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《動物介在療法の小説》 前川ほまれ『臨床のスピカ』無料公開4

♯2 2012年 夏

 再び星河ハウスに向かうことになったのは、一人と一頭の散歩に同行してから二ヶ月ほど経った週末だった。あの頃は夜風が冷たかったが、季節は確実に移り変わっている。自室の隅に置かれたテレビは、現在の気温が三十五度を超していることを教えていた。午前中からクーラーが起動しなくなった六畳間は、蒸し風呂のような熱気に満たされている。突然の災難を呪いながら、首筋を手で仰ぐ。毎年夏になると、高齢者が室内で熱中症になるというニュースを見掛けるが、今は人ごととは思えなかった。
 約束の時刻が近づくと、遥はサンダルを履いて玄関を出た。近所の民家の庭先では行燈仕立ての朝顔が藍色を萎ませ、室外機が唸るような音をたてている。街ゆく人々の服装は半袖がほとんどで、路上のアスファルトが絶え間なく日差しを照り返していた。ただ歩いているだけで、背中が不快に湿っていく。日差しの影響で熱を帯びた髪の毛を搔き上げながら、夏のボーナスでロードバイクを買おうかと思う。今の季節は街中を歩くより、ペダルを漕いで駆け抜けた方が涼しいはずだ。それに来週は、二十二歳の誕生日が控えている。自分へのプレゼントとしても、丁度良い。
 そんなことを考えながら歩いていると、武蔵おじさんから電話があった。
「もしもし」
「おうっ、遥。元気か?」
 おじさんにしては、沈んだ声だった。不吉な予感を抱きながら「うん、元気」と、短く返す。
「仕事は、慣れたか?」
「毎日大変だけど、なんとかやってるよ」
「そうか」
 短い相槌を打った後、おじさんが黙り込んだ。電波に乗って届いた沈黙を、すぐに解釈する。多分、母がまた何か問題を起こしたのだろう。
「智恵子のことなんだけどな」
 予想が当たった。わかっていても、スマホを握る手に力が入ってしまう。
「連絡もなしに、一昨日から帰ってこねぇの。明日まで行方知れずだったら、警察に届を出すから」
 母が行方不明になるのは、今回が初めてではない。遥が知っている限りでも、五回以上はある。
「……通ってる作業所には、行ってないの?」
「確認したら、一昨日から顔出してないみたいだ。携帯の電源は入ってるけど、電話には出ねぇ。メールを送っても、返信はないしな」
 母の姿を脳裏で描こうとしても、猫背で肉付きが良い後ろ姿しか浮かばない。
「どうせ前回みたいに、出会い系サイトで知り合った人の家にいるんじゃない?」
「かもな」
 こんな暑いのに、半袖から露出する肌は粟立っている。母に対する心配や不安の影響ではなく、軽蔑や怒りのせいだろう。
「とにかく、そういうことだから。それと先週、仙台までトラック走らせてさ。その時に買った牛タンの佃煮や『萩の月』なんかを宅急便で送ったから。早めに食ってな」
 話題の落差に戸惑いながら礼を告げると、電話が切れた。いつの間にか、下高井戸の商店街を通り抜けている。無性に喉が渇き、目に留まった自販機で麦茶のペットボトルを購入した。喉を潤しながら、明日には肩を落として警察署に電話を掛けるおじさんを想像してしまう。
 母のことは、自分とは関係ないと言い聞かす。今は看護師一年目を無事乗り越える方が、あの人の何度目かの失踪よりも重要な事柄だ。
 星河ハウスに着く頃には、日没の気配が漂い始めていた。西日を浴びて飴色に染まった一軒家の前で立ち止まり、深く息を吐く。自然と、あの夜の後にネットで得た情報を思い出した。
 自立援助ホームは、義務教育を修了した子どもたちに一時的な暮らしの場を与える施設のようだ。入居対象の年齢は、原則として十五歳から二十歳までらしい。何らかの事情で家庭から離れ、自立を目指していることは入居者全員に共通していた。確かに義務教育が終わっていたとしても、十五歳程度の子どもが独りで社会を生き抜くことは難しい。それに入居者たちの多くの背景には、親からの放任や虐待が色濃く影響しているらしい。記事の中で〈被虐待児〉という表記が、至る所で目に留まった。
 自立援助ホームの原型は半世紀以上前から存在し、元々は戦争孤児を受け入れる場所だったようだ。現在は児童福祉法の児童自立生活援助事業として制度化され、第二種社会福祉事業に位置付けられている。現在も開所している自立援助ホームをネットで検索してみると、施設というより民家のような建物が映し出された。ホームを運営しているのは社会福祉法人、NPO、一般社団法人、株式会社等と様々だったが、入居者たちが毎月一定の金額をホームに支払う必要があることはどこも同じだった。なので多くのホームでは、入居者に向けて最低限のルールを課していた。それは、アルバイトだとしても必ず仕事をし、毎月数万円の利用料をホームに納め、自立に向けた貯金をすることだ。今後社会へと巣立っていくためには、働いて、ある程度のお金を手元に置いておくことが必須なんだろう。
 おじさんや祖父母が側にいなければ、遥も自立援助ホームに入居していた可能性が高かった。ネットに書いてあった〈親からの放任〉という言葉が、胸を確かに締め付けた。
 二ヶ月前には実を宿していた枇杷の木が、今は青々とした葉だけを茂らせている。以前は子どもたちの手で橙色の実がもぎ取られていたのだろうと勝手に想像しながら、アルミ製の門扉を開けた。
 玄関側にあるチャイムを押すと、人間より先に犬の姿が目に映った。引き戸の曇りガラスの向こうで、尻尾を左右に振る大きなシルエットが透けている。犬と人間は、成長スピードも寿命の長さも違う。人間の年齢で換算すれば、ジョンは何歳ぐらいなんだろう。室内で無邪気に飛び跳ねる姿を眺めていると、今はまだ自分よりも年下のような気がした。
「どちらさん?」
 引き戸がガタつきながら開き、女性が顔を覗かせた。その人は白髪交じりのベリーショートで、縁なしの丸メガネを掛けていた。身体は、かなりほっそりしている。化粧はしていないようで、頰にはソバカスがいくつもの点を描いていた。見た目から察して、五十代半ばぐらいの年齢だろうか。出迎えてくれたのが詩織さんではなかったことに緊張しながら、軽く頭を下げた。
「こんにちは。武智詩織さんと同じ病院で働いております、凪川遥と申します。今日は詩織さんと、約束があって参りました」
 早口で告げると、中年女性がすぐに相好を崩した。
「あなたが、はるちゃんか。詩織から、よく話は聞いてる。同じ病棟なんだってね」
「はい。詩織さんには、いつもお世話になっていまして」
 多分、この人が星河ハウスの元施設長なんだろう。以前は子どもたちと毎日接していたからなのか、明るい口調や豊かな表情は初対面でも親しみが持てた。
「詩織は落ち着きがないから、沢山迷惑を掛けてるでしょ?」
「そんな、そんな。本当に、色々と助けてもらっています」
 不意にジョンが玄関から這い出し、門扉に向けて駆け出した。地面を蹴って走るスピードは、間近で見るとかなり迫力があった。
「ジョン、路上に出ちゃダメよ」
 詩織さんのおばさんが叫ぶ。さっき完全に門扉を閉めていたため、ジョンが路上に飛び出すことはなかった。しかしこちらに大人しく戻る気はないようで、枇杷の木の周囲や縁側あたりを走り回っている。
「詩織に似て、あの子も落ち着きがなくて」
 曖昧な笑みだけを返し、茶色と黒のまだら模様を目で追った。ジョンは枇杷の木の根元で、自らの尻尾に戯れ始めた。
「Stay」
 耳馴染みのある声が響いた。その指示を聞いて、ジョンが瞬時に動きを止めた。
「Nice, Good boy」
 詩織さんの声は頭上から降って来たような気がして、自然と空を仰いだ。ベランダから身を乗り出す同期と目が合う。夕暮れを背景に、彼女は笑顔で手を振っていた。
「いらっしゃい。ちょっと待ってて」
 サンダルを突っ掛けた同期がすぐに外に出て来た。彼女は「Come」と告げると、駆け寄ったジョンの頭を撫でた。
「ごめんね。急遽、ウチに来てもらうことになって」
「全然です。むしろこっちこそ、ごめんなさい」
 クーラーが故障しなければ遥のアパートで、来月に行われる症例発表会に向けた資料を作成する約束を交わしていた。症例発表会は、新人研修の一環で企画されている。個人で発表するのではなく、同じ病棟に配属された者と一緒に取り組むよう伝達されていた。
「まぁ、ファミレスやカフェよりはウチでやる方が良いしね」
 発表の際にスクリーンに映し出すスライドでは、実際に関わっている患者の病状に触れることになる。取り上げる患者は〈A氏〉と仮名で表記する予定だし、院外にカルテを持ち出しているわけではないが、どこで誰が聞いているかはわからない。個人情報保護の観点から、どちらかの自宅で話し合おうとあらかじめ決めていた。
 ジョンを引き連れた詩織さんに促され、玄関に足を踏み入れた。正面には二階に続く階段があり、その手前には玉暖簾が揺れる出入り口が見える。詩織さんは上り框に腰掛けると、走り回っていた四本脚をタオルで拭き始めた。ジョンは肉球を触られて気持ち良いのか、目を細め口元を緩ませている。
「オッケー、綺麗になったよ。行ってよーし」
 ジョンは一度鼻を鳴らしてから歩き出した。長い尻尾が、玉暖簾の奥へと消えていく。頭の良い犬だ。英語だけではなく日本語でも、飼い主の指示を理解できている。
「あたしの部屋は二階なの。お菓子と飲み物は買っておいたよ」
「すみません、何から何まで」
 明大前のアパートよりも三和土は広かったが、履物は遥のサンダルを含めて三人分しか置かれていない。以前はここに、子どもたちのスニーカーやサンダルが沢山並んでいたのだろうか。
 二階には、計六つのドアが見えた。どれも同じ木製で、色褪せた真鍮のドアノブが鈍く光っている。部屋数の多さは、元々自立援助ホームとして機能していた息吹を感じさせた。短い廊下を進みながら、閉ざされたドアに向けて密かに耳を澄ます。二人分の足音が跳ね返ってくるだけで、どの部屋からも物音一つ聞こえない。
「今は詩織さんと、おばさま以外は住んでないんでしたっけ?」
「そう。弥生ちゃんは階段の上り下りが億劫で、ほぼ一階で生活してる。だから、二階はあたしが占領してるの」
 詩織さんは廊下の一番奥で立ち止まると、目の前にあるドアを開けた。
「何もないけど、入って」
 ドアの隙間から漏れ出した冷房の風が、汗ばんでいた前髪を心地良く揺らす。通された部屋は、四畳程度の広さだった。隅には小型冷蔵庫が置かれ、部屋の中央にはローテーブルを挟んで座椅子が二つ向かい合っていた。それ以外に、大きな家電や家具はない。まるで、引っ越すために荷物を持ち出した部屋のようだ。殺風景とも言える室内を見回しながら、見たままの感想が漏れる。
「かなり、シンプルにしてるんですね」
「ここは勉強部屋。ベッドとかは、隣の部屋に置いてる」
 詩織さんが続けて「さっきも言ったけど、二階の部屋は全て空いてるから」と、付け足した。
「以前はここで、子どもたちが暮らしてたんですよね?」
「そう。星河ハウスの定員は、確か六名だったかな。見ての通り部屋は狭いから、ベッドと机を置いたらほぼ足の踏み場がなくて」
 詩織さんが中腰になって、小型冷蔵庫を開けた。もう少し星河ハウスの話を聞いてみたかったが、ネット記事で見た〈被虐待児〉という言葉が脳裏を過る。その辺の事情については、興味本位で触れるべきではない。
 座椅子に向かい合って腰を下ろすと、詩織さんがローテーブルの下からノートパソコンを取り出した。早速、顔を突き合わせながらどんな症例を選定するかを話し合う。新人教育係からは、各病棟の特色が出る疾患を選ぶよう伝えられていた。時折インターネットを駆使しながら意見を出し合った結果、皮膚科なら帯状疱疹、泌尿器科なら前立腺肥大症の二つに絞った。結局、前立腺肥大症の標準的手術法である〝経尿道的前立腺切除術(TUR‐P)〟をテーマにすることが決まった。 
「確か来週、TUR‐Pの入院予定があると聞きました。私、先輩たちに相談してみます。可能なら、その患者の担当になりたいって」
「了解。これで、タイトルも決まりだね。ズバリ『TUR‐Pに対する術後の看護』でしょ」
 詩織さんは芝居掛かった様子で、指を鳴らした。その後は、発表スライドの構成について意見を交わした。一時間近く経った頃、詩織さんが気怠そうに首を回しながら言った。
「症例発表まではまだ時間があるし、今日はこの辺までにしない?」
「ですね。TUR‐Pの概要は、私が家で調べておきます」
 すぐさまノートパソコンは元あった場所に戻され、その代わりにアルコールやお菓子の数々がテーブルの上に並び始めた。発泡酒のプルタブを弾く音を合図に、他愛のない話が室内を満たしていく。遥は下高井戸にオープンしたパン屋のクロワッサンがいかに美味しいかを語り、詩織さんは昨日入院になった患者が四ヶ月も風呂に入っていなかったことや、好きなお酒について喋った。年上の同期は毎日、ハイボールを飲んでいるらしい。  
「でさ、その主人公がマジで鈍感なの。犯人が警察内部の人間だとは、微塵も思ってなくて……」
 詩織さんは最近ハマっている刑事ドラマの内容を喋っている途中で、言葉を止めた。
「おっ、来たな」
 詩織さんが立ち上がりドアを開けると、廊下からジョンが顔を覗かせた。ドアの周囲で鼻をヒクつかせ、のっそりと室内に入って来る。飼い主は歓迎するようにジョンの額を撫でた後、ローテーブルに置かれている板チョコやミックスナッツを次々と冷蔵庫の上に置いた。
「犬は、チョコレートやマカダミアナッツを食べたらダメなの。最悪、死んじゃう」
「えっ、そうなんだ。知りませんでした」
 ジョンは飼い主の隣で、お座りの姿勢を作っている。少しだけ舌を出して口を半開きにしている表情は、なんだか笑っているように見えた。
「ジョンって、今何歳なんですか?」
「多分、二歳にはなってないはず。人間で言えば、二十歳過ぎぐらいかなぁ」
 ジョンは雑種で、大型犬の部類に入るようだ。多くの大型犬は約十八ヶ月で、成犬になるらしい。詩織さんは、ジョンの成長過程はゴールデン・レトリバーに似ていると教えてくれた。一般的に成犬時のゴールデン・レトリバーは、体重が二十五キロ近くに及び、体高も六十センチ以上になる場合があるという。確かにジョンが二本脚で立ち上がれば、遥の肩に前脚が届きそうな大きな身体をしていた。
「実はジョンって、星河ハウスに来る前は東北で暮らしてたの。でも去年の三月十一日に、飼い主と離れ離れになったらしくて」
 目を見張り、続く話に耳を傾ける。被災犬となったジョンは、東日本大震災から数週間後に保健所職員に保護されたらしい。被災地の住民から『野良犬が、ウチの畑を荒らしてる』と、通報されたのがきっかけだったようだ。保護された後は飼い主が名乗り出るのを待ったが、期待した人物が現れることはなかった。そしてジョンは、殺処分の対象となってしまった。
「殺処分前日に、動物愛護団体に救助されて。それからは、その団体の本部がある東京まで移送されたの」
「そうなんだ……でも、ジョンは幸運ですね。詩織さんのような飼い主に、また巡り逢えて」
「確かに今はあたしが主に世話をしてるけど、元々は弥生ちゃんがその団体からジョンを譲渡されたんだよね」
 詩織さん曰く、その団体の中に星河ハウスの出身者が一名いたらしい。その人から被災犬の現状を聞いた弥生さんが、ジョンの譲渡に名乗り出た。被災犬に同情する気持ちもあったようだが、当時は彼女自身が誰かの温もりを求めていた。去年の初めに弥生さんの夫が胃がんで亡くなり、同時期に長年営んでいた自立援助ホームを運営費の事情から閉鎖していた。夫と入居者の子どもたちが消えた家はむなしいほど広く感じ、元施設長にとっては静か過ぎた。そんな背景があり、弥生さんは被災犬と共に暮らすことを選択したようだ。
「あたしがこの家に住むようになったのも、ジョンがいたからなんだ」
 早くも二杯目のハイボールを飲み干した詩織さんが、グラスをテーブルの上に置いた。
「ジョンが星河ハウスに来てすぐ、弥生ちゃんが体調を崩しちゃって」
「それは……犬アレルギーで?」
「違う、違う。むしろジョンのお陰で、病気に早く気付けたって側面もあるし」
 よく意味がわからず、小さく首を傾げた。詩織さんは三杯目のハイボールを作りながら、去年の夏に起きたことを話し出した。 
 ジョンが星河ハウスで暮らすようになってから、弥生さんは毎日散歩に出かけるようになった。そしてすぐに、自らの体調の異変に気付いていく。ジョンと歩く散歩コースはそれほど距離はなかったらしいが、家に戻る頃には毎回ひどい息切れを感じた。最初は日頃の運動不足のせいか、風邪の引き始めだろうと考えていたらしい。しかし予想に反して、ジョンとの散歩は日を追うごとに億劫になっていった。数十メートルも歩かないうちに、動悸や眩暈を強く感じるようになったからだ。よく思い返せば、最近は立ちくらみがひどく、軽い家事をしただけで疲労感を覚えることが多かった。弥生さんは愛犬との散歩をきっかけに、体調の変化を強く意識するようになっていった。そして去年の夏、彼女は時津風病院に足を運んだ。ジョンが星河ハウスに住むようになって、まだ十六日目のことだった。
「その後の検査で、急性骨髄性白血病と診断されちゃって。でも今は、抗がん剤治療の効果があって寛解してる。定期的にフォローの受診には行ってるけど、毎回悪い結果ではないらしいし」
 突然の病魔に襲われた弥生さんは、抗がん剤治療を受けるために時津風病院への入院を提案された。彼女に子どもはなく、関東にいる親戚は武智家しかいなかった。
「あたしが当時通っていた看護学校は、下北沢の方だったから。ここにはたまに、顔を出してたんだよね」
 特に東日本大震災以降、詩織さんが星河ハウスを訪れる頻度は増えたようだ。一人で年季の入った家に住む弥生さんを、心配したためだ。
「ある日ね、実習の帰りに顔を出したら『詩織の知り合いに、ジョンを引き取ってくれそうな人はいない?』って、訊かれて。当時の弥生ちゃんは、ジョンを飼い始めたばかりだったから驚いて。それに、その時の表情が心底悔しそうだったから。すぐに理由を訊いたら、白血病と診断されたことを教えてくれたの」
 闘病することを知った詩織さんは、ある想いを抱いた。治療を無事乗り越え、また愛犬に触れてほしい。それは願いというより、切実な祈りだった。当時の詩織さんは看護学生だったが、既に准看護師としての臨床経験があった。故に抗がん剤治療の辛さは、鮮明にイメージできた。同時に期待した薬効が得られず、命を落とす患者がいる事実も。弥生さんの告白を受けて、彼女が退院するまで星河ハウスに身を置いてジョンの世話をしようと決心した。それに、この家からなら実習先の病院へ通いやすいという利点もあった。
「時津風に入職が決まって、引っ越すのも面倒だなって。まぁ今は、あたしがジョンと離れたくないってのもあるけど」
「色々……大変でしたね」
「まぁね。でも、星河ハウスはこの子がやっと見つけた安心できる居場所だしさ」
 ジョンはいつの間にかお座りの姿勢を崩し、床に伏せて目を閉じていた。悲しい過去が噓のように、今は緊張感を全く感じさせない穏やかな表情をしている。そんな蕩けているような寝顔を見つめていると、庭で耳にした英語を思い出した。
「さっきは凄かったです。あんな走り回ってたのに、詩織さんの指示を聞いたらピタッて動きを止めて」
「あぁ、アレね。あたしが世話するようになってから、英語のコマンドを使ってるの。発音は、ご愛嬌だけど」
 ほっそりとした手がグラスを口に運ぶと、中に入っている氷が涼し気に鳴った。
「はるちゃんはさ、動物介在活動って知ってる?」
 聞いたことのない言葉で、首を横に振った。
「通称、AAAとも呼ばれてる。福祉施設とかに犬が訪問して、利用者と触れ合ってるニュースとか観たことない?」
「なんとなくは……要は、アニマルセラピーのことですか?」
「正確には違うけど、一般的にはその呼び名の方がイメージしやすいかも」
 詩織さんは居住まいを正すと、動物介在活動について簡単に教えてくれた。AAAは動物と触れ合うことによって人間の気持ちの安定を図ったり、生活の質の向上を目的にしたりする活動らしい。レクリエーションの意味合いも含んでいて、学校や施設に訪問することが多いと知った。現状AAAの多くは、ボランティアで行われている。詩織さん曰く、AAAを実施する活動犬になるための公的な資格試験は存在しないようだ。その代わり様々な民間団体が活動犬育成に力を入れていて、独自の認定基準を設けているらしい。
「まずは活動犬の適性があるかどうかを、審査してもらう必要があってさ。適性が認められたら、一定の訓練を積んでAAAに参加できるの」
 詩織さんは口角を上げると、再びノートパソコンを取り出した。キーボードを叩いてから、画面をこちらに向けた。
 高齢者たちと多くの犬が写っている画像が表示されている。チワワのような小型犬もいれば、ジョンと同じ大型犬の姿もあった。画像の中で犬に触れている高齢者の多くは、車椅子に座りながら微笑んでいる。
「このNPO法人は毎年、活動犬の適性審査会を企画してるの。今年はジョンと、参加してみようかなって。来週なんだけどね」
 あくまで適性を審査するためなのか、サイト内には〈どなたでも参加可能〉の一文があった。適性審査会は、二十分程度で終わるらしい。参加するためには申し込み用紙を、事前に提出する必要もあるようだ。そこには愛犬の名前や年齢の他にも、去勢・不妊手術済みかどうかについて、接種したワクチンの種類、フィラリア予防薬投与の有無を記載する項目が並んでいた。
「ジョンに適性があったら、あたしも本格的にハンドラーの勉強をするつもり」
「ハンドラー?」
「簡単に言えば、動物の責任者のことかな」
 同期は苦笑いを浮かべ「まずは、症例発表の資料を完成させろって感じよね」と、自嘲気味に呟いた。
「昔から、こういうボランティアに興味があったんですか?」
「うーん。興味があったっていうか……」
 詩織さんは言い淀みながら、隣で伏せるジョンに視線を向けた。
「昔、犬に救われた経験があってさ」
「もしかして……海や川で溺れているところを、犬に助けてもらったとか?」
 真面目に質問したつもりだったが、同期は首を左右に振って笑い出した。
「違う、違う。でも、観念的な意味では同じかも」
 よく意味がわからないまま、再びパソコンの画面に目を向ける。応募資格の中には、室内犬であること、健康な身体で公衆衛生上問題がないこと、そして人が好きであることと記載されている。続けてサイト内をスクロールしていくと、適性審査会の会場や日程が記されている箇所が映し出された。このNPO法人の適性審査会は、全国各地で毎年一回だけ行われているようだった。東京に近い関東では、埼玉の戸田市にある動物専門学校内で開催予定らしい。次に開催日時を知って、息を呑んだ。適性審査会当日は、遥にとって一つ年を重ねる日だった。その馴染み深い日付を見つめていると、母の姿が脳裏に浮かんだ。いつも伏し目がちで、表情に乏しい人。母から怒られたこともなければ、直接傷つく言葉を投げ掛けられたこともない。同時に褒められたことも、笑顔を向けられたこともなかった。
「……この日、私もついて行きたいです」
 適性審査会に対して、強い興味があったわけではない。誕生日に無理やりにでも予定を入れたかっただけだ。約二十二年前は誰からも望まれず、遥はこの世に生まれ落ちた。今は違うと、教えてほしかった。誰でも良いから「誕生日、おめでとう」と、口にしてほしかった。
「別に、良いけど」
 いつもの調子で、軽い返事が耳に届く。今更飼い主の声に反応したのか、ジョンの垂れた耳が微かに動いた。

 東京と埼玉を隔てる川の水面は、光の結晶が流れているかのように煌めいていた。詩織さんの運転するハイエースが荒川に掛かる橋を越えると、ナビの人工音声があと五分で目的地周辺に到着することを告げた。
 何個目かの信号に差し掛かったタイミングで、国道十七号線を進んでいた車がナビの指示に従って左折した。大通りから外れた道に入ると、徐々に走るスピードが落ちていく。運転手はハンドルを握りながら前のめりになり、フロントガラスから透ける街並みに目を凝らし始めた。助手席の遥も、車窓から外の景色に視線を走らせる。戸田動物専門学校という看板を掲げた建物を発見した瞬間、「あそこだ」と声が揃った。
 学校の駐車場に停車した。誕生日の空は、雲一つない水色が広がっている。皮膚を焦がすような光が眩しくて、自然と片手で目元に影を作る。数秒遅れて、詩織さんも外に出る気配がした。
「ジョン、お待たせ。着きましたよっと」
 一人と一頭の側に近寄ると、飼い主の片手には既に愛犬を繫ぐリードが握られていた。ジョンは星河ハウスの庭先とは違って、駆け出そうとする素振りを一切見せなかった。馴染みのない場所に恐る恐る降り立つと、何かを確かめるように地面の匂いを嗅ぎ始めた。
「まずは水を飲んで、トイレも済ませようか」
 詩織さんが、水を満たした器を足元に置いた。ジョンが水を舐める音を聞きながら、目的地の専門学校を見据える。事前に確認した案内によると、この団体の適性審査会で重要視されるポイントは主に二つあるようだ。一つ目は、一般的なマナーに関して。飼い主の指示に従い、初歩的な「お座り」や「待て」等ができるかを試される。二つ目は、対人に関して。人間の前での振る舞いや、身体を触られた時の反応を審査されるらしい。その他にも飼い主との関係性や犬の性格を総合的に審査され、活動犬としての適性があるかどうかを判断される。
 ジョンがトイレシートの上で排尿を済ませてから、会場に向かった。専門学校の入り口で受付を済ませると、女性に声を掛けられた。彼女は黄色いメッシュベストを身に付けており、そこには適性審査会を企画している団体名と〈審査員〉という三文字が、大きく印字されていた。
 女性に誘導されたのは、普段は学生が授業で使っているらしい教室だった。室内の机は全て撤去されていて、壁際にはパイプ椅子が所々置かれている。既に教室内には、四頭の犬と飼い主の姿があった。ざっと確認したところ、ジョンの他に大型犬の姿はない。チワワやトイプードルが飼い主に抱き抱えられていたり、膝の上で頭を撫でられていたりしている。遠目からでも、どの犬も毛並みが良いのが見て取れた。応募資格の一つに〈室内犬であること〉と、記載があったのを思い出す。日頃から、清潔を保たれている犬たちなのだろう。
「審査の順番が来ましたら、名前をお呼びします。それまでは、この教室で待機していてください」
 審査員の指示を聞いて、空いていた壁際のパイプ椅子に腰を下ろした。隣に座った詩織さんが、ジョンの首元を撫でながらささやく。
「みんな、賢そう」
 改めて周囲を見渡しても、吠え声は聞こえないし、お互いに威嚇し合っている様子はない。どの犬も落ち着いた態度で、順番が来るのを待っていた。
「ジョンも賢そうですよ。絶対に、合格ですって」
 本音を口にしたつもりだったが、その声には身内びいきをしているような響きが含まれていた。詩織さんはジョンを撫でる手を止め、緊張を解すかのように深く息を吐き出した。その間も彼女の視線は、足元で伏せる愛犬に注がれている。
「あたしね、実はずっと抱いてる野望があってさ」
 夢や希望ではなく、野望。その漢字二文字には、口調の軽さとは異なり、確かな熱量を感じさせた。
「いつか犬と一緒に、病院で働きたいんだ。ボランティアではなく、医療スタッフの一員として」
 頭の中に、疑問符が浮かぶ。童話の世界ならまだしも、犬の医療従事者が存在するなんて聞いたことがない。思わず首を傾げると、隣から補足するような声が続いた。
「動物を治療に介在させる、補助療法があるの。日本ではまだ導入している医療機関は少ないんだけど、海外だと臨床で活躍してる犬が沢山いてさ」
「へぇ、初耳です」
「でも、今は無理。まだ臨床経験が足りない」
 教室の引き戸が開いた。顔を覗かせたのは、中年の男性だった。この教室まで誘導してくれた女性と同じく、黄色のメッシュベストを身に付けている。彼は持っていたクリップボードに目を落としながら「武智ジョンくん、武智詩織さん、凪川遥さん、廊下にどうぞ」と、呼びかけた。
「Stand」
 詩織さんが歯切れ良く告げると、伏せていたジョンがのっそりと立ち上がった。
 廊下に出た後は、一人と一頭と距離を空けた場所で様子を見守ることにした。まず最初に実施されたのは、停座に関するマナーテストだった。いわゆる、お座りの保持ができるかどうかだ。飼い主の三回以内の命令、もしくは三十秒以内にお座りができなければ、その場で失格になる。看護師国家試験で言えば、必修問題に似たものなんだろう。
「Sit」
 詩織さんの一回目のコマンドで、尻尾を揺らすお尻が素早く下がった。ジョンは綺麗に前脚を揃え、問題なくお座りの姿勢を作っている。
「Stay」
 飼い主から「待て」と、同義のコマンドが飛んだ。途中、審査員がジョンの名を呼びながら手招く仕草をしたが、茶色と黒のまだら模様の背中はその場に留まっている。
「Good boy」
 詩織さんはジョンの額を撫でた後、次に「Down」のコマンドを発した。廊下に、語尾を落とした声が響く。愛犬は指示通り廊下に伏せ、飼い主を見上げた。審査員が満足そうに頷く姿を見て、ひとまずマナーテストは無事クリアできたのを察した。
 廊下での審査が終わると、さっきとは別の教室に誘導された。足を踏み入れた先で目に映ったのは、メッシュベストを着た審査員四名の姿だ。彼等は車座に置かれたパイプ椅子に座り、誰もが小型犬を膝に乗せている。ここまで誘導してくれた審査員が、ストップウォッチを取り出しながら告げた。
「武智さんはパイプ椅子に座って、ジョンくんに隣で停座するよう指示して下さい。その後は一分間、審査員たちと世間話をして下さいますか」
 今回は多分、人間と動物がいる場での振る舞いを審査するんだろう。詩織さんは頷くと、一つだけ空いていたパイプ椅子に腰を下ろした。ジョンは特に戸惑う様子はなく、飼い主の側でお座りの姿勢を保持している。ストップウォッチを手にした審査員からスタートの声が掛かると、チワワを膝に乗せた女性審査員が口火を切った。
「可愛いわね。今、何歳?」
「ありがとうございます。二歳ぐらいです」
 それからいくつか、日常会話のような質問が続いた。審査員たちは詩織さんの返答に頷きながら、ジョンに絶えず笑みを向けている。審査中とはいえ、暖かい雰囲気が教室内に漂っていた。
「この会に参加するのは、初めて?」
「はい。なので、あたしの方が緊張しちゃって」
「リラックス、リラックス。たとえ今回がダメでも、毎年一回は企画してるから。来年、またチャレンジすれば良いのよ」
 何事もなく一分間が過ぎると、パイプ椅子に座っていた初老の男性審査員が席を立った。彼は膝に乗せていたチワワを他の審査員に預けた後、ジョンの全身を撫で始めた。耳、脚、肉球等にも触れ、その時の反応を逐一うかがっている。触れる力は強弱を付け、背中や腹を軽く摘むような仕草も織り交ぜていた。AAAの訪問先では、動物と触れ合うことに慣れていない人や子どもたちを前にすることもあるはずだ。実際の場面を想定して、触れられた時の反応を確かめているんだろう。ジョンは、いくら審査員が身体に触れても嫌がる素振りを見せなかった。むしろ腹を出して口元を緩ませながら、尻尾を激しく振っている。
 審査員がジョンに触れるのを終えると、次に一人と一頭は決められたコースの上を歩くというテストに挑んだ。教室内にはコの字形に絨毯が敷かれた箇所があり、その上だけを進むように指示が出された。コースの途中には、いくつかの仕掛けが用意されていた。音への反応を観察するために、掃除機が轟音を立てたり、スマホのアラームが鳴ったり、ビニール傘が開いたり閉じたりするようだ。詩織さんはコースの側で待機している審査員を一瞥してから、愛犬に真っ直ぐな眼差しを向けた。
「Heel」
 詩織さんが「踵」という意味のコマンドを発すると、ジョンが彼女の横に並んだ。お互いに視線を交わしてから、人間と犬が絨毯の上を歩き始める。ジョンは途中、音が鳴った方へ顔を向けることはあったが、吠えることもコース外へ走り出すこともなかった。無事折り返してスタート地点に戻ってくると、詩織さんの「Good boy」が、また室内に響き渡る。
 教室の隅で一人と一頭の動向を目で追っていると、いつしか胸の高鳴りを覚えていた。握り続けた掌は汗で湿り、詩織さんとジョンの一挙一動を見逃すまいと瞬きさえも堪えた。立っているだけなのに鼓動は速まり、脳裏では「頑張れ」を連呼してしまう。冷静に考えれば人間の指示に犬が従っているだけなのに、どうしてこんなにも心が突き動かされているのだろう。一人と一頭が審査に挑戦している姿に、素直に感動しているからか。それとも飼い主と意思疎通ができる愛犬を見て、単純に感心しているのか。もっと言えば、ある種の競技を観戦しているような興奮を覚えているのかもしれない。しかし頭の中で羅列したいくつかは、どれも的外れな気がした。胸の中で溢れている感情の源泉を、上手く探し出すことができない。
 最後に控えていたのは、より訪問先を意識した対人テストだった。教室の中央で待機している詩織さんたちに、これから三名の審査員が順番に近付いていくらしい。車椅子に乗っている者、白衣を着ている者、最後は不審者らしき人物。ジョンを見慣れない人々と対峙させ、その時の反応を審査する。
 最初に教室のドアから現れたのは、車椅子に乗った男性審査員だった。彼はジョンと詩織さんの周囲を一周すると、笑みを浮かべて再び廊下に消えた。ジョンは初めて見た車椅子にも、特に大きな動揺を示すことはなかった。
 二番目に現れたのは、白衣を着た若い女性だ。彼女は一人と一頭の前まで近寄り、茶色い毛で覆われた額を撫でた。触れられた時に尻尾が揺れるスピードは若干速くなったが、ジョンがその場から動くことはなかった。飼い主の指示に従ったまま、前脚を揃えている。
 最後に現れたのは、野球帽を目深に被り、サングラスとマスクを身に付けた男性審査員だった。ロングコートを羽織り、片手には動物を中に入れて持ち運ぶクレートをぶら下げている。彼は他の二人とは違って、明らかに怪しげな格好と動きをしていた。歩くスピードが、他の二人とは全く異なっている。酩酊している設定なのか、千鳥足というより大袈裟に蛇行しながら一人と一頭の方へ近寄っていく。
「ちょっと、ジョン!」
 突然、切迫した声が聞こえた。真っ先に目に飛び込んできたのは、彼女が握るリードの変化だ。さっきまでは床に触れそうなほどたるんでいたのに、今は千切れそうなほど張っていた。
「ねぇ、ジョン!」
 詩織さんは英語のコマンドを告げることも忘れ、必死な形相を浮かべている。お座りの姿勢を崩したジョンは、リードを引っ張りながら体勢を低くして右往左往していた。誰が見ても動揺している。愛嬌のある表情は、色濃く怯えに支配されていた。メトロノームのように揺れていた尻尾は動きを止め、今は弱々しく垂れ下がっている。ジョンは、飼い主に助けを求めるように上目遣いだった。
「ねぇ、ジョン。どうしたの?」
 ジョンは壁際に向かって、徐々に後ずさるような仕草を見せた。口元は閉じられているのに、何かにすがるような高い鳴き声が鼻から漏れ出している。遥の位置からでもわかるほど、大きな身体は小刻みに震えていた。
「もう、審査を中止して下さい」
 詩織さんは低い声で宣言すると、リードを引っ張るのを止めた。ジョンはすぐさま教室の隅まで逃げ込み、怯えた瞳で飼い主を見上げている。
「ごめんね。もう大丈夫だから」
 詩織さんは何度も同じ言葉を繰り返しながら、愛犬の身体を摩り始めた。美しい毛並みに、飼い主が触れた跡が付く。その手つきは壊れやすい何かに恐る恐る触れているようにも見えるし、大切な何かを絶対に離すまいとしているような力強さも感じられた。
「本当に、ごめんね」
 飼い主の何度目かの謝罪の後、怯えた高い鳴き声が止んだ。今度は力強く吠える声が、教室の空気を震わせる。喉から搾り出すような唸り声も交じっていた。そして雫が床に垂れるような音が耳を打ち、冷房の風に乗って尿臭が届いた。ジョンの足元には、小さな水溜りが形成されている。
「ごめんなさい。すぐ片付けますので」
 愛犬が失禁したことに気付いた飼い主が、審査員に向けて頭を下げ始めた。その最中もほっそりとした手は、小刻みに震える犬の身体を摩り続けていた。

 詩織さんはハイエースのエンジンを掛けると、行きとは違ってラジオのスイッチを押した。
「帰りに、ドッグカフェに寄って良い? 頑張ったジョンに、ご褒美あげないと」
 妙に明るい口調だった。曖昧に頷くと、運転手はナビを操作した。目的地までの予想到着時間が表示された後、ハイエースは走り出した。
 バックミラーで後部座席を確認すると、フラットにしたシートの上でジョンが身体を丸めていた。つぶらな瞳は虚空を眺め、その眼差しは普段より悲しげに見える。まるで、適性審査会に不合格だったことを理解しているように。つい十数分前も、似たような眼差しを盗み見ていた。審査員から「残念ながら、ジョンくんは適性なしです」と告げられた時に、詩織さんの目元にも同じような哀愁があった。不合格の理由は、人に対して吠え、粗相もしてしまったからだ。残念だが、理解できないわけではない。訪問先で無邪気な子どもや足腰の弱っている高齢者に攻撃的な態度を向ければ、事故に繫がる可能性だってある。そもそもそういう犬には誰も近寄ってはこないだろうし、AAAを実施すること自体困難だろう。
「ジョンを、怖がらせちゃったな。本当に反省」
 詩織さんが、前を見つめながら呟いた。正直、どう返事をして良いかわからない。少し間を空けてから、当たり障りのない内容を口にした。
「仕方ないですよ。あの不審者役の人、誰が見ても怪しさ満点でしたし」
 フロントガラスからは、東京と埼玉を繫ぐ橋が見え始めている。ほっそりとした指が、ラジオを消した。
「ジョンは、あの審査員を怖がってたわけじゃないと思う。多分、彼が持ってたクレートに反応したのかも」
「クレート……ですか?」
「そう。本当は車に乗る時とかも、クレートに入ってた方が安全なんだけど。でも中に入るのを異常に嫌がるから」
 助手席のシートベルトに意味もなく触れながら、低い声で告げられた内容を脳裏で嚙み砕いた。
「……狭いところが、苦手なんですか?」
「狭いっていうか、閉じ込められるのを嫌がるの。あたしが思うに、保健所での日々を思い出すんじゃないかな」
 眼下の荒川は、行きと同じように煌めいている。しかし殺処分前に保護された話を思い出していると、水面の輝きは全く綺麗とは思えなかった。むしろ、眩しいだけで鬱陶しい。
 ハイエースは橋を渡り切り、今度は東京の街を進んでいく。見知らぬ風景から目を逸らし、バックミラーに映るジョンを見つめた。
 さっき、一人と一頭は人間の言葉で対話ができなくとも、確実に何かをやり取りしていた。仕草で、眼差しで、記号のような言葉で。今更ながら、審査中に覚えた感情の源泉に触れた。飼い主と愛犬を繫ぐ信頼関係が確かに伝わったから、胸を突き動かされたんだろう。あれは、服従関係とは違う。詩織さんとジョンはお互いを理解しようと五感を働かせ、何度も視線を重ねていた。何より、楽しそうだった。
 重い雰囲気を車内に満たしたまま、ハイエースは車道を進んでいく。赤信号で止まったタイミングで、再び運転手が口を開いた。
「ねぇ、助手席のグローブボックスを開けて。その中に、写真があるでしょ?」
 取り出した写真には、黒い犬を中心として二人の人物が写っていた。黒い犬の右側に立つ少女は、中学生ぐらいだろうか。フレームの太い黒縁メガネを掛けて、前面に〈Love〉とプリントされた半袖のTシャツを着ている。黒い犬の左側に立つ女性は、二十代後半に見えた。ふくよかな体型で、片手にはリードを握っている。写真の画質は良いとはいえず、若干レトロな雰囲気が漂っていた。それもそのはずだ。写真の右下には『2000/8/24』と日付が記載されていた。今から、約十二年前に撮影されたものだ。
「黒い犬の名前は、レオンっていうの。可愛いでしょ」
「はい……毛並みも良いですね」
 犬種は、ラブラドール・レトリバーだろうか。画質が粗くとも、黒い被毛に艶があるのが見て取れた。
「リードを握ってるのは、当時星河ハウスによく来てくれていた梅木蘭さん。そんでもう一人が、十四歳のあたし」
 改めて、Tシャツを着た少女を凝視する。伏し目がちだし、何より太いフレームのメガネが強い印象だが、よく観察すると確かに詩織さんだった。シャープな顎のライン、筋の通った鼻、やや厚い唇。それらのパーツに、今の面影が滲んでいる。
「その頃は太田母斑が嫌でさ、メガネでごまかしてたんだ。あたしの場合は遅発型だったから、中一ぐらいからアザの色が濃くなってね。徐々に左目周囲の皮膚が、ケガした後みたいに青紫に染まっちゃって」
 信号の色が変わり、運転手がアクセルを踏んだ。太田母斑は色素細胞が皮膚の深い場所で増殖し、青アザを生じさせる疾患だ。生後間もなくの〝早発型〟と思春期頃に現れる〝遅発型〟があり、主に顔面の片側の額、頰、鼻、目の周囲等を青紫に染めてしまう。皮膚科の患者を受け入れている病棟に勤務していなければ、太田母斑と聞いてもピンとこなかったかもしれない。
「その頃はもうレーザー治療の終盤で、左目周囲の青アザは薄くなってる。でもね、強膜の青色斑は治療できなくて」
 強膜は、白目のことだ。治療とはいえ、レーザーを目に照射すると、失明の危険性がある。そんな事情があり、実施できなかったのを察した。
「当時は『誰かに殴られたの?』とか『お岩さん』って、クラスメイトの男子にいじられて。実は、けっこう病んでたの」
「ひどい……」
「治療をすれば綺麗に消えると思ってたんだけど、目の中にレーザーは照射できないって言われちゃって」
 完璧に治療できないショックは大きく、当時の詩織さんは八つ当たりのように両親との喧嘩が絶えなかったようだ。そして徐々に、学校も休みがちになってしまった。多分、思春期という元々不安定な時期が重なった影響もあるのだろう。
「あたしの母から相談を受けた弥生ちゃんが、『気分転換に、星河ハウスで過ごしたら?』って誘ってくれて」
 十四歳の夏休み、詩織さんは渋々星河ハウスに足を運ぶことにした。当初は二、三日したら自宅に帰るつもりだったらしい。しかし結局、夏休みのほとんどを星河ハウスで過ごすことになる。
「梅木蘭さんとは、星河ハウスで出会ったの。彼女は当時、都内の病院で働く看護師でさ。週に何度かボランティアで、星河ハウスにAAAをしに来てた」
 AAAを通して、子どもたちに安らぎを与えたかったのだろうか。改めて写真に目を落とすと、ハンドラーの女性はリードを握りながら優しい笑みを浮かべていた。
「レオンも、超可愛かったな。触れ合っている間は、嫌なあれこれを忘れられたし。不思議と気持ちも、穏やかになるっていうか」
 この前『犬に救われた経験があってさ』と告げた声が、耳の奥で蘇る。
「それに当時よく、梅木さんから簡単なコマンドを教わってたの。レオンと遊ぶために」
「だから、ジョンにも?」
「うん。それに梅木さんの前では、色々と素直に話せたし」
 運転手が何かを思い出すように、遠い眼差しを浮かべた。
「ある日ね、梅木さんに左目のことを相談したの。そしたら『あなたの左目は、素敵よ。サファイアみたいに、輝いてる』って言われて。それが、妙に嬉しくて。その写真は、最後のAAAの後に撮ったの。梅木さん、結婚を機に広島に行くみたいだったから」
「確かに写真の中の詩織さんは、少し悲しそうな表情をしてますね」
「もうこのペアと会えなくなるんだって、拗ねてたんだ。随分と良くしてもらったのに、最後はサヨナラすら言えなかったし。マジで、今でも大きな後悔の一つ」
 写真をグローブボックスに仕舞いながら、どうしてか母との唯一の思い出が脳裏を巡った。後楽園ゆうえんちのステージ上で鳴り響く軽快な音楽、演出の一つである爆発音や手裏剣が空を切る音、ヒーローたちの決め台詞。あの時、母とツーショットの写真を撮っただろうか。浮かんだ疑問の答えは、すぐに出た。今まで入学式も、卒業式も、授業参観にも顔を出したことがないあの人が、娘と写真なんて撮るはずがない。
「とにかく、活動犬であろうがなかろうが、ジョンに対する愛情は変わらないから」
 力強い声を聞いて、感傷の渦から這い出した。運転席に顔を向けると、確かにサファイアのように煌めく左目が前を見据えている。
「活動犬になれば、多くの人に出会えそうだし。あたしや弥生ちゃん以外の人にも、ジョンを愛してほしかっただけ」
 ずっと、詩織さんは誰かの役に立つためにハンドラーを目指していると思っていた。しかし、それは勘違いだった。AAAで多くの人々にジョンを愛してもらいたい。全てはジョンのためだった。
「私も、ジョンのことが好きですよ」
 ハイエースは、ドッグカフェを目指して東京の街を縫うように進んでいく。フロントガラスの先に広がる誕生日の空も、夏の光を浴びた同期の横顔も、眩しいほどに清々しい。

(♯2 終わり)

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前川 ほまれ(まえかわ・ほまれ)
1986年生まれ、宮城県出身。看護師として働くかたわら、小説を書き始め、2017年『跡を消す 特殊清掃専門会社デッドモーニング』で、第7回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。2019年刊行『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』は第22回大藪春彦賞の候補となる。2023年刊行『藍色時刻の君たちは』で第14回山田風太郎賞を受賞。その他の著書に『セゾン・サンカンシオン』がある。

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