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声をあげることで変わる社会がある
声をあげないと変わらない社会がある。
声をあげることで変わる社会がある。
「ミソフォニア」があまり社会に知られていなかったり、治療法について、研究が進んでいなかったりする理由ってなんだろうと、考えていたのだけど、それについて、ここ最近思うことがある。
ここにきて、私は周りにミソフォニアについて話すことに全く抵抗がなくなった。
むしろ、話さなければいけないとまで思っている。
そんな中、当事者の方々が多く集うコミュニティでは、多くの人が周りにミソフォニアのことをカミングアウトできておらず、カミングアウトすることに躊躇している様子がしばし見受けられる。
ミソフォニアの症状で苦しみながらも、トリガー音を出す人を否定しながらも、
どうせ分かってもらえないと、ミソフォニアのことを伝えていなかったり、聴覚過敏のようなものだと、濁して伝えている人もいるようだ。
もちろん、これから書くことも含め、私個人の見解で、正解ではない。
ミソフォニアについて、社会の知名度が低い原因は、当事者の我々が、伝え方を濁したり、理解してもらえないと諦めているところではないかと思う。
ミソフォニアにかかわらず、どんなことでも、「言わんとわからん」ことがある。
特定の音に対して「否定的な感情になる病気」であることを当事者が、もっと発信していかないと、何も変わらないと思っている。
ではなぜ、分かってもらえないと諦めてしまうのか、正しい情報を伝えることができないのか、ここの詰まりを解消できたら、なんだか大きく前進するような気がする。
先日、夫がコンビニでお酒のツマミに、「はちみつ梅」を買ってきた。
夫は「カリカリ梅」が好きなのだが、その咀嚼音に苦しむ私にずいぶん冷たくされてきたせいか、この日は音が出ない、「はちみつ梅」を選んできた。
「カリカリ梅じゃなくてコレにしたの、私のせいだよね?」と聞くと、素直に頷いた。
私のミソフォニアが原因で、夫とは何度も喧嘩をしてきたが、夫は最近、日々の食事でも、なるべく音を出さないよう気をつけてくれてるようになった。
自惚れだけど、「これってまじで愛」だとおもっている。
そして夫が私に寄り添ってくれるよう、私も、ミソフォニアではない側の人々に寄り添わなければならない。いや、寄り添いたい。
何が言いたいかって、
声をあげることで変わる社会があるんだってこと。
そうである人、そうでない人を肯定したり否定したりじゃなく、いろんな人がいることを肯定できることが重要だってこと。
まとめ方がわからないけど、
次回は、ミソフォニアではない側の人のことについて、書きたいと思います。