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【冒頭10,000字を大公開!】父と息子の気づまりな同居ストーリー『喪を明ける』

お盆やお正月などに帰省した際などに、久々に親と向き合うと、意外と話に詰まって、間が生まれ、手持無沙汰になり、双方様子見しているみたいな、なんとも言えない空気になった、という経験ないでしょうか?
太田忠司さんの長編『喪を明ける』は、妻に先立たれた父親と、妻子と別れた息子の8年ぶりの同居生活を描いた物語です。
物語は、章ごとに父・卓弥、息子・優斗と、語り手を変える構成になっています。試し読みでは、プロローグ的な第1章から、卓弥の第2章、優斗が主人公の第3章まで公開しています。
ぜひご覧いただき、彼らふたりのその後まで読み進めてください。

■著者紹介

太田忠司(おおた・ただし)
1959年愛知県生まれ。名古屋工業大学卒業。81年、「帰郷」が「星新一ショートショート・コンテスト」で優秀作に選ばれる。『僕の殺人』に始まる〈殺人三部作〉などで新本格の旗手として活躍。2004年発表の『黄金蝶ひとり』で第21回うつのみやこども賞受賞。〈少年探偵・狩野俊介〉〈探偵・藤森涼子〉〈ミステリなふたり〉など多くのシリーズ作品のほか、『奇談蒐集家』『星町の物語』『名古屋駅西 喫茶ユトリロ』など多数の著作がある。また、『麻倉玲一は信頼できない語り手』で第8回徳間文庫大賞を受賞し話題となる。

■あらすじ

妻に先立たれた父・卓弥と、その息子で、妻子と別れ実家に戻ってきた優斗の8年ぶりの同居が始まる。靴職人でぶっきらぼうの父と、今は定職に就かず様々なアルバイトで暮らす息子の共同生活は、ぎこちなく、気まずい。新たな出会いと、それぞれが抱える喪失感。「わからないまま生きていく」――。大地震、疫病、変災を経て、AIや移民の問題を抱える近未来の日本を舞台に、理不尽と向き合あおうと模索する人間を描いた物語。

■本文

1  トマトは好きか

 リサイクルショップで手に入れたボストンバッグに詰め込まれたもの、それが優斗ゆうとが携える荷物のすべてだった。大きなものは既に送ってある。
 手に提げても、思ったほどの重みはない。こんなものか、と少し拍子抜けした思いで歩きだそうとした。
「これ」
 声をかけられ、振り向く。来香らいかが一冊のノートを差し出していた。
 いらない、と言おうとした。捨ててくれ、でもよかった。しかしこれ以上、彼女に捨て鉢な言葉を投げたくなかった。黙って受け取る。
 ノートを介しての最後の接触。優斗は来香を見た。彼女もこちらを見ている。だがその瞳に自分が映っているようには思えなかった。ただ前を見ているだけだ。
 最後に何か言うべきか。そんな迷いもその眼を見て失せた。もう彼女の心に自分の言葉を留める場所はない。それが痛いほどわかった。
 ノートをバッグに押し込み、小さく頷くだけで背を向けた。
 東京から着の身着のままで逃れた後、急遽用意された仮設住宅で暮らした五年の日々は、いつも灰色に塗り込められていた。明るい何かを欲する気持ちさえ湧かない。そんな生活の中で、ふたりでいることが苦痛になった。本当ならもうひとりいたはずの、その存在の欠落も、互いの心を容赦なく押しつぶしていった。だからこうなることは避けられなかった、と自分に弁明する。こうするしかなかったのだ。
 急に冷たくなってきた風に急き立てられるようにして、西へ向かう電車に乗った。乗客は少ない。優斗は駅で買った冷たい駅弁を頰張り、ノンアルコールビールを飲みながら窓の外を眺めた。晩秋の景色は、素っ気ないくらい何も変わらないように見える。
 これからどうやって生きていこうか。
 そもそも、生きていていいのか。
 考えれば考えるほど、自分が行き止まりに立ち竦んでいるような気分になる。溜息をついて、タブレットを取り出した。バッテリーがほとんどないことに気付き、舌打ちをする。網棚に乗せたバッグを下ろして充電ケーブルを取り出した。そのとき、来香に渡されたノートが眼に入った。
 黄色い表紙は縁が折れ曲がり、黒ずんでいる。中の紙も途中までは縒れていて、束が少しばかり膨らんでいる。開くと絵と文字がびっしりと埋まっていた。すべて優斗自身が描いたものだ。
 鈍い痛みが心を刺す。このノートに書き込みをしていた頃、彼はまだ絶望していなかった。必死に東京から逃れようとしたときでさえ、ノートを手離さなかった。自分の宝だった。これさえあれば自分はやり直せると、そう思っていた。
 いつからだろう。ノートを開くことが苦痛になった。新たなものを生み出す気力が失せ、苦痛でしかなくなった。何もできない穀潰しになってしまった。来香の瞳が自分を映さなくなった。何もかも終わってしまった。あれは、いつから?
 自分に問いかけながらページをめくる。その手が、止まった。
 そこに描かれているのは、赤子の手だった。ふっくらと丸みを帯び、何かを摑もうとしているかのように曲げられた、小さな指。
 わかっている。あの日からだ。この小さな手の柔らかさと温かさを失った、あの日から。
 優斗はノートを閉じた。心がきりきりと痛み、軽く突かれただけで泣きだしそうだった。
 こんな姿を、父ちゃんには見せられない。
 ノートをバッグの奥にしまい込む。残っているノンアルコールビールを飲み干し、座席下のコンセントでタブレットを充電しながら、ネットラジオから流れる二〇二〇年代の音楽をイヤホンで聴いた。
 眼を閉じて思う。どうして来香は、最後にあのノートを手渡したのか。続けろと言いたかったのか。それとも忘れるなと? どちらも違うような気がした。きっと優斗の持ち物を全部排除したかった。それだけのことだ。
 俺だって、捨ててしまいたい。
 でも、優斗にはわかっていた。自分はあのノートを捨てたりしない。捨てられない。ただバッグの奥にしまい込み、忘れようとするだけだ。
 顔を上げ、車窓の外を見る。電車は名古屋へ、懐かしくも鬱陶しい故郷へと向かっていた。

    

 掃除の習慣は、すでに身についていた。掃除ロボットに任せるだけでなく、卓弥たくやは自分の手できれいにすることを心がけた。夏美なつみがそうしていたからだ。
 キッチン、リビングと続けて、二階へと上がる。
 この部屋だけは、今まで手を着けなかった。ずっと空き部屋だったからだ。しかし今日中に掃除しておかなければならない。掃除機を手に卓弥は部屋に入った。
 籠もった臭いがする。カーテンを引き窓を開く。臭いはカーテンにも染みついているようだった。これも替えておくべきか。いや、それはあいつにさせよう。それくらい、自分でやらせなければ。
 開いた窓から少し冷たい空気が入ってくる。もう暖房の用意もしておくべきだろうか。卓弥は振り返り、部屋を眺めた。机もカラーボックスも、まるで持ち主が帰ってくることを知っていたかのように、そこに在った。正確には、ただ捨てなかっただけなのだが。
 この部屋にはほとんど入ったことがなかったな、と卓弥はあらためて気が付いた。入らなければならない用事もなかったからだが、今こうしていても、なんとなく居心地が悪い。自分の家の一室なのに、どこか他人の住居のような気がする。
 床だけでなく壁にも掃除機をかけた。壁紙もかなりくすんでいる。ところどころ染みも出ていた。気に入らない。全部貼り替えてしまうか。いや、そんな時間はもうない。そもそも自分が住むわけではないのだ。これ以上手間をかける必要もないだろう。
 部屋の掃除を終えると一階に下り、仏壇の線香が燃え尽きて火が消えていることを確認して家を出た。
 買い物は近くのスーパーへ。これも夏美が毎日していたことだ。デリバリーにすれば楽になるのにと卓弥が言ったら、手数料を上乗せされるのがいやなの、と返された。それほど金に困ってるわけでもないだろうと言い返すと、手数料分はわたしの小遣いに貰ってるの、と笑っていた。本当にそうしていたのかどうか、わからない。夏美は本当か噓か判別できないようなことを、よく口にした。子供のとき、すごく大きな鳥が空を飛んでるのを見たわ。きっとどこかから逃げ出したコンドルね。昨日は幼馴染みから久しぶりにメールが来たんだけど、アメリカの土地を買って移住しないかなんて勧誘してきたから削除しちゃった。料理をしてるときにレシピに書き留めたいことがあったから、あなたのボールペンを借りたんだけど、うっかりトマトソースの中に落としちゃった。きれいにしたつもりだけど、もしかしたら匂いが残ってるかもね。
 ボールペンからトマトの匂いがすることはなかった。
 そういえばあいつ、トマト味が好きだったか。いや、嫌いだったのかな。どっちだったか。思い出せないのでトマトは買わないことにした。適当に冷凍食品と惣菜を買い物カゴに放り込み、レジに向かう。キャッシュレスにはさすがに慣れているはずだが、それでもレジを通過するときには少し緊張する。しかし今回も咎められることはなく、無事に精算できたようだった。
 家に戻ると買ってきたものを冷蔵庫に放り込み、仕事場に入る。
 使い慣れた作業机と椅子。道具箱の中に整理して並べた工具も手に馴染んだものばかりだ。卓弥は昨日仮縫いを済ませた靴を手に取る。最近の合成皮革は出来がよく、見た目は本革とほとんど区別が付かない。違うのは匂いと、作業中に指が教えるかすかな感触くらいだ。卓弥はもう長い間、本革を切る感覚を味わっていなかった。それを寂しいと思うこともあるが、致しかたないと自分を諦めさせていた。そういうご時世だ。
 道具箱から革包丁をひとつ取り出す。この仕事を始めた頃に手に入れた古い道具だった。研ぎつづけて刃は短くなり、いささか使いづらくなってきた。それでも持った感覚は手に馴染み、今でも使っている。これも執着なのか。もっと便利に使えるものがあるのに、昔からのものを手離せないでいる。失うことが嫌なのだ。
 失いたくなくても、いなくなってしまうものはあるのに。
 夏美の顔をまた思い出した。病院でふたりきりになった最後の時の、穏やかな顔だ。彼女はゆるゆると頭を動かし、ベッド脇に立つ卓弥を見つめた。そして、言った。
「……さよなら」
 おい勝手に別れを言うな。まだだ。まださよならなんかしない。そう言おうとした。だが、言えなかった。
 口にできなかった言葉は、ずっと卓弥の中に沈殿している。
 仕事場から出るとリビングに移り、ソファに腰を下ろす。ネットラジオを付けると聞き覚えのある曲が流れてきた。タイトルは思い出せないが、夏美が好きだった二〇二〇年あたりのヒット曲だったか。
 聴きながら卓弥は、これからの生活のことを思った。どんな暮らしになるのか、想像もつかない。うまくやっていけるだろうか。いくら肉親だといっても、もう何年も離ればなれに生きてきている。今更、馴染めるだろうか。トマトが好きかどうかも知らないのに。
 わからない。わからないまま、生きていく。それしかないのだ。卓弥は自分に諭した。考えてもみろ。今までの人生ずっとわからないことばかりだった。地震があり疫病があり遠くの戦争があり東京変災があり経済の混乱があった。どれも予期しないうちに襲いかかってきて、それまでの生活を根こそぎ奪っていった。それでも生きてきた。いや、生きていかなければならなかった。多分、これからも。
 インターフォンが鳴った。時間を確認する。来たか。
 玄関を開けると、息子がいた。

    

 玄関が開き、父が姿を見せた。
 やあ、とか、来たよ、とか、何か言わなければならない。でも何と言ったらいいのかわからず、優斗は玄関前で棒立ちになっていた。
「部屋は前のを使え。掃除してある」
 卓弥のほうから、いささかぶっきらぼうな口調で言われた。
「あ、どうも」
 こちらも自分でもおざなりに聞こえる応答をして、家の中に入る。
 うまくやっていけるだろうか。ずっと抱えている不安がまた湧き上がってくる。まさかこの歳になって父親とふたりきりで暮らすことになるとは。自分で決めたことなのに、この状況に今でも戸惑っている。
 二階に上がろうと階段を上りかけたとき、
「おまえ、トマトは大丈夫か」
 卓弥に唐突に訊かれた。
「何? トマト?」
「そう。トマトだ」
「ああ……大丈夫。生でも加熱したのでも食べられる。食い物に好き嫌いはないよ」
「そうか」
 頷いた後、
「何か食えないものがあったように思ったが、トマトじゃなかったか」
「違うよ。きっとピーマンだ。子供の頃は全然食えなかった」
「今は?」
「ピーマンの肉詰めは好物になった」
「そうか。じゃあ夕飯には、それを出す」
「作ってくれるの?」
 問いかけると、
「冷凍だ。買ってある」
 それだけ言って、リビングに行った。
 優斗は自分の部屋に入った。住んでいた頃のままだった。壁紙もカーテンもカラーボックスも。
 ボストンバッグを置き、窓を開ける。新幹線の駅を降りたときに見た名古屋駅周辺の光景はずいぶんと変わっていたが、この窓から見える景色は、あまり変わっているように思えなかった。それでも視界に入る家の何軒かは真新しく見える。
 これが八年という年月が経った証なのだろう。
 早々に一階へ下り、仏壇の前に座って手を合わせる。壁に飾られた遺影はデジタルフォトフレームではなく、プリントアウトされた写真だった。まだ元気だった頃の、柔らかな笑みを浮かべた母親の顔を、優斗は見つめた。
「ただいま、母ちゃん」


2  再生すること

 目の前に置かれたのは履き古したレザースニーカーだった。黒と茶色の革で構成されたアッパーは甲にも踵にも履き皺がくっきりと刻まれ、形が崩れている。表面の革は擦り傷や引っかき傷でかなり汚れていた。しかしそれ以上に問題なのは靴底とアッパーが一部剝がれてしまっていることだった。これでは到底、使い物にならない。
 卓弥はそのスニーカーを持ち込んだ男に眼を向けた。
「ひどいもんでしょ」
 向こうから言ってきた。
「ひどいですね」
 そう応じるしかなかった。
「これを直すんですか」
「難しい、ですかね」
 男は窺うように尋ねてくる。
「とても難しいです」
 正直に言うことにした。
「革のアッパー部分をリペアするのはそれほど困難ではない。問題は靴底です。普通の革靴なら釘で止めたり縫い直したりして直せるんですが、スニーカーというのはアッパーと靴底は接着剤で固定しているんです。もちろんこの靴も。その部分を接着し直すのは、とても難しい。特にこの靴は接着面が狭いので、一度接着してもすぐに剝がれてしまう可能性が高い。あえてトライしてみても、数回履いただけでまた駄目になるでしょう。そもそもスニーカーというのは革靴と違って修理して履くことを前提としていないものです。駄目になったら新しいものを買う。それではいけないのですか」
 怒りだすかも、と思いながら話した。男は卓弥の言葉を聞きながらスニーカーに視線を留めていた。三〇歳前後くらいだろうか。着ているコートは袖のあたりが擦り切れかけているし、髪は無造作というには伸びすぎている。清潔にはしているが身なりにそれほど関心を持っているタイプではないようだった。
「同じこと、言われました」
 男はやっと、言葉を返した。
「こちらに伺う前にも三軒、修理屋さんに持ち込んでみたんです。どこも断られました。たとえレザーでもスニーカーはスニーカーだ。直してまで履くものではない、って。やっぱりそうなんですね」
「普通は、そうですね。このスニーカーは普通ではないのですか」
「いえ、ショッピングサイトで見つけた、ごくありきたりのものです。でも」
 その先の言葉を躊躇っているように見えた。視線はやはり、スニーカーに注がれているままだ。
 卓弥はその靴をもう一度手に取り、ぱっくりと口を開いている靴底を見つめ、アッパーの状態を確かめ、それから言った。
「接着面に小さな釘を何本か打って固定すれば、補強は可能だと思います。その上でアッパーと磨り減っている踵部分の補修をすれば、履くことに支障のない状態にはできるでしょう」
「本当ですか」
「ただし、いささか費用がかかります」
 タブレットデバイスから見積書を呼び出し、その場で入力する。靴底の固定、アッパーの修繕、踵の補修と、ひとつひとつ費用を書き込み、合計金額を記して相手に提示した。
「……なるほど」
 少し間を置いて、男は答えた。
「多分、この靴を買ったときの値段と同じくらいだと思いますが」
「むしろ修理費のほうが高いくらいです」
「どうします? そこまでして直す気がありますか」
 卓弥の問いかけに、男はすぐには答えなかった。頭の後ろに手をやり、中空を見上げるような視線で数秒、動かない。
「……この靴、見た目で買ったんですよ」
 しばらくして話しはじめた。
「運命の出会いってほどじゃなかったんです。ああいいな、くらいの感じで。それまで靴なんて値段優先で安いものしか履いてこなかったんです。革のスニーカーなんて興味もなかったし。でもあのときは買いたいと思っちゃったんですよね。今まで一足の靴にこんな金を出したことなかったんだけど。どうして買ったのかなあ。よくわからないんです」
 はにかむような表情で、彼は言った。
「でもね、これが失敗でした。靴に足を入れて少し歩いてみてわかったんです。合わないんですよ。なんかしっくりこない。その上、歩いてるうちに右の踵だけ痛くなってきて。ああこれはハズレを引いちゃったなと思いました。でもね、下駄箱に仕舞い込む気にも、捨てる気にもなれなかった。そこそこの値段がしたから、もったいなかったんですよ。それに何より、見た目が気に入ってたし。だから諦めきれなかった。
 それからは、そいつとの戦いでしたね。靴擦れを起こすところにパッドを貼ったり、インソールを違うものに換えてみたり、靴紐を何度も結び直して自分の足に極力合うポイントを探してみたり。試行錯誤っていうか騙し騙しっていうか、いろいろ試してみながら履きつづけました。その甲斐あってか、最近やっとこの靴が足に馴染んできたような気がしてたんです。歩きやすくなったし、足も痛くならない。勝ったな、って思いました。
 でもその矢先です。雨の中を歩いてたら妙に足がびしょびしょする。おかしいなって思って帰ってから見てみたら、そんな感じにぱっくりいっちゃってました。なんだよって思いました。せっかく仲良くなったと思ったのに、もうお陀仏かよって。なんだか腹が立っちゃいましてね。そのままごみ箱に放り込んでもよかったんだけど、念のためと思って修理屋に持ち込んでみたんです。そしたらさっき、あなたが言ったのと同じようなことを言われました。スニーカーなんて履き潰して捨てるもんだ。わざわざ直そうなんて誰も考えないって。ああそういうもんなんだって納得しかけたんですけど、でもこのまま捨てちゃうと、こいつと戦った年月が無駄になっちゃうんじゃないかって思って、それで念のために靴修理の専門家っていう店に持ち込んでみました。結果はでも同じ。うちじゃこんな靴の直しはしてませんって言われちゃった。しかたない、諦めよう。そう思ったときでした、たまたまネットで……いや、噓です。もう一度だけどこかで直してくれる店がないか探してみようと思って、未練がましく検索をしました。そして、こちらを見つけたんです」
 男は自分を力づけるように小さく頷き、
「修理してください。お願いします」
 と言った。

「よほど気に入ってるんだな、その靴が」
 優斗は培養肉ハンバーグを口に入れながら言った。
「でもわかんないな。買ったとき以上の金額を払ってまでして、わざわざ靴を直す? それなら同じものを新しく買ったほうがいいじゃんね」
「そしたらまた、一から戦わなきゃならない」
 卓弥はきんぴらごぼうをゆっくり咀嚼してから答えた。
「自分の足に馴染むまで悪戦苦闘しながら履きつづけて、やっと調子よくなったときにまた靴底が剝がれる」
「だったらいっそ、オーダーしちまえばいいのに。足の形なんてあっと言う間にスキャンしてもらえて三日もすれば自分の足にあった靴が出来てくるじゃんか。父ちゃんの店でもそういうの作るでしょ?」
「うちでは三日は無理だ。木型はともかく靴作りは手作業だからな」
 説明しながら、どうしてあの客のことを優斗に話しはじめてしまったのかと自分を訝った。今まで仕事のことを息子に語ったりはしなかったのに。それどころか彼が帰ってきてからの一週間あまり、必要なこと以外はろくに会話もしてこなかった。
 それだけ、あの客が気になったということか。しかしやはり、話すべきではなかった。
「仕事、どうだ? いいのが見つかったか」
 話題を切り替えたのは、これ以上この話を続けたくなかったからだ。しかしすぐに後悔した。
「どうかな」
 案の定、ぶっきらぼうな答えしか返ってこない。
 それきり、ふたりとも黙って食事を続けた。食べ終わると優斗はさっさと自分の部屋に戻ってしまう。卓弥は食洗機に食器を放り込み、テーブルを布巾で拭いてからリビングのソファに腰を下ろしてネットラジオをつけた。
〈温暖化温暖化と騒がれていた二一世紀初頭の頃が噓のような、このところの天候ですが、現状を小氷期であると認識すべき、との見解がWMO(世界気象機関)から出されたそうです。今後二〇年はこの状態が続くとの見込みで……〉
 聞き慣れたパーソナリティによる天候の話がひとしきり続いた後、音楽が始まった。二〇〇〇年代に流行ったJ-POPだった。卓弥はそれを聴きながらデバイスを開いて小説を読みはじめた。音楽は昔のものを好むが、読書の対象は最新の国内ミステリが多い。今読んでいるのはちょうど今聞こえている曲が世に出たころに生まれた作家のデビュー作だ。ネットでの評判に違わず、なかなかいい。最後まで読んでも面白かったら続けてこの作家のものを読んでみようと思った。
 曲が変わった。ディスプレイの字面を追っていた視線の動きが止まる。
 あの曲だ。
 イヤホンの右と左をふたりで分けあって耳にあてがい、一緒に聴いた。
 ――これ、唯一、結婚式らしいことだね。
 そう言って微笑んだ夏美にどう答えたか、もう覚えていない。黙り込んでいたかもしれない。今もそうだ。何も言えない。ただ黙って聴いた。
〈お聞きいただきましたのは二〇〇七年のヒット曲、斉藤和義の『ウエディング・ソング』でした。結婚情報誌のCMソングとして多くのひとたちの心に残っていると思います〉
 ふたりで暮らしていたアパートの近くの公園。ベンチに並んで座って、あの曲を聴いた。あれは紛れもなく、自分たちの結婚式だった。参列者も誰もいない、ふたりだけの。
 次の曲がかかる前に卓弥はラジオを消した。デバイスをOFFにし、眼も閉じた。記憶を呼び起こし、再生を試みる。あのときの妻の顔、覚えている。あのベンチの色、覚えている。降り注いでいた午後の陽差しの暖かさ、覚えている。
 みんな、覚えている。なのに、夏美だけいないことが、胸を痛ませた。


3  最悪なこと

 敦賀湾海底を優斗はゆっくりと移動していた。
 水深は四七メートル。視界はやや不良。魚に感知されにくい赤い照明に塵のようなマリンスノーが無数に浮かび上がる。透明度は五メートルと表示されていた。
 ときおり魚が横切る。銀色の鱗がそのたびに煌めいた。優斗は子供の頃に飼っていた琉金を思い出した。狭い水槽の中で育った金魚は鱗が数枚剝がれていたが、それでも三年ほど生きていた。彼が飼育した唯一のペットだった。いや、たしかカメも飼ったことがあったか。どちらも、いつの間にか家からいなくなった。死んだのか。捨てたのか。
 視界に赤いラインが走り、優斗の思考は中断された。ラインは海底の一角を囲い込む。その中に宝物トレジャーがあった。金色に輝く王冠だ。中央には赤い宝石が埋め込まれている。すぐに鑑定にかける。「ルビーの宝冠」と出た。
 ロボットアームを伸ばす。王冠を摑みポケットに収めるまでの作業はほぼ自動だ。収納されると右上に表示されていた数値が動いた。一六〇〇ポイント。悪くない。
〈人生で一番最悪なことって何だと思う?〉
 不意に声がした。〝ケセラ〟だ。彼女はいつも唐突に話しかけてくる。
「何だって? 最悪?」
〈人生で一番最悪なこと。〝ヒュミル〟は何だと思う?〉
「死ぬことかな」
〈どうして?〉
「どうしてって、死んだら終わりだろ?」
〈終わっちゃったら、もう最悪でもなんでもないよ。最悪な自分を感じなくていいんだから〉
 投げやり、ということもないが、いささかぶっきらぼうな物言いだった。優斗の耳に届くのは日本語だが、当然のことながらAI翻訳されたものだから元の言語はわからない。しかし翻訳で語調も正確に再現されているはずだった。彼女はそういう言いかたをしたのだろう。
 〝ケセラ〟は出身地を公開していなかった。本当に女性なのかどうかも不明だが、本人が主張しているセクシュアリティを疑うのはマナー違反だ。
「じゃあ、君が思う最悪なことって、何なんだ?」
 尋ね返すと、〝ケセラ〟は即答した。
〈今、ここにいること〉
「トレジャーハントが嫌なら、やらなきゃいい」
〈違うよ。このゲームは好き。ありもしないお宝を探して海の中を泳ぎ回るのは嫌じゃない〉
「お宝なら、今見つけたけどね。街へ持っていってそのまま売ってもいいし、練成して武器に変えてもいい」
〈プラスチックのゴミを?〉
「ゴミじゃない。王冠だ」
 優斗が強弁すると〝ケセラ〟は笑った。厭味いやみのない、素直な笑い声だった。
〈そうだね。わたしたちは海に潜って宝物を拾い集めてるんだ。ゴミ拾いなんかじゃない〉
「本当はゴミ拾いだ。でもこうやって海の浄化に協力している」
〈本気でそう思ってる? 海中ドローンを操作して、ちまちまゴミを拾い上げることにどれだけの効果がある? 海底の清掃ならAIロボットのほうがずっと効率的にやってくれてるよ〉
「AIだけじゃ処理しきれないゴミがある。それを俺たちがサポートしている」
〈便利な言いかたね、サポートって。下僕なのに〉
「君はAI嫌いだったのか」
〈嫌いじゃない。むしろ人間より好き。忖度しないから。あなたは神なの?〉
「何だって?」
〈〝ヒュミル〟ってハンドルネーム、北欧神話の神の名前でしょ?〉
「神じゃない。巨人族の名前だ。突っ込まれる前に言っておくけど、深い意味があって付けた名前じゃない。語感が気に入っただけだ。君のハンドルには意味があるのか。〝ケセラ〟って、『Que Sera Sera』から採ったんだろ?」
〈知ってる? スペイン語にはそういう言い回しはないんだって。疑似スペイン語。また出たよ〉
「え?」
〈お宝。いただくね〉
 赤いラインが囲んでいる宝剣を伸びてきた触手が絡め捕った。〝ケセラ〟の機体はピンク色のタコのように見えた。悪趣味だな、と優斗は思う。そんな自分だって機体の外装表示はタカアシガニに似せているのだが。
〈ぼんやりしてると、どんどん横取りされるよ〉
「今日はもう疲れた。帰る」
〈あ、待って〉
 引き止められた。
〈誤解されたままなのは嫌だから言っておくね。『Que Sera Sera』とは関係ないよ〉
「何が?」
〈わたしの名前〉
 では何なんだ、と問い返そうとする前に、〝ケセラ〟は離脱した。
 取り残された恰好の優斗は海の底にしばらくたたずんでいた。ピンを打ってみたが反応はない。このあたりにはもうお宝はないようだ。
 溜息をひとつ。機体をベースに戻すことにした。
 収容を終えてヘッドセットを外すと、海中の景色は一瞬で消え去り、見慣れた自分の部屋に戻った。
 デバイスに今日の「稼ぎ」が表示される。取得したポイントに応じて、ゲームを主催するNPOから報酬が支払われることになっている。結局あの王冠が一番価値があった。他はたいしたことはない。
 やはり海中探査は効率の悪いクエストだ。今度は都市鉱山でレアメタルを漁ってみるか。いや、あれはそこそこスキルが必要だ。電子部品からイリジウムやベリリウムを選り分けるのはAIの補助があっても難しい。
 やっぱり俺は海の底のゴミ拾いが似合っているのか。また、溜息が出た。

 リビングに行くと卓弥がいたので、優斗は少し驚いた。この時間、父はいつも店のほうにいるはずだったからだ。
「どうしたの?」
 思わず尋ねた。
「喉が渇いただけだ」
 卓弥はぶっきらぼうにそう言って、キッチンの冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、キャップを開けて一口飲んだ。
「おまえこそ、どうした? 仕事は休みか」
「ああ」
 優斗の返事も無愛想になる。父と交代するように冷蔵庫を開け、ノンアルコールビールと竹輪を取り出してテーブルに座る。
「今から酒盛りか」
「アルコール入ってないし」
 優斗が言い返すと、卓弥はそれ以上何も言わずに店に戻ろうとした。
「あのさ。人生で一番最悪なことって何だと思う?」
 卓弥は立ち止まり、息子のほうを見ないで答えた。
「今まで最悪だと思っていたことが最悪でなくなったときのことだ」
 優斗は父がいなくなった後、ビールを一口飲んで、呟いた。
「……なるほど」
 デバイスから昔の画像を呼び出した。生まれたばかりのカヤが来香に抱かれて眠っている。娘の寝顔と妻の笑顔が眼に沁みた。

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