アートピクニックとかとかとか
3月26日、SHABELアートピクニックに参加した。
東京都美術館にて開催中の『印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵』を鑑賞し、問いの解を探す一日の始まりである。
天気は雨、それも結構土砂降りの。
上野駅から美術館まで距離はそうなかったように思うが、石作の道は雨水につかりビッタビタであった。
そこそこ冷たい雨水を吸い込んでぴたぴた肌にくっつく靴下を頭のはじで薄っすら気にしながら、主催者含め参加者総勢9名の自己紹介や鑑賞前の「問い」を立てるワークタイムとなった。
私の問いだが
【自分にとって素直とは?(ジャッジしない!)】
であった。
今までの私の美術鑑賞態度を思い出してみると、絵画に関して自分が感じたことは”当たっているのか?””正しい鑑賞スタイルなのか?””どう思ったら正解なんだと思う?”ということばかり気になっており、目に飛び込んだ瞬間に湧き起った感情をないものにしていたように思う。
だからこそ自分の気持ちに対して「素直」に鑑賞してみたらどんな気づきがあるのか試したくなったのだ。
お昼を食べ、いざ鑑賞タイム。
その後、それぞれの「解」のシェアタイムである。
シェアは9人を3名・3グループに分けて行った。
3回「解」を口に出して説明したためか、「解」をアウトプットすることに満足したのでこの記事では、私の今までの鑑賞態度について気づいたことをまとめていこうと思う。
①解説は全作品かつ全文読まねばならない。
と、思っていたので、第一作目から最終作品目まで解説を読むことに注力していた。
いや~~~これはなかなか疲れるのである。やたら気張って読んでいるせいなのか中盤あたりで黙読に疲れはて作品すら見るのが嫌になってくるのだ。
私のパラメーターグラフでは、聞いた言葉を理解することと書いてある文章を理解する部分に鋭利な三角が描かれていると思われるが、どうしてか美術館や博物館に行くと読解能力が低下し、”読めない”感じがするのだ。
それでもなんとか読み込まなくちゃ‥!と思っているので頑張る→さらに疲れる→疲労困憊……はやく出口に向かおう
となることが多いなと気づいた。
”読めない”理由はさっぱりわかっていない。
鑑賞物も鑑賞しなくてはいけいので情報過多なのか?
周囲に人もいて、歩行速度や鑑賞のための位置取りを考えなくては行けないから?
鑑賞+周囲の人の意図も組まなくては…と思ってしまって、結果情報過多になることで脳のキャパの限界を超えるのか??
もしくはよく知らないものを鑑賞しようとするからどう感じればいいのかを考えすぎてしまうのか?
※ここで思考実験※
私のよく知っているモノ…例えば好きな漫画家の原画展、人体解剖の展覧会とかだったら、疲労度は少ないか?
……うーん考えてみたけど、少し負荷は減るけどやっぱり疲れそう。
歩きながら鑑賞するそのものにも疲れているのかも……
まぁとにかくなにがしかの情報過多状態になってしまい、脳みそがパンクしてしまうイメージがあった。
そんで今回は、説明文は気になる絵画のとこだけ読み、基本的には絵画を鑑賞することだけに集中してみた。
お!この方法だと思っていたよりは疲れないぞ!という発見があった。
②損をしたくない。
とにかく損をしたくないので鑑賞物から大量のインプットをしたくなる。いや、しなければならないと思ってしまうのだ。
そのために①もやっているのかもしれない。
結局キャパオーバーになって鑑賞物の感想よりも「疲れたな……」という印象しか残らなくなってしまうのだ。
①や②の私を手放して鑑賞してみたら、身体の負荷は軽く、でもなぜか深く鑑賞できたように思う。
やはり脳のキャパオーバーを起こしていたのだろう。
素直に感じたものを味わう。あまり解釈しない。そのまま受け取る……
うーん人生だね。(??)
あと解説が読めなくなるのなら音声ガイドを使用する手もあると、今更ながらに気づいた。
使ったら負け(負け??????????)だとも思ってたんだな~~~
「解」のシェアタイムではおのおのの鑑賞スタイルや感想、そこから導かれる「解」の説明を知ることで新たな視点を得られるのも良かった。
途中疲れすぎて頭痛がしたけど楽しかった!
今日は完全に燃料切れたので引きこもり……
つつ、ガチコーチングクライアント編からの気づきについて
今日の私のテーマは
「ダンスレッスンを受けてみたいけど、できない自分を知るのが怖いな~~どうしようかな~~~~」でした。
やりたいけど、なんかできないあるあるクライアント
この”怖さ”の正体は理想(めちゃくちゃ上手く踊れる自分)になれなかった自分をとても責めるだろうことに対してだった。
その自責する自分を止めて~~~~~~~
まではいつもの気づき。
今日はさらにそこから、「自責したり理想通りいかなくてしょぼんとする自分をジャッジせずに見つめていたいのかも……」
という気づきがあって、加えてなんと
「自分が恐怖を感じる事柄への選択を躊躇する弱い自分が許せない」
といった気持ちがとてつもなく強いことにも気づいたのだ……!
そうか、選択できないこと自体も責めていたんだな。
いつまでやるかやらないか決断できずうじうじしやがって…と”ジャッジ”していた。
決断できない理由として、「傷つきたくないから」てのがあって、確かに自責で苦しむならやらないと選択することも必要なんだよな
そして「選択しないこと」は自分を守ることでもあるんだ。
守ることって弱さじゃないんだよ、文字通り「守ってる」んだよ
そして「守られて」いいんだよ~~~~
ここでnext actionが湧いてきた。
やるかやらないかの選択を迷う場合は、
とにかく気持ちがノっていて、これはやりたい!!!とにかくやりたい!!!!!失敗してもいいからやりたい!!!!!!!!
と思ったときはやる。
反対に、
いや~~~~これはやったほうが良いかもしれないけど、今はなんか迷うな~~~~~怖いな~~~~~~失敗したらどうしよ~~~~~~~~お金をどぶに捨てることになったらどうしよ~~~~~~~~~~~いやしかし怖いことを選ぶのも成長……エンドレス悩む
って状態だったらやらない。
この判断基準を持つことって今の私にとってはすごーーーーく楽であることに気づいた。
「やらない」選択が弱さではないことを知れたのも大きい。
「やらない選択をした私」が居るだけなんだよね。うんうん。
「やらない選択をしたことに罪悪感を抱かない」も頑張らない私を赦す一歩なのだと分かった。
ということで、ダンスはしばらく据え置き!
多分、どうせそのうち心からやりたくなる予感がする☺
身体の疼きには勝てなくなるのさ……
まとまりないけどおーっわり
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