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分断と連帯のスラング(1)Childless Cat Ladies

フォーチュン500(全米上位500社)の中堅管理職だったアメリカ人の夫の異動と妊娠を機に32歳で会社勤めをやめた私は、「我々はチームである」という夫の言葉を信じて何十年も子育てと伴侶のサポートの仕事をクソ真面目にやってきた。かなり優秀なチームメンバーだったと自負しているのだが、この仕事に給料はないし、昇進もない。そこで自宅でもできる翻訳や文筆業を始めた。収入の足しにはほとんどならないが、第三者に対して「可視化」できる仕事をしないと自分を失ってしまいそうな危機感を覚えたからだ。

その後、企業をやめて独立した夫の社の書類上「共同創始者/重役」になり、実際にかなりの仕事を負担するようになった。タダ働き重役として得るものが何もなかったというわけではない。この仕事を通じて多種多様な興味深い人々と出会うことができた。その中には民主党と共和党両方の政治ストラテジストたちも含まれていて、ホワイトハウスを訪問できたのは思い出に残る体験だった。

1995年にアメリカに移住してからアメリカの政治に興味を抱くようになり、大統領選挙も2000年くらいからは激戦地へ集会に出かけて両党の候補と会って話を聞くようになった。ドナルド・トランプが大統領に選ばれた2016年の選挙では、党の代表を選ぶ予備選の時から現地で候補と有権者らを取材してルポを書き、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)という本にまとめた。この取材の時に肌で感じたのが、それまではなかったようなアメリカ国民の分断であり、それが19世紀後半の内戦を連想させたのでCivil War(直訳は「内線」だが日本では「南北戦争」と訳されている)をタイトルに使ったのだった。

仕事そのものは好きなのだが、多忙でほとんど家にいない夫と娘のサポート役をしながら自分のやりたい仕事をするとなると、寝る時間を削るしかない。女友達とランチやディナーでゴシップを楽しむなんて、ここ何十年も小説に出てくるシーンでしか体験していない。私が自分の時間を削って支えている夫と娘が友達とランチやディナーを楽しみ、仕事の合間に旅行やコンサートに行くのを横目で見て鬱憤をつのらせていた私は、2022年の末に「来年は自分のやりたいことのために自分の時間を使う」と決意した。そして翌年1月に始めたのが社交ダンスだった。すっかり社交ダンスにはまってしまった私は、ダンスの時間を作るために仕事も家事も家族サポートも大幅削減しているが、誰も困っている様子はない。サポートを減らし、家事を手抜きするようになってから初めて彼らは私のこれまでの努力を感謝するようになった。なんだか納得できない成り行きである。

さて、こうやって仕事を減らした私だが、アメリカの政治や情勢についての興味は減っていない。毎朝コーヒーを飲みながら購読しているニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ボストン・グローブといった新聞(現在はオンラインで)にざっと目を通し、そこで気になった記事やトピックについて夫と話し合うのが毎日の習慣になっている。

私たちが好きなことのひとつに、アメリカの現状を表現する流行語やスラングについて語り合うことがある。政治キャンペーンでは、人々に強い印象を与える表現をどううまく使うのかで方向性が大きく変わるからだ。スラングの意味がよくわからない時には、ミレニアル世代の娘に質問して教えてもらったりもしている。

この連載ではそういったスラング/流行語について紹介していこうと思う。
そして初回に私が選んだのはChildless Cat Ladies(子どもがいないキャット・レディ)である。

アメリカのソーシャルメディアを観察している人なら、最近になってCat Ladyという言葉をよく見かけるようになっているだろう。
これが流行語になるきっかけを作ったのは、トランプが副大統領候補として選んだJ・D・ヴァンスである。

ヴァンスは2016年にアメリカで刊行された『ヒルビリー・エレジー』(関根光宏・山田文による邦訳版は2017年、光文社刊)という回想録の作者として知られている。この本の中で、彼はリベラル寄りのソニア・ソトマイヨール最高裁判事の法律大学院修了式でのスピーチを引用しているし、「オバマやブッシュや企業を非難することをやめ、事態を改善するために自分たちに何ができるのか、自問自答することからすべてが始まる」と書いている。彼がイェール大学の法科大学院で出会った妻のウーシャの両親はインドからの移民であり、彼女は最近まで民主党員だった。本の内容からも、ヴァンスが中道思想だったことが想像できる。

2016年の大統領選挙ではトランプのことを「アメリカのヒットラーではないかと思うこともある」とプライベートなソーシャルメディアで語り、公にもアンチ・トランプの立場を取っていたヴァンスだが、2022年に故郷のオハイオ州から連邦上院議員の選挙に共和党員として出馬した時には極端なトランプ擁護者になっていた。多くの人がこの変貌に驚いたが、私はヴァンスが政治的野望のために信念を持つことそのものをやめたのだと思って納得した。
この変貌の時期にヴァンスがハリスなどの民主党の政治家を批判するために使ったのが「キャット・レディ(多くの猫と暮らす孤独な独身女性)」という表現だった。2021年に保守系のFox Newsで「自分の人生で子供がいない不幸なキャット・レディたちがこの国を率いている」「(自分たちが惨めだから)他の人々も惨めにしたがっている」といった内容のことを語ったビデオが最近になって再浮上した。

猫と女性のネガティブなコネクションは、何百年も昔に始まったキリスト教の「魔女狩り」に関連しているらしい。この記事では、『The Cat and the Human Imagination(直訳:猫と人間のイマジネーション)』という本の中でキャサリン・M・ロジャーズが「中世のローマ・カトリック教会は、自由に行動する独身女性を、徘徊する雌猫と同様にみなした」と著したことにも触れている。
猫は家にこもっている受動的な動物というイメージから、女性と関連付けられ、女性参政権運動の反対者が運動を嘲笑うための象徴として使われたりしたらしい。また、「たくさんの猫と暮らす孤独な老女」、というのは現代でもよくあるステレオタイプだ。

ヴァンスの主張は、民主党のリベラルなキャット・レディたちのせいで「結婚して子供を産み、夫のために尽くす」という伝統的な女性の役割がアメリカで失われている、共和党はそんなアメリカを古き良き時代に戻すために戦う、というものだ。

けれども、キャット・レディ発言でヴァンスに賛同する人はほぼ皆無で、「子供が欲しくてもできない人もいる」「養子であっても自分で産んだのと同じ我が子だ」といった反発が多い。そして、「私も独身のキャット・レディだけどハッピーですよ」といったユーモアある反論がソーシャルメディアを駆け巡ってハリスは支持者を増やし、「キャット・レディ」は流行語になった。

9月10日のトランプ、ハリス両候補による初の討論会直後にテイラー・スウィフトが愛猫と一緒の写真を使ってインスタグラムでハリス支持を公表した時に「With love and hope, Taylor Swift Childless Cat Lady(愛と希望をこめて、テイラー・スウィフト 子供がいないキャット・レディ」と締めくくったことには、こういった背景があったのだ。

スウィフトがインスタグラム投稿にリンクを載せたこともあり、通常は訪問数が1日平均3万のvote.gov(有権者登録サイト)に24時間で40万以上が訪問したという。キャット・レディを怒らせるのは賢明ではないのだ。

同じ討論会でドナルド・トランプ前大統領が発した「(オハイオ州の移民が)犬や猫を食べている」との虚言も話題になっているが、その根拠なき偽言を広めた張本人もヴァンスである。

猫を愛するのはChildless Cat Ladiesだけではない。彼らを敵にまわしても何の得もないことを、そろそろヴァンスは理解するべきだろう。

渡辺由佳里 Yukari WATANABE
エッセイスト、翻訳者、洋書レビュアー。1995年よりアメリカ在住。マーケティング・ストラテジー会社共同経営者。
自身でブログ「洋書ファンクラブ」を主幹。年間200冊以上読破する洋書の中からこれはというものを読者に向けて発信している。 2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。翻訳書には、ディヴィッド・ミーアマン・スコット他『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(糸井重里監修、日本経済新聞出版)、マリア・スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ・ジャパン)、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『男性の繊細で気高くてやさしい「お気持ち」を傷つけずに女性がひっそりと成功する方法』(亜紀書房)など。著書に『新・ジャンル別 洋書ベスト500プラス』(コスモピア)、『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『アメリカはいつも夢見ている』(KKベストセラーズ)など。
X:@YukariWatanabe


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