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私の書き溜め ①

「生きている細胞」に全集中する

外反母趾のはなし



生きている細胞に全集中すると


ただの呼吸が特別な働きに思えるし、
指先の感覚が研ぎ澄まされて触れるものに喜びを覚える。
髪にあたる風の柔らかさを知るし、
眠くて重い瞼が軋むのでさえも生きていることを実感する。


子どもの頃から重度の外反母趾だったのが、
生きている細胞を意識していなかったからだと気づく。

私はただ歩くという行為だけでも左脳を使ってしまって、人間や不安やその他の感情を背負っていたから、足の親指の付け根に意識を向けて土を蹴るということを忘れてしまっていた。
その結果、左右の足をくっつけて互いの親指の間をみた時、角度が60度くらいあるのではないかというほどの外反母趾になってしまった。


今日は歩きながら、自分の生きている細胞(五感)に神経を集中させてみた。
するとどうだろう。
あんなにふわふわと歩いていたのが、親指の付け根がしっかりと土を蹴ってくれる。
足の裏が地面についてから、親指の付け根を通って離れるまで、しっかりとそこに土を感じて地面を歩いている。

鳥の囀りが心地よく聞こえる、
絵画的な空の情景に心が躍る、
オレンジ色に灯り始めた燈籠が温かく、
晩ご飯を作る優しい匂いに幸せを感じる。

足の親指の付け根が喜んで、歩みが軽い。
これまでずっと抱えていた不安や変な感情が、少し軽くなったとさえ思う。




雨の日はもっと楽しい。

傘にあたる雨音の、なんと心地いいこと。
水たまりに落ちる雨粒の、なんと美しいこと。

一日中太陽の姿が見えなくても、気持ちはさほど沈まない。
視界が少し、雨で掠れる程度で、それよりも雨の中の光が虹色に見えるのが美しい。

視界と、耳と、足の親指の付け根の細胞に全集中しながら歩く雨道は、まるで幼い子ども心を呼び覚ましてくれるみたいだ。

そうしていると、この日の仕事での後悔とか周りの目とかを忘れてしまって、どうでもよくなる。

邪念が生まれたら、その邪念に気づいたことに対して自分を褒める。
そしてまた細胞に意識を向ける。


これって「念」の修行では…?
と思い始める。

(「HUNTER× HUNTER」冨樫義博作、週刊少年ジャンプ)ネタ

「念」能力の応用技にも、「凝」といって自身のオーラ(気)を身体の一点に集中させるというものがある。

邪念を払拭し、身体の細胞へ部分的に意識を向けることで、そこのオーラの力は強化される。
ヘボヘボでも、毎日「凝」を行っているのだと思うと少し強くなれたような気がしないでもない。

私は具現化系になりたい。



このような妄想が生まれても、それに気づいたことを褒めてまた現実に戻ってくる。


集中できない時だってある。
いつにも増してナーバスにならざるを得ないことがあった日などは特にそうだ。
集中しようとしても、足の親指の付け根が痛いこと、湿気が多いことなど、ネガティブな感情に支配される。

それでも悲観的にならず、目を閉じてゆっくりと自分の鼓動の音に集中する。

自身の小さい命がたしかに生きていることを実感すると、自然と呼吸も丁寧になる。
丁寧に、大事に生きねばと思う。
そしてまた頑張れる気がする。

春も夕暮れ


「春は曙、秋は夕暮れ」というけれども、春の夕暮れも格別に美しいと思える時がある。

そんな時は空を観察することに集中して、歩きながら空ばかり見ている。

やわらかな雲が霞み、空と溶け合う。
あたたかな陽の光が、薄鼠がかった空色を、鴇色や薄橙色へと染めていく。
やがて陽はビルの向こうに尾を隠し、ベロ藍が滲むような夜空に、春の星たちがひっそりと息づいている。

なんて絵画的な風景だろう。
大好きな日本画を思い出すような都会の自然風景に、まだまだ日本の空も捨てたもんじゃないと思った。


半年ほど前に書いた文ですが、勇気を出して投稿してみます。
自由に気ままに、好きな文を書くことの楽しさたるや___。

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