【短編小説】タブラ・ラサには戻れない
「波の向こうにはねこの国があるんだって」
「どこで聞いたんだそんな眉唾」
わりとマジな顔で秒で一蹴されてしまった。当たり前だが、美人の真顔は迫力がある。
「でも羨ましいでしょ、羨ましかったりするでしょ」
「まあ」
仕方のなさそうな顔で相槌を打つので、すこしむっとする。しかしまあ、
「人間の勝手だよねえ」
「傲慢なやつじゃん」
間髪入れずに答えが返ってくる。テンポがいい。やっぱりわたしにはゆきちゃんしかいない。展開が早い、我ながら。ふふふん。
「アハハ!」
「笑うなよ、怖いから」
「以心伝心だねえ、わたしたち!」
「そんなのがいまさら嬉しいのか。あいかわらず変なやつだなあ」
うれしいよお、とにこにこするとむにーっと頬を抓られる。痛くない。やっぱりやさしい! うれしい!
「ねえ、」
「あ?」
「かわいいって言って!」
「なんでだよ!」
「なんででも!」
「おかしいだろ」
「えっ、じゃあ、どうしてもだったらいい?」
「はぁ……かわいいよ」
「わーー! ずるい! いきなりはずるいよ、ゆきちゃんのずるっ子!」
心の動きのままに地団駄を踏む。ついでに砂が気持ち悪くて渋い顔になっていれば、当然のようにずるりと足の裏から音がして、世界が傾く。「あ、」と声が出たけど、なにも出来ない。こけちゃう。なにかから逃れるように目を瞑る。衝撃、……あたたかい?
「ゆっ、ゆきちゃん?」
「あっ…ぶねえなこのくそ運動音痴!」
「暴言!」
「おまえが悪い」
「ごめんね」
「わかりゃあいい」
「王子様みたいだった!」
「へーへー。んじゃおまえは精々お付きでもしてるんだな」
「なんでよぅ、そこはお姫様でしょ」
「王子様はお姫様とは離婚すんだよ」
「ひどい! 理由は!?」
「んあ? ……あー、強いて言うなら浮気かね」
「なおのことひどいじゃん! いいよわたしがお姫様幸せにするもん」
「いやいや、おまえはお付きだから王子の傍を離れねーの」
「おーぼーだ!」
「なんとでも言え」
返す言葉がなくて黙ってしまう。ぴゅうと音を立てて風が吹く。うそ。びゅうと大きな音とともに砂が舞っている。痛い。それ以前に寒い。
「……寒いねえ」
「冬だからな」
「なんでこうなったかなあ」
「その話はもうとっくに終わったろ」
「そうだけどさあ」
「ほら、握っててやるから」
うん、と爪先を見ながらきゅっとあたたかな他人の手を握る。打ち寄せる波とちいさなカニが格闘している。足裏の湿った砂利はすこし粘っこい感じがした。
「海じゃなくてもよかったかなあ」
「でもおまえ、」とゆきちゃんが言う。
いつになく静かな顔をしたゆきちゃんが言う。
世界でいちばん綺麗な顔。
わたしのだいすきなうつくしいもの。
「わたしが、……なに?」
「いや、……そう、波向こう」
「え?」
「波向こうに行きたいんだろ。そしたら海じゃなくっちゃな」
やさしいかお。ゆきちゃんにしては無邪気な喜色。そのくせ口もとはいつもの苦笑いのかたちを刻んでいるのだから憎い。
「来世は、」
今度はわたしが大きな声で言う。
あとには二人分の足跡と、浮かんでは沈む赤いマフラーだけが残った。
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