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陰謀論と古い宗教

世界的に陰謀論が話題で、民法でもこの手の話題を取り上げだした。

“ディープステート”は世界各地で…/トランプ氏の公約「闇の政府を解体」とは【4月18日(木)報道1930

この放送の中でアメリカの宗教について詳しい森本あんりも解説に参加している。

『キリスト教でたどるアメリカ史 (角川ソフィア文庫)』

番組内でも陰謀論が流行る理由を色々挙げているが、その一つとして「既存宗教の衰退」が挙げられ、森本あんりも簡単にだが「いままで(陰謀論は)既存の宗教が引き受けてきた」と触れている。
番組の主題は現代のお話なのでこれで話は流れてしまうが、このNoteではキリスト黎明期に陰謀論を取り込んだ話を行う。

『書物としての新約聖書』

この本は新約聖書が成立した時代を焦点を当てた本である。
新約聖書も旧約聖書もまるで最初からあの形、あの塊で刷られたと考えるのが普通だろう。だが聖書学で確認されている事実として、旧約も新約もその章ごと、たとえば新約の場合は福音書、手紙、そして予言書で構成されている。
これもそれぞれ別々で、どの「本(福音書単独、手紙単独)」を新約聖書に組み込むかという議論が行われた。この時、当時の教会が扱いに困ったのがヨハネの黙示録である。
ヨハネの黙示録は読めばわかるが、難解な文章である。
聖書は著作権が切れた翻訳もあるので、全文をおいておく

で、この文章だが翻訳が問題なのではない。原文が意味がほぼ取れない文章であるという指摘は聖書学で指摘されている。また、キリスト教の教義として重要性が低い。キリスト教としてはイエスの復活が大事なので、それを扱う福音書とパウロの手紙が一番重要で、翻訳の際もこうした部分が重視される。これに対し、黙示録は意味はわからない、教義と関係がない、下手すると正統教義と対立する謎の文章が続いている。

ではなぜヨハネの黙示録が新約に採用されたのかと言えば、黙示録を重視する人々に教会が注目したからである。教義には合わないが需要があるということを教会は重視した。こういう姿勢はいかにもカトリックのしたたかな部分であり、「教義として正しくない」としても、採用する部分が現代まで生き残る秘訣なのだろう。

では新約に採用された理由は「一定数の支持があったから」なのだが、その支持の理由はなにか。それが「民衆を扇動するのに便利だったから」である。もちろん教会は扇動しない。しかし、黙示録を片手に「終末の世きたる」と語る人々は古代から存在した。黙示録は支離滅裂な文章だが、1節ごとの引用なら気にならない。逆に福音書や手紙類は終末の世など語らないので、こうした「非公式な文章」が唯一最後の審判を主題として扱ったのである。

黙示録は最後の審判を扱う都合上、今を生きるのが辛い人々、古代ローマ帝国に批判的な人々、総じて貧困層とそれを扇動する層に支持されたとされている。富裕層は現状に満足できるが、貧困層は今が辛いからである。
そしてこの「非公式なキリスト教」は今も生きていて、最近はエクソシストという形でも話題である。

『バチカン・エクソシスト (文春文庫 S 2-1)』

エクソシストは奇妙なことに中世-近代は下火になり、むしろ現代に勢いが増している。というのも、エクソシスト-悪魔祓い-は現代人の責任を除く行為だからである。
現代には精神病という概念がある。それゆえ、素直に自分が精神病だと認めてしまうと、その病を治すのは自分ということになる-周囲の助けはあれど-。他方、悪魔憑きということになれば苦しみの原因は悪魔に-外部に-ある。こうした理屈をエクソシストは建前として、「患者」達は本音として受容している。

もしここでエクソシストを教会が非公認にすれば、「不純な宗教利用」は消える。だが同時に「心の弱い人達-生活に余裕がない、イエスがもともと救いたかった人々-」を見捨てることになる。それゆえ、カトリックはエクソシストを監視し、警戒しつつ、エクソシストの活動を黙認する形を取っている。

このような事情で、エクソシストはまず悪魔憑きの患者に精神科を勧める。そして精神科で手に余った場合-患者が責任を負う精神的余裕がない場合-、悪魔祓いを行い、患者は救われる。といっても現代の悪魔は簡単に消えない。-それは世間的に精神病と呼ばれるので- なのでエクソシストは月に2回や週に1回などのある程度の頻度で患者に悪魔祓いをする。

以上確認したように、既存の宗教ことカトリックは黙示録で、そしてエクソシストで陰謀論と層かかぶる人々を非公認という形で「守って」きた。
宗教の力が一層失われ、人々は黙示録やエクソシストではなく「独自の宗教」、陰謀論を選べるようになった。
しかしそれはカトリックのような「監督者」がいない宗教である。危険は常にある。