うにの瓶詰

くだらない悩みとしょうもない考えをツラツラと書く予定です。倫理観が欠如しているかもしれませんが、不快な場合はサラっと流していただけたら幸いです。

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最近の記事

「相談」して何になる

人はそんなに誰かに「相談」したいのだろうか。 別のブログに彼とセフレとのことをウダウダ書いていたら何故かフォロワーになってる人たちがいた。不思議に思い見てみたら名前のサブタイトルに「彼との関係成就させる方法」だの「男性○○人を虜にしてきたなんとか」だの、私からしたら「なにかの宗教の勧誘ですか?」てな人たちばかりで、かなり驚いた。 確かに文章の中で「悩んでる」とか「戸惑ってる」とか書いたような気もしなくはないが、人にアドバイスを求めたくなるレベルの話ではない。そして占いの提

    • 秋の夜長の伴走者

      最近、高浜寛という漫画家が好きだ。 電子書籍のサイトでたまたま見つけた漫画家だったが、セリフにしてもストーリー展開にしても惹きつけられるモノがあって、今いそいそと買っている。 中でもとりわけ好きなのが「ニュクスの角灯」「蝶のみちゆき」「四谷区花園町」である。ストーリーや「どのセリフがどう好きか」に関しての詳細は省くが、彼女の描く漫画はどれも、じんわりとした余韻がいつまでも続くのだ。それが何とも心地いい。 必ずしもハッピーエンドとは限らないが、心にいつまでも留めておきたい

      • なりたかったモノ

        私はいったいいつから「抱いて」と自分から言えるようになったのだろう。 昔は口が裂けても言えなかったはずの言葉は、いつからか息を吐くように当たり前のごとく口から出てくるようになった。昔ならまずしなかったことを今は「さも当然」とさっさと実行に移すようになった。そして昔なら難なく出来たことは今、何故か出来ない。 多くの事柄の分岐点はどこだったのかと記憶の中を探しても、どれ一つとして見つけられたものなどないのだ。 これを「成長」と呼ぶのはきっと簡単だろう。「年齢を重ねた」とも言

        • 記憶のかけらをあつめてみた

          ずっと忘れていたが、そういえば高校の時は放送部だった。 入部した理由は実に簡単だ。当時毎週あった「全校朝会」の時に放送室に居られる、という特権によりスカートの丈だとか爪の長さだとか化粧の有無のチェックから逃れられたからである。 他にも部室には放送機材の中にテレビがあり、夕方に部室で宿題や塾の予習を片付けながらテレビ鑑賞に勤しむことが出来たから、というものであった。 今振り返ってみても我ながらお粗末にもほどがある入部動機だ。 本来の部の目的である発生練習はしないし、遊ぶ

          「繋がる」と云うこと

          「SNSで繋がろう」とか「繋がりを持とう」とか言われる様になって久しいが、どうもいまだにピンとこない。 実の友達でさえ何もかもを話しているワケでもないのに、「何処へ行った」「何を食べた」「自分はこんなことを知っている」といった内容を嬉しげに紹介して一体何をどうしたいのだろう、と不思議に思う。 私は写真を撮る趣味もないし(いまだに「何故『写ルンです』じゃダメなの?」と周りに言ってしまうほどカメラは私の中でどうでもいいモノの中の筆頭格だ)仲間をワイワイしたいワケでもなく、ただ

          「繋がる」と云うこと

          興味の向こうに見えるモノ

          「何かに興味をもったことある?」と聞かれることがある。 どうやったらそんな質問を出せるのだろうかと、そっちの方が気になって仕方がないのだが、どうやら私は傍から見るとそう思えるらしい。 確かに明日の天気も最高気温も気にならないし、世界がいつ破滅するかも興味がない。しかし彼のメンタルやセフレと次会える日、はたまた勤め先の経営状態だって気にはしてるのだ。 だけどハタと気が付いた。 私が「興味を持っている」と思っているモノすべては「関心がある」モノばかりで、「興味」という本来

          興味の向こうに見えるモノ

          誕生日

           先日は家族の誕生日だったのだが、いつも誰かの誕生日になると考えてしまうことがある。 「産んでくれてありがとう」と当人の母親を労うべきなのか、「誕生日おめでとう」と当人が生まれて来ていまだ命があることを祝うべきなのか。もちろん、双方に対してねぎらい、祝うことが理想的なのはわかってはいるのだが、入試並みに「どちらかを選べ」と言われたら人はどちらを選ぶのだろう。 第三者的に見ていると母親が8ヶ月も通常とは違う生活を送り、散々大変な思いをして産んでいるのだから子供は「出て来ただ

          外見とセックスと

          よく「外見と内面のギャップにドキドキする」という話を聞くのだが、何を指しての「外見」なのか迷ってしまう。 もちろん、服装や清潔感などを「外見」と言い、日常における性格を「中身」というならギャップなどいくらでもあるだろう。だってそれは「作られた外ヅラ」と「~として」の部分を削ぎ落した後なのだから。 ドキドキはしないものの、私が最近興味深く思うのは先日書いた彼とセフレの「見た目」と「セックス」の差である。 彼の見た目は所謂「泣く子も黙る、というより更に泣く」雰囲気だが性格は

          外見とセックスと

          思い出はいつだってキレイだ

          Windows95が我が家にやってきて、何年が経っただろうか。 あの頃は、どうやって探したのか忘れてしまったが掲示板に「パソコンを買ったばかりなので使う練習の為にやりとりをしませんか?」というメッセージがよく載っていた。そして出会い系みたいなのもあれば、文通の電子版のようなやりとりを求める人もいたのだ。 次のページに行くにもそれなりの時間を要し、接続時間によって通信費が増減し、フリーアドレスなどまだなかった頃。キーボードの打ち方を覚えたかった私は延々とパソコンで「会おう」

          思い出はいつだってキレイだ

          「私」という車

          結局、物事には「両輪」てのが必要なんだろうと思う。 私には過ぎる彼は、最近の配置転換でメンタルが参っているから私にどっかり寄っかかって来ている。ツラいのだろうから支えてあげようと色々しているのだけど、たまにそれがしんどい。 そして何故か最近出来たセフレは、セフレであるが故に細かいことを聞かずに言わずに好きなことを好きなだけした後、ただ抱き合ってるだけで心底ホッとする。 このどちらか片方だけだと日々が物凄くしんどいか、物足りないかの二択になるのだろうと推測するのだが、両方

          「私」という車

          15年という月日

           以前他のところでも愚にもつかない文章を書いて公共の場所で恥ずかしげもなく公開していた。それはよくある「日記」という形ではなく、「こんなことを今疑問に思っている」という、いわば「自分の考え事の備忘録」だった。何かを世間に問いたいとか、そんなご大層なモノなどどこにもない。ただ単純に悶々とした何かが「自分の中の心のバケツ」をいっぱいにして、何処かでぶちまけないと正常でいられなくなるような、そんな思いに駆られたからという以外の何物でもないのである。 一旦、書きたいと思うことがなく

          15年という月日