成敗!「アイデンティティクライシス」
駐妻(帯同家族)に起こりやすい「アイデンティティクライシス」とは何か。この言葉はなんだかかっこいいので、至るところで使われている。しかし、定義が曖昧でモヤモヤする。そこで、私なりに定義しなおしてみた。今、私はこの状態を脱しつつあると思うので、現時点での考えを共有する。
代表的な使われ方
この言葉が駐在帯同家族に使われる場合、「自分の意思や希望とは関係なく(主にパートナーの都合で)言葉が通じない外国での生活を突然始めることにより、自分のできることが急激に減り、自信を失うことや無力感に苛まれる状態」を指すことが多い。
経済的にパートナーに頼らざるをえなくなると(言語が堪能でなければ、生活の大部分を頼ることになる)、様々な意思決定権や自信を失う経験が重なる。さらに、日本での仕事を退職して帯同すると、これまで生活の大部分を占めていたアイデンティティ(社会人や会社員としての自己)がなくなり、「何者でもない自分」に戻り、「私は何者なんだ?何ができるんだ?」という迷宮に迷い込む。
このように語られることが多い気がする。
取り急ぎ、正しい(?)アイデンティティクライシスの定義はこちら。分かりやすいですね。
否めない「なんか違う」感覚
退職して帯同して以降、陰鬱な感情や「これで良いはずがない」という焦りに悩まされた。そんなとき、様々な駐在帯同家族の経験談を読んで【アイデンティティクライシス】の存在を知った。
しかし、「そうそう!これだ!」としっくりくる説明には出会えなかった。アイデンティティクライシスというかっこよく抽象的な言葉には、「なんか違う」「そうじゃない」という感覚が強かったので、関連するエピソードもピンと来なかった。
そんな中、最近、糸井重里さんと安宅和人さん(慶應大教授)の対談で、安宅さんが言った言語学習に関するエピソードが印象に残った。「単語を覚えても、その言語が使われる文化の中で生きていなければ、本質的には理解できない」という話だった。
私にも思い当たる言葉がたくさんある。コモンセンス、イデオロギー、ペアレンティング、コンプライアンスなど。日本語に訳せるし、上っ面の説明もできるが、子どもにも説明できるレベルかと言われると…【アイデンティティクライシス】もその一つだと思う。
なぜこんなにモヤるのか
自分の感情とこの言葉がフィットしない理由は、「アイデンティティ」、つまり「自分らしさや個性」は固まりきらず、ゆるく変わり続けるものだと思っているからだ。少なくとも私はそうありたい。新しくあり続けたいし、生涯を通して変化したいと思っている。
だから「自分らしさ」のクライシスは感じていない。私にとって「変わること」がアイデンティティであり、この「何者でもなくなる」経験はクライシスというより再発見だ。
「何者でもない自分」「いまは何もできない自分」でも、「こんなことが好きな自分」「本当はこうしたい自分」を少しずつ見つけていく過程だ。新しい環境でアイデンティティが一度曖昧になっても、再び築き直せると思っている。
私なりの再定義
アイデンティティの定義には、「自我同一性」という文脈だけでなく「社会における存在証明」という側面もあるらしい。
【アイデンティティクライシス】で指し示されるアイデンティティとは主に「他者や社会から認められているという感覚」のことを指しているのかもしれない。
「自分を認めてくれる存在、貢献できる組織、社会と繋がっている感覚、というものから一切切り離されたせいで、自分の価値がリセットされたような感覚になる」=これこそが、私の体験したアイデンティティクライシスだ。
でもあくまで「リセットされたような”感覚”」であって、本当にリセットされてはいない。その場その場で発揮できる価値は必ずある。
もしくは、これまで価値だと思ってきたことなんて、発揮できなくてもいいのかもしれない。「価値創造」のベルトコンベアから降りて、今一度あゆむべき道を見直す機会がきた。
今は、そう思えるようになっている。
この体験は人それぞれ。やっぱり、このかっこよさげな概念で一括りに語れるものではない。クライシスなんてメランコリーな名前をつけるな、ともやっとした気持ちになるのだった。