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「The Last of Us Part II」が傑作でありながらも、「最高のナラティブゲーム」にはならなかった理由。

北米には「ナラティブゲーム」と呼ばれるジャンルがある。
「映画やテレビドラマのストーリーに似た構造を持つ」「物語体験を主体にした」ゲームを指す言葉で、とても人気があるジャンルと言える。
そして「The Last of Us」は、2013年(もうそんなに前なのか…)にリリースされ、ナラティブゲームの最高傑作となった作品である。

その続編「The Last of Us Part II(以下ラスアス2)」が、ついにリリースされた。

前作「The Last of Us(以下ラスアス)」は、ナラティブゲーム王道の文脈の中にも挑戦や斬新さが内包され、かつリリカルでリアルで残酷という本当に美しい作品で、個人的ベストゲーム5の中にもずっと入り続けたままです。もしゲーム好きでやってない人がいるならば、今すぐやったほうがいい。いえ、やってください。これ読んでる場合ではない。

一方、発売されたばかりのラスアス2。これが今とにかく全世界的にバカ売れしており、かつ賛否両論が巻き起こっているらしく、ちょっとゲームサイトでも覗こうもんならすぐ↑TOPのメインヴィジュアルが目に入ってくる状態なのでネタバレに出会う前にと、取り急ぎプレイすることにしました。忙しいとか言ってる場合ではない。

それで、駆け足でクリアしました。
ええもう、それは猛スピードで。
忙しいからじゃありません。

プレイし終えて、自分の受けた印象を端的に言えば、ラスアス2もまたひとつの傑作です。ゲーム制作になんらか関わる人ならそう認識する気がする。巨大な世界に行き渡った緻密なゲームデザインと技術力。グラフィック、モーション、敵AIなど、どれをとっても本当にすごい、凄まじい出来。

ですが。
それは、ラスアスを超えなかった。
なぜ超えなかったのかを、わたしなりにシンプルに理解しています。
シンプルすぎるかもしれないですが、だからちょっと、書いてみたいと思った次第です。(わりとまじめに)

【ラスアスのネタバレあり】
【ラスアス2のストーリーネタバレはない】
でもテーマとかゲームデザインとか敵とかステージとかについては触れます。だからラスアス2プレイ前で、ひとかけらも情報知りたくない人は、この先は読んじゃダメですよ!


結論:全ての要素で物語が体感出来た時、最高の「ナラティブゲーム」になる。

ゲームをラストまでプレイする人の割合って、ご存知ですか?
およそ30%です。たったの30%。
途中でやめてしまう理由はタイトルや個人によっていろいろでしょうが、とにかく70%がやめてしまう。それでも各作品に対する感想は巷で膨れ上がり「傑作」「駄作」の評価が付いていく。

約70%の人は全貌を知らないはずなのに。
でもその人達の評価も、必ず巷の意見に入っているはず。

それじゃ、特に“物語を楽しむのがモチベーション”のはずのナラティブゲームにおいて、最後までやっていない人が「素晴らしい!」と言うのはどういうことなんだろう。
最後まで読み終えなかった小説を、見終わらなかった映画を「すごくいいね!」って、不思議な話です。

でも、ゲームならそれがあり得る。
ゲームにおいては「シナリオがどれだけ良くても、それだけでは最良のゲーム体験にはならない」、そして逆に「シナリオすべて知らなくても、最良のゲーム体験になりえる」ということなのだと思います。

それを叶えるのが「物語を体感する美しいシーン」。
美しい、というのは単に「見た目がきれい」という意味ではなく、例えば調和です。あるいは必然というか。
ラスアスにはそれが、いたるところにある。
そしてラスアス2にはそれが少ない。あるいは「それじゃない」が多かったことが、2つのタイトルの差なのだと思います。

具体例:「物語を体感するシーン」とは。

具体的にあげてみるとすると、例えばラスアスのこのシーン。

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罠に掛かって宙吊り状態のジョエルを助けようとするエリー、そのエリーに向かってくる感染者、エリーを守るべく銃撃するジョエル、というイベント戦闘シーンです。

この時、ジョエルとエリーの関係はまだ浅く、ジョエル的には「小生意気な娘」「運ぶべき荷物」という印象が勝ってる状態。ゆえにエリーを守る感覚は「エリーがやられればふたりとも終わり」という方が強い。

線ふとめ

ちなみに、エリーがどれくらい小生意気でやんちゃかと言うと、例えば「これから協力を仰ぎたい相手である強面おじさんビル」に向かって

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と言い捨てるくらいのスタイル。最高。(リアルだったらほんとに厄介)

線ふとめ

けれどここでジョエルとして必死に銃を撃ち、エリーを守ることで(あるいはジョエルを助けようとする小生意気なエリーの姿を目にすることで)、ジョエルとエリーの中に「お互い必要な人間」という繋がりが出来るのを「体感」する。

人間関係の変化。物語そのものです。いや、本人としてプレイしているので「人間関係を作るのを実感する」と言ってもいいかもしれない。

ゲームプレイとシナリオ、設定、キャラクターなどあらゆる要素(ここで言えば、例えば逆さまのアングルになっているのも重要な要素のひとつ)が組み合わさって物語となり、プレイヤーの意識の底に流れ込んでくるシーン、それがわたしの思う「全ての要素で物語が体感できる、ナラティブなシーン」です。

【DEMOシーンについて】
DEMOシーン(操作ナシの見るだけのパート)はゲームのひとつの要素であり、それのみで物語の「体感」にはならない。DEMOはゲーム全体として見た時、物語を補強する機能のひとつである。
またDEMOは「補完」であるのが理想で、過剰になるほどプレイヤーの体感とは遠ざかった「情報」になっていくと個人的には思ってます。
(そういう意味ではラスアス2も、過剰なほどのDEMOは無い)

そういうナラティブなシーンをいくつかプレイし、心が打たれ、残ったならば、最後までプレイし終えてない70%も「あれはすばらしい」と感じるのも頷ける。


違い:その感情は、体感したいことなのか。

「いや、ラスアス2にもそんなナラティブなシーンはあった!」とおっしゃる人はたくさんいるかもしれません。わたしもそう思います。ただ、弱い。

ラスアスのテーマは「愛」。
対し、ラスアス2のテーマは「復讐」。

ラスアス2は「復讐」を突き詰め、新しいアイデアや方法論を用いて「感情を揺さぶるゲームデザイン」を実装してます。
「こう感じさせたいからこうなっているのか。そしてわたしは確かにそう感じている」と、感心…というか驚嘆する部分も多い。ゲームデザインの目論見としては成功しているわけです。

でも待って。復讐は、憎しみは、体感したい感情なのだろうか?

前作からの脱却、新しい続編の創出、という意味で真逆…というか真裏のテーマを持ってきたのだろうことは理解できます。

けれどゲームは「体感するメディア」。ボタンを押して起こることを我がことのように体感する没入感によって、より鮮やかでリアルなイメージを得ることができる。そこに、徹底的な復讐の実感があるとしたら?

一方で、ラスアス。
また別のナラティブなシーンとして、例えばこういうのがあります。

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例によって廃墟となったカフェを探索中に、突然エリーが話しかけてくるシーン。
この時、プレイヤーは自由に操作している状態です。次のシーンもそう。

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「見て!」というエリーの声が突然聞こえて「敵か!?」と思いつつコントローラを操作してみると、エリーがホタルを眺めている。そして「ホタルだ」とつぶやく。(エリーは森も蛍も初めて見る)

ぶっちゃけ、ゲームや映画好きなら、ディストピアな世界観なんて見飽きるくらい見てるわけです。廃墟だって山ほど見たし、探索してきた。
けれど、こうして探索中にエリーが発する言葉によって、プレイヤーはエリーとともに「この世界を新鮮に発見する」ことができる。

ジョエルを操作してあちこちを探りながら「ああ、よく行ってたよ」「何を頼むの?」「ただのコーヒー」みたいなやりとりをするのを聞いていると、すでに失われたカフェでジョエルがコーヒーを飲む姿が脳裏に立ち上がり、廃墟しかしらないエリーを実感し、あるいは小生意気なエリーの別の一面を見て(かわいいじゃないか)と新たな意識を生む。

単なる廃墟に、驚きや、切なさのフィルタがかかっていく。
そうして、ゲーム全体が自分のもの、愛すべきものに少しずつ変形していく。もっと体感したい、もっと知りたい、という欲求に繋がっていく。

けれどテーマが復讐だと、こういう作用を起こさせるシーンは必然とはなりにくいわけです。あと、エリーがすでに子供でないことも大きい。
またグラフィックとしても、上にあげたホタルの夕暮れみたいな優しく美しいシーンは少ない。ラスアス2は雨も多く、それは陰鬱な圧迫感となって「復讐」を彩っている。

そしてまた結論:殺すことの手触り。

プレイ中に明確に意識に上がってくることはないが、ラスアスは愛がテーマゆえに、ジョエルとして、エリーとして、プレイヤーとして、行動の根底には「守る」「生きる」という大前提があった。

ひとつひとつの殺しに「生きねばならない」「生きねばエリーを守れない」「エリー/ジョエルを守りたい」という背景があるので、プレイヤーであるところのわたしは相手が感染者だろうが、人間だろうが、どこまでも残酷に殺すことができた。

けれど復讐では、そうならない。
「全員、ぶっ殺してやる!」というエリーの同じセリフが、ラスアスでは痛切に響き、ラスアス2では虚しく聞こえてくるようになる。

何十時間もありとあらゆる者を殺しまくる行為、その動機を空疎に感じれば感じるほど、その殺しの表現がリアルなだけに「なぜやらなければならないんだろう、これを」「なんでやってるんだろう、これを」という気持ちが徐々に強くなってくる。という体感を、わたしはしました。ラスアス2において。

だから、駆け足でプレイしたわけです。しんどかったです。
(ラスアスの続編だから、どんなものであれ、最後までやらないという選択は無かった)

期待と現実:ゲームは誰のものか。

それでも、わたしはラスアス2を否定するつもりは無いです。
先に述べたように、ゲームシステム部分の底上げやグラフィックの進化も本当にすごい。シナリオ構造で言えば、ラスアス2の方が手が込んでいるし、制作者が意図した通りに機能させる難易度は相当に高い。結果、複雑な感情を感じさせることにも成功していると思います。ラスアスのシナリオは比較すればシンプルです。
そして続編としてとことん挑戦的。個人的にも「ラスアスみたいなラスアス」を求めていたわけではないので、否定する気持ちにはならない。プロジェクトチームに対しては敬意しか感じません。

ただそれでも個人的には、「ラスアスの方が“ナラティブゲーム”としては優れている」と思うのみです。
怒り、笑い、哀しみ、喜び、不安、心配、そんな様々な感情がゲームのそこここで体感できるよう、プレイヤーが気持ちをゆさぶられて、この物語のとりこになってしまうよう、巧みに配置されていた。さらにボス戦なしに完全なカタルシスを得られるラストは、発明であり、ナラティブゲームとして完璧なラストシーンだった。
そしてプレイヤーたちは、ジョエルとエリーを愛した。

両作のディレクターであるNeil Druckmannはラスアス2について「このゲームが嫌われてもかまわない」と述べているそうです。

その言葉を聞くと、こんな風にも考えられるかもしれないです。
「The Last of Us」は、プレイヤーに愛されるべく作られたゲーム、エンターテインメントそのものであり
「The Last of Us Part II」は、Neil Druckmannが夢見たアートなのかもしれない、と。






線ふとめ

おまけ:「The Last of Us」の愛すべきシーン

この記事を書くために画像を集めましたが余った。のが惜しいので、最後に載せておきます。


■父と娘のような風情が胸にくる、でもめっちゃ殺すシーン。

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ようやくトラックの準備が整ったが、エンジンがかからないので押しがけすることに。エリーが運転席に座る。

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ジョエルとビルがトラックを押す。これはあれだ、お父さんがまだ乗れない自転車に跨った我が子の背中を押してあげるあれと同じ構図じゃないか。
そうして、またふたりの関係性が少しだけ変形していく。
夕焼けもきれいですが、横から次々あらわれる感染者をめっちゃ殺すんですけどね。でも、強いシーンです。

線ふとめ

■ってベースが出来てからの、からかいが光るシーン

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トラックに乗って一息のふたり。
エリーが、ビルからくすねてきたエロ本を開く。慌てるジョエルに対して、さらに追い打ちをかけるこのセリフ。ぎょっとするジョエル。父娘感が上がった直後だからこそ、このDEMOでジョエルと同じように「ぎょっ」を実感してしまう。(おまえ13のくせに“ページがくっつく”という状況をしってるのか!?)

線ふとめ

■ラスアスやった人間全員のココロに焼き付いてるはずの美しいシーン

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廃墟の町を歩くキリンの群れを喜んで追いかけてきたものの、いざ実物を見ると腰がひけるエリー。率先して撫でて見せるジョエル。
ベタベタな展開とは言え、心理的な複雑さが高まっている流れで飛び込んでくるこのイベントは、プレイヤーの気持ちを鷲掴みにする。されました。

線ふとめ

他にもすばらしいシーンやギミックなど本当にたくさんありますが、ひとまずこのへんで。



ALL IMAGE BY NAUGHTY DOG

おかしかっていいですか。ありがとうございます。