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寺は親の職場

寺に生まれ育つと、檀家や周囲の人からは、子どもも信仰心があって、嫁ぎ先も寺になると勝手にイメージされていることが多くてすごく嫌でした。今回は、私が「宗教」「信仰」についてどのように考えているのか触れていきたいと思います。

子ども時代は教育されて信仰心がある

子ども時代は、宗教が日常生活に根付いた環境で育ち、家族からも手を合わせるなど、先祖に対する関わり方を教えられるため、信仰心のある子どもに育ちます。子どもは純粋なので、親や周りの大人から褒められたり親が喜んでくれるため、信仰心を理解した行動をするようになります。でも、それは本人の信仰心から行動している訳ではなく、そうすることで愛されることを学習するからでもあります。その頃は、まだ自分が周りの大人から教育されていることに対して疑問は持っておらず、その時期は、本人も親も幸せです。

外とのつながりが増えると客観視するようになる

思春期を過ぎた頃から、外でのつながりや関わりが増えて、世間からの見られ方について客観視できるようになり、寺という家庭環境を周りに言わなくなっていきます。この頃に、世間では寺に対して「偏見」を持った人が存在することに気付くからです。檀家は、信仰心がある人達なので好意的に関わってくれますが、信仰心の薄い人やない人に関わる機会が増えることで、自分の家庭環境を初めて客観視し、恥ずかしく思う気持ちも芽生えるのです。それと同時に、自分の親の価値観や考え方が、世間とはズレていること、世間では通用しないことなどに気付き、違和感が大きくなっていきます。私は、この感覚が芽生えたのは大学生頃でしたが、自分に社会性が身に付いたこと、親から染められていたことに気付いた時期でした。

親の自営業に付き合って育っただけ

子どもは、たまたま寺に生まれて「親の自営業に付き合わされている環境」で育っただけなんです。中には、生まれ育って成人しても、ずっと信仰心のある人もいるでしょう。でも、全員がそうではないと思います。若いうちに違和感に気付いた人は、大学進学を機に家を出ます。(家を出る方法とタイミングを考えます。私の経験上、就職のタイミングでは遅いです。)この時に、遠く離れた地域に進学、就職、結婚するパターンが多いでしょう。親の近くにいると、ずっと手伝いから逃げられません。私は、気が付いた時には、自分が外に出ていく社会性も経済力も身に付いていないことに気付き、絶望しました。親にとって良い子であったがために、自分の人生の幸せより、親の都合のために生きてしまっていたからです。

寺は職業の1つ

後を継ぐ人達がいるから、寺は存続します。でも、全員が納得して順調に継ぐ訳ではありません。長男だからとか、仕方なく継ぐ人も多いはずです。私の印象では、仕方なく継がざるを得なかった人達は、「仕事」として割り切るようにして働いているように見えました。世間の人達が考える「純粋な信仰心」とは違います。純粋に真面目に寺の仕事をすればするほど、世間の感覚からはズレていきます。真面目に従事している家族は、世間から一歩離れて関わられ、家庭内での結束は強くなり、世間からの見られ方にも疎くなるように思います。真面目に従事するほど浮いてしまうって、皮肉ですよね。
同時に、客観性が身に付くことで、信仰心が強すぎる人に対しても、少し冷めた目で見るようになります。なぜなら、神も仏も、拝んでも助けてくれないってわかってるからです。信仰心を持ってストレスが軽減するのは悪いことではないですが、問題解決には、自分で何とかしない限り、何も変わりません。

多様性のある生き方はまだまだ浸透しない

寺だけではなく、後継者が必要な職業は、まだまだ「多様性」が浸透していないと私は思っています。結局、他人に継いでもらうのは信用などの面でリスクもあるからです。子どもが納得して誇りを持って継ぐのなら、それはいいと思います。でも、そうじゃない場合は、不幸です。親が子どもの幸せを考えて、継がせることを諦める場合もあると思いますが、親は心のどこかで継いでくれることを期待しています。その気持ちが子どもには重く、ハッキリ言わない場合には、ズルさも感じ取ります。時代は令和になっても、業界、業種によっては、昭和初期どころか、明治、大正の価値観です。伝統を継承することは、そういう我慢や犠牲の上で成り立っています。これが、世間の人達が知らないであろう苦しい現実です。寺に生まれたら、自分のやりたいことを選んじゃダメなんですか?

客観視できるようになった今、子ども時代の考え方から順に綴ってみました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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