そうか……そうだ、俺のナイフは?」
「シャルロッテの死体と一緒に教会が持っていった。なんなら持ってきてもらうか?」
「いや、いい。もう必要ないからな」

 その夜、皆が寝静まった頃、ディーターは一人この街を後にした。
 あの時シャルロッテの言った『これで終わりじゃない』という言葉。確か自分が聞いた伝説では、人狼の爪や牙で襲われても死ななかった者は同じように人狼になるという。
 これは仮説でしかないがシャルロッテの取った客の中に人狼がいて、それが感染したとするのならこの街に居続けるのは危険だ。その事実を教会が知れば、自分は火あぶりにされるだろう。
 だが街を出るのはそれだけが理由ではない。眠っている時に聞こえたあの遠吠え。
『早くここに来て……』
 シャルロッテにあれが聞こえていなかったのか、それとも聞こえていて無視していたのかは今となっては分からないが、ただ目的もなく血に飢えた人狼として生きていくぐらいならあの声の主に会いに行ってもいいだろう。気に入っていたナイフはちょっと惜しいが、これからは自分の爪と牙がある。生きて行くにはそれで充分だ。
「どうせいつ死ぬか分からないような人生だ、こんなのもありだろ」
 空には昇りかけの欠けていく月が出ていた。
「立って待ってなくてもいい、座って待ってろ。これからそっちに行ってやるからな」
 十八夜、居待ち月。
 立って待つには遅いが、座って待ってるとそのうちに昇って来ると言われている月。
 その月の光が、荒野へ向かって駆け出していくディーターの背中を明るく照らしていた。

02 二十三夜待ち


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