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相手の立場になれない毒家族

先日の記事に関して、他のご家庭での状況についてコメントいただきまして、ありがとうございました。他のご家庭でも構造が似ていることを知る機会になりました。実家と距離を置くことに対しても、罪悪感は持たなくて良いと思えて心強かったです。

さて、ここ最近は機能不全家族、毒親について私の考えや気持ちを綴っていますが、今日は「相手の立場になれない」について綴ります。


損な立場でない者

絶対的な意見を通せる側の毒親や、常に親から可愛がられるような得な立場の子ども(きょうだい)は、「自分が逆の立場になったらどう思うか」という視点が欠けているように思います。彼らは、「自分のこと」しか考えていなかったです。
一方で、損な立場にずっと置かれていた子ども(きょうだい)は、常に家族のことを優先するように仕向けられます。家族の問題と自分の問題を線引きしようとすると阻止され、巻き込まれるのが当たり前。
しかも、家族思いなのに、家族からは大事にされないのも当たり前でした。

相手の立場になれない毒家族

強い立場の毒親、得な立場の子ども(きょうだい)は、相手の立場で考える視点がありません。もし、彼らが「損な立場」に置かれたら、絶対に怒るはずです。でも、その家庭の中では立場が変わらず不動なので、想像することもないんです。

毒親は「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない」など、もっともなことを私に教えました。
いや…自分達はどうなんですか?子どもにしてるよね?自分のことには被害妄想が強いのに言動が一致していません…

正当な怒りを示すと「おかしい」扱い

蓄積した正当な怒りを毒親に示しても、「理解力」「共感力」がなく、「親は敬われるべき」という気持ちが強いため、「子どもはおかしくなった」「親に非常識なことを言うなんて」と解釈します。自分が正しいと思っているので。

私の父親は、教師を経験し、住職をしています。当たり障りない雑談くらいの関係なら、人当たりの良い優しい人に思われています。世間も、職業柄「常識があるはず」と疑うこともありません。また、例え非常識な言動があったとしても、指摘しづらい職業です。侮辱してはいけない空気がありますから。
こういった理由から、一般の方に比べて、他人から指摘や注意を受ける機会が少ない職業です。本人も「自分は尊敬されている」のが当たり前になっているので、余計に「自分の正当性」が助長されます。

それでも、まれにハッキリ煙たいことを言う方もあります。むしろ、その方は正しいのでしょう。
時に、寺に対して侮辱的な発言をする人もありますが、指摘する方が見ているのは、職業ではなくて「一般常識」「人間性」なのでしょう。
閉鎖的な家庭内・寺の中では正しいことにできるだけで、世間の目は騙せません。宗教が絡んでいて口出しできないため、世間が大人の対応をしてくれているだけです。それに、気付かないだけ。職業に見合わない人間性であることが、すごく恥ずかしいです。

毒親は、子どもの機嫌だけ見ている

毒親(毒家族)は、子どもの気持ちに寄り添う、共感する、子ども立場で考えることはありません。「わかったフリ」をするのが上手く、子どもは「わかってくれてるはず」と納得するために思い込もうとします。それが、成人後など長期間を経て「何もわかっていなかったこと」に気付いて絶望するんです。

彼らは、わかったような態度をして「子どもの機嫌」しか気にしていません。幼い子どもでも、泣いたり怒ったりする時には理由があります。その時の気持ちを理解しようとしない、できないんです。痛いとか、熱があってしんどいなど、「原因」については理解できるんでしょう。でも、気持ちがわからないので、「機嫌を取る」方法でしか子どもと関わっていないんです。
幼い時は、そんな時にお菓子や物を与えられて一時的に機嫌が良くなることもあるでしょう。でもそれは、子どもの気持ちに寄り添った理解ではありません。

これが、大人になってからも、「実家から欲しくもない物を与えられる」ことにつながるのでしょう。ずっと、精神的に対等に関わっていない状態。何か物を与えられる時にモヤッとするのは、子どもの頃から納得していなかった気持ちを思い出しているのではないでしょうか。

今日も通じない家族について綴りました。少しずつ自分の気持ちが整理されてきました。あとは自分の人生に集中するだけです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




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