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祭祀の多様性

旧官幣のお社で本殿、つまり御神体のない(厳密には神像や開けてはいけない箱に収まった石かなにか、ではない)神社はあまり多くはない。らしい。

こちらのお社は背景の山体が御神体で、本殿にも見える立派な建物は、拝殿なのだろう。

参道のわきを清流が流れている。


殷の祭祀は占いと人身供犠が不可欠で、周辺部族を祭祀のために大量に御供にした。
辺境民には辺境民の倫理観があり、正義はどちらの側にもある。
辺境蛮族には独自の職業倫理があって大邑に略奪を働いていたのかも知れないし、大邑側の人身御供は周辺蛮族に対するある種の「みせしめ」が発端だったのかも知れない。

古公亶父は異民族の侵入に渭水のほとりの邑を捨て、岐山の麓に逃れる。

なお追撃して奪おうとする蛮族と交戦もしない。
その理由は、国人にとって君主は必ずしも自分である必要はない。異民族の長でも悪くはないはずだし、敵でも味方でも自分の保身のために他人の父子を戦死させておいて君主の立場ではいられない。だからなのだそうだ。

後世が徳治主義を強調するあまり、過剰に脚色されている話ではあるかも知れない。

これが呂尚のような知恵者が有れば殷も討てようが、未だその時期ではないと易姓革命を否定した周の文王の父、武王の祖父「太公」なのだそうだ。

この身の軽さと殷とはまた祀る対象の異なる、「天」を祀るとした特殊性はまるで遊牧民、とりわけユダヤの民のようだなと、お宮参りの帰途なんとなく思い出された。