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Were Wolf BBS ShortStory _約束の海

 彼がやって来たのは冷たい海からだった。

 それは嵐が過ぎた後の風の強い春の日で、空にはまだ低い雲がたれ込めていた。
 ここは海辺にある村で、近くにある教会に来て日が浅い私はまだあまり村に馴染めていなかった。
 海の側にある村なのに、海流などの関係で漁にはほとんど出られないらしい。近くには一本の大きな木が生えた海を見渡せる高台があるぐらいで、平らな土地に張り付くように暮らしている、そんな閉鎖的な村。一軒だけある酒場兼宿屋もたまに来る行商人達と、後は村人が集うぐらいにしか使われていない。教会は海から少し離れた場所にあるが、ずっと潮騒の音が鳴り止まない、そんな村。
「寒い……」
 まだ夜が明けてそんなに経っていないので辺りは薄暗い。そんな中、私は日課の散歩の為に砂浜の方へと歩いていた。
 海からの冷たい風が容赦なく私の体に吹き付ける。でも、私はこの時間が好きだった。
 誰にも会わないから顔を合わせて気まずくなることもない。曖昧な微笑みと、うわべだけの挨拶。それがないというだけでも気が楽だ。
 日課の散歩の目的は、ほとんど暇つぶしのようなものだった。楽しみがあるとしたら砂浜には時々異国から流れてきたらしき錆びた缶や、翡翠などが流れ着いているのを見ることだろうか。それを手に取ってしばらく眺め、満足したらまた海に戻す。この缶に入っていたのはビスケットやトフィーだったのだろうか。この翡翠はどこからやっててきて、どうやってここに流れ着いたのだろうか……それを想像するのが楽しかった。でも、何故か分からないが、海から来たものは海に還さなければという気がして、それを持ち帰ったりすることはなかった。
 坂を下りたら何もない砂浜が見えてくる。でも、その日はいつもと違っていた。
「あれは?」
 砂浜に人のようなものが倒れている。それが見えた瞬間、私は弾かれたように走り出した。
「大丈夫ですか!」
 赤い髪に、顔には目立つ傷跡のある背の高い男。死んでいるのかと思って少し揺り動かすと、彼は眉間に皺を寄せながらうめき声を上げた。
「うっ……こ、こは……?」
「喋らないで下さい。立てますか?」
 不思議と警戒心はなかった。肩を貸すように立ち上がらせると、しっかりとした重みと共に、彼の体がとても冷えているのが分かる。
「私の教会に行きましょう。いいですね」
 返事の代わりに、彼は小さく頷く。どうやら声を出すのも辛いらしい。
 私より背の高い彼に肩を貸して歩くのは大変だったが、その時は必死だったので重いとかそんな事は感じなかった。ただ、無事であって欲しい、元気になって欲しいとしか思っていなかったような気がする。
 教会に戻った私は彼をベッドまで連れて行くと、まず濡れた服を全て脱がせた。海水が染みこんで体に張り付いているせいで脱がせるのは大変だったが、冷えた服を着せたままでは体温が上がらない。
「取りあえず乾いたシーツやタオルならいくらでもありますから。今、何か体が温まる物を持ってきますね」
 そう言った瞬間、彼の手が私を引き寄せた。それはまるで海に沈んでいくかのようで、私は自然に彼に後ろから抱きすくめられベッドに引っ張り込まれるような格好になる。
「あ、あのっ……!」
 こんなに人と接触したのはいつ以来か。なのに、それが不快じゃない。彼が私の耳元近くでこう囁く。
「温かい……」
「えっ?」
 私の体温が彼の冷たい体に移っていく。それを感じながら私は黙って目を閉じ、風に乗って聞こえる波の音を聞いていた。

 彼は私に、ディーターと名乗った。
「ディーターは、どこから来たんですか?」
 春とは言えまだ寒いので部屋にはストーブが焚かれ、その上でやかんが湯気を立てていた。私の質問にディーターは椅子に座ったまま私を見上げ、困ったように首を横に振る。
「すまない、何も分からないんだ」
 ディーターの話す言葉は癖のない綺麗な発音だった。もしかしたら、船に乗っていて嵐に巻き込まれたのかとも思ったが、そうだとしたらディーターだけじゃなくて他の乗組員や、船の残骸、荷物などが流れ着いているはずだ。私はカップを二つ出しながら、質問を続ける。
「もしかして、何も覚えていないとか」
「そうかも知れない。名前は分かっているのに、どこから来たとか、今までどうしていたとかが思い出せない」
 そう言ったディーターの表情が寂しげだったのは、所在なくシーツにくるまっていたからだろうか。それとも何も思い出せない不安からだったのか。ディーターは髪をかき上げた後、手に着いた砂を遠慮しながら床に落とす。
「俺はどうしたらいいんだろうな」
 どうしたら。
 このまま寄る辺のないディーターを追い出せはしない。その瞳をじっと見て、私は紅茶の入ったカップをディーターの手に持たせた。
「ずっとここにいていいんですよ。村の人たちは少し閉鎖的ですけど、この教会には私しか住んでいませんし」
「でも、迷惑じゃないのか? えっと……」
「ジムゾンです。遠慮しないでください、この教会は広くて私一人じゃ持て余してしまいますし、誰かがいてくれたらって思っていたところだったので。もちろん、ディーターが嫌じゃなければ、の話ですけど」
 違う。
 そうじゃない。
 私はあの時、ディーターの体温を思い出していた。冷たかった体に熱が戻り、生気が蘇ってくる感覚。
 今までずっと一人だった。多分これからもずっと一人で生きていくはずだった。でも、ディーターの体温が孤独であることの寂しさや悲しさを思い出させた。
 ディーターの瞳に私の戸惑ったような微笑みが映る。それがすっと緩んだように細まった。
「迷惑じゃないのか?」
「迷惑だったら、こんな事言いません。それに、もしここから放り出されたら一体どこに行くんですか? 服だってまだ乾いてないんですよ」
「それもそうか。じゃあ、あんたの気が済むまで遠慮なく世話になるよ」
 ディーターにつられ、私も思わず頬笑む。
「ええ。ずっとここにいて下さい」
 その日から、私とディーターの不思議な生活が始まった。
 村人達は教会に急に増えた住人の扱いに戸惑っていたようだが、この村の人達が閉鎖的なのは今に始まったことではない。時折村にやって来る行商人や、隣村から野菜を売りに来る農夫に対しても決して心を開こうとはしないぐらいだ。海に面しているのにほとんど漁は出来ず、潮のせいで土地も痩せている。それでも先祖伝来の土地だからと細々と暮らしている人たちなのだから仕方がないのかも知れないが。
「海の側なのに、皆漁に出ないんだな」
 日課である朝の散歩のとき、ディーターが不意にそう言った。もう季節は初夏に変わっていて、朝の光が水面に反射している。海からの風は随分と暖かい
「潮の関係で、船を出せないそうなんです」
 本当に、そうなんだろうか。
 それは人から聞いた話で自分で確かめたことはない。次の言葉にに困ったまま、私はしゃがんで砂浜に落ちている貝殻を手に取った。ディーターは、まだ水平線を見つめている。
「だったら、釣りでもすりゃいいのに。この海だったら絶対美味い魚とかが捕れると思うんだけどな。そうだジムゾン、貝は食えるか?」
「えっ、ええ」
 そう返事をすると、ディーターはいきなり上着を脱ぎだす。
「待ってろ。今ちょっと潜ってくるから」
 海に向かって走っていくその姿に、躊躇いは全くなかった。何かを確信しているように、ディーターの姿はどんどん小さくなっていく。
「………」
 潮風が私の頬を撫でる。でも、私は砂浜に立ちつくしたまま呆然とディーターが消えていった水面を見つめていた。
 もし、このままディーターが上がってこなかったら。
 突然海から来たように、また海へ還ってしまうかも知れない。ブリキの缶や翡翠のように、ディーターも海へ消えたまままた何処かに行ってしまうかも知れない。そう思うと、体が小刻みに震えた。
「ディーター……」
 小さく呼んだ名は風に消える。
 また一人になるのか。また、誰もいない教会に戻らなければならないのか。そう思うだけで胸が苦しくて仕方がない。狂おしい感情が私を支配し、靴やズボンの裾が濡れるのも構わず、私は波打ち際に走っていった。
 寄せては返す波が、私の足下を洗う。こんなに潮騒が響いていたら私が呼んだ声など届かないかも知れない。
「ディーター!」
 ディーターの上着を持ったまま、私は名前を叫ぶ。
 でも、何度叫んでも返事がない。そのうちそれは絶叫のように辺りに響いた。
「ディーター! ディーター!」
 すると笛を吹いたような呼吸音の後、ディーターが水面に顔を出した。無邪気に手を振りながら、立ちつくしたままの私に向かって泳いでくる。
「久々だから、あんまり長いこと潜れなかった。ジムゾン、もしかして心配してたのか?」
 ディーターの顔を見た途端、涙が溢れた。無事だったこと、ちゃんと戻ってきてくれたこと。ディーターは、そんな私の顔にそっと触れる。
「だ、だって、このまま戻ってこなかったら、って思ったんです。海に、還ってしまったらって」
「還らねぇよ。それに、気が済むまでいろって言ったのは、ジムゾンだろ」
「でも」
「心配性だな、ジムゾンは。でも、ちゃんと言わないまま突然潜って行った俺も悪いよな、ごめん。美味そうな貝捕ってきたから、帰ったら一緒に食おう」
 そう言うとディーターは、ポケットから貝を出して私に見せた。

 海から来たディーターは、海に愛されていた。
 貝や魚を捕る名人だったし、ディーターと砂浜に行くと色々な物が落ちていた。翡翠だけではなく、装飾品や金貨、屋根を補修するのに丁度良さそうな流木、時には見たこともない大きな魚。それをディーターは「海からの贈り物だ」と持って帰り、私との生活に役立てる。
 村人達もディーターを真似して潜ってみたり竿を出したりするのだが、ディーターほど上手には行かなかった。
「もしかしたらディーターさんは、海の近くにいたのかも知れませんね。この村で塩漬けの魚を仕入れられるとは思ってませんでした」
 行商人のアルビンが、交換用の衣類や紅茶を出しながら笑って言う。アルビンは、二ヶ月にに一度ほどこの村にやってきて嗜好品や生活必需品を売ってくれる。ディーターの身の上についても理解し、何かあったら行商人仲間に聞いてみると言って情報を集めたりしてくれていた。残念ながら、今のところ手がかりになるような話は一つもなかったのだが。
 ディーターは自分の手についた塩をパンパンと音を立てて払うと、アルビンに向かってふっと笑った。
「そうかもな。どこに魚や貝がいるとか何となく分かるんだ」
「でも、まだ長く潜られると時々心配なんです。時々突然海に向かって走るんですから」
 紅茶を用意する私にディーターが困ったように溜息をつく。
「ジムゾンは心配性なんだよ」
「ディーターさんが心配させるようなことをしているんじゃないですか? 神父様をお一人で待たせたりしていそうですし。あんまり寂しがらせちゃいけませんよ」
 今日の海は穏やかなようで、あまり潮騒の音がうるさくない。笑い声が部屋に響き、ゆっくりとした時間が過ぎていく。
「そうなんです。ディーターってば荒れてる海でも平気で行くんですから、心配だってしますよ」
「大丈夫だって。そう簡単にくたばらない」
 そう、ディーターが笑ったときだった。アルビンが何かを思い出したように、ふいと顔を上げる。
「そう言えば、神父様には耳に入れておきたいお話があったんです」
「何かあったんですか?」
「ええ、神父様は『人狼』の話を知っていますか?」
 人狼。
 それは人に紛れて暮らし、夜になると正体を現して人を喰らう忌々しい化け物。
 私はその存在を知っていた。いや、その存在を探し出すのが私の神の使徒としての役目だった。神の声を聞き、人に化けた人狼を見つけ出す。急に自分の使命を思い出し、頭の何処かがシンと冷えていく。
「人狼って、人を喰うアレか。それがどうした?」
 ディーターの言葉が何故か遠い。
「いえ、最近この辺りで人狼の噂を聞くことが多くなったんで、お二人とも気をつけて下さい。この村の人はよそ者に厳しいですからって、こんな事を言ってはいけませんね」

 もし、ディーターが人狼だったら。
 海からやって来て、自分の過去を何もかも忘れている人。でも、私にとって大切な人。
「…………」
 真夜中に目が覚めた私は、黙ってディーターの寝顔を見ていた。カーテンの隙間から差し込む月明かりが眩しい。
 ここでディーターが人狼かそうじゃないのかを知ることは簡単だった。でも、もしディーターが人狼だったら私はどうしたらいいのだろうか。殺すことは簡単だ。人狼は化け物とは言え、無敵ではない。人と同じように死ぬ生き物だ。
 私にディーターは殺せない。そう思い、ゆるゆると首を振る。
 ディーターが何者であろうと、私は彼を愛している。ここでディーターに何も言わず密かに調べることは、ある意味裏切りだ。そんな事は出来ない。
「どうした?」
 ずっと見つめていた事に気付いたのか、ディーターがそっと目を開ける。
「……嫌な夢を見たんです」
 嫌な夢。
 そう、きっと悪い夢だ。人狼という言葉を聞いた不安感も、ディーターの正体について疑ってしまったのも全ては夢だ。そう思っている私の体を、ディーターがそっと抱きしめる。
「そうか。俺が側にいるから大丈夫だよ」
「そう、ですよね」
「本当にジムゾンは心配性だな」
 抱きしめられたままベッドに入ると、ディーターが耳元でくすっと笑う。それが何故か悲しくて、私は涙を流していた。
「だって、もし、貴方がいなくなってしまったらって。人……狼……」
 その後は言葉にならなかった。人狼だったら、人狼に殺されてしまったら、人狼だと思われてしまったら。私は子供のように、ディーターの胸で泣きじゃくる。
「…………」
 ディーターは私が落ち着くまで黙って髪を撫でてくれていた。
「ジムゾン、明日は朝じゃなくて夕暮れに海に行かないか?」
 私は言葉の代わりに、二回頷く。
「だから今はゆっくり寝よう。ジムゾンが寝るまでずっと起きてるし、どこにも行かないから」
 満ちてきた波の音が、ずっと寄せては返し響いていた。

 夕暮れの海に来るのは久しぶりだった。この村に来てから毎朝の散歩はしていたが、夕暮れ時は何かと忙しく海に出てくる暇がない。海全体が金色に光り、私はディーターの後ろを歩く。
「ジムゾン、足だけでも海に入らないか? 今日は暑いからきっと気持ちいい」
「そんな事言って、そのまま沖に潜ったり……」
「しないよ。今日はジムゾンと一緒にいたいんだ」
 そう言ったディーターの表情が優しくて、私は思わず俯いた。靴を脱いでズボンの裾をまくり、恐る恐る波打ち際に近づく。
「そんなおっかなびっくり入るなって」
 季節は夏になっていて、海の水の冷たさが心地よい。ディーターが差し出した手を取り、私は少しずつ海に入る。
「冷たい」
「でも気持ちいいだろ?」
「そうですね。この海を見ていると、どうしてこの村が寂れているのか不思議になります」
 海の側なのに閉鎖的で静かな村。でも、夕暮れの海はそんな事を思わせないほど美しい。するとディーターが眩しそうに水平線を見つめる。
「海から何か持っていこうとするだけじゃ、海だって何も与えてくれないさ」
「…………」
 その言葉が砂に染みこむ水のように、私の中に入ってくる。確かにディーターは魚を捕ったりするのが上手だったが、必要以上の物を捕ったりはしなかった。アルビンに売ったりする分も生活の必要最低限の為という感じで。
 そんな事を考えていると、ディーターが話を続ける。
「ジムゾンが海で見つけた物を海に還してたように、こっちからも何か返さないとダメなんだよ。それが分かってないから寂れるんだ」
「じゃあ、ディーターもいつか海に帰ってしまうんですか?」
 津波のように押し寄せる不安。
 海から来たディーターは海へと帰ってしまうのか。そうなったら私は一人だ。寂しいという気持ちを覚えてしまった私は、もう一人には戻れない。
「………」
 ディーターは黙って私を見ている。お互いの視線が交差する。
「お願いです。約束して下さい、私を一人にしないって。ディーターが何者でもいいんです。私の側にいてくれれば、それだけでいいんです」
 寄せては返す波。それに足下を洗われたまま、私は言葉を続けた。
「貴方が何者かなんて、どうでもいいんです」
 夕暮れの強い光に、ディーターの寂しそうな笑顔が儚く消えそうに見える。
「分かったよ、約束する。もし何かあったとしても、絶対ジムゾンの所に戻って来るって」
「絶対、そうして下さい」
 何故こんなわがままを言ったのか。絶対なんて言葉はあり得ない。それでもその言葉が必要だった。私はディーターに一歩ずつ近づいていく。
「本当に、俺が何者でもいいのか?」
「構いません。神を裏切ることになっても貴方と一緒にいたいんです」
 神など裏切っても良かった。一緒にいられるのならディーターが人狼でも化け物でも私は構わない。たとえその姿が変わってしまったとしても、私は絶対ディーターを見つけられる。
 沈む夕日がディーターの高い背に遮られ、私はその胸に黙って体を預けていた。


 ……月が満ちる。
『……大丈夫。いつかちゃんと戻って来るさ』
 ディーターが私の目の前から突然消えてしまったあの日、小さな声で私にだけそう囁いてくれた。だから私はとぎれがちな意識の底で、ディーターが帰ってくるのをあの日からずっと待っている。
 何も疑問に思わなかった。
 どうしてディーターが、私が海で見つけた物を海に還していたことを知っていたのか。
 どうしてディーターが、絶対戻ってくると言ったのか。
 もしかしたらディーターはずっと海の底から私を見ていたのかもしれない。一人で砂浜に佇み、水平線を見ている私を。
「ちゃんと還してあげますね……」
 満ちる月の下、私は一人で踊る。
 もうすぐ。もうすぐきっと戻ってくる。海から来たものを海に還せば、きっと海が私に与えてくれる……。

 月を見上げる。
 潮騒が辺りに響く。
 海から来た風が、一人踊る私の体を冷やしていく。

 だから、もうすぐ帰ってくる。
 夢と現実の隙間から。

 あの、約束の海から……。

 本編 満ち潮の夜
 後日談 波の行く先

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