【試し読み】非力な少年二人がもがいた先に幸せはあるのか?――小野美由紀『路地裏のウォンビン』
“女性が性交後に男性を食べないと妊娠できない世界になったら?”を描いたSF小説『ピュア』で注目された小野美由紀が、U-NEXTオリジナル書籍として書き下ろした少年たちの物語『路地裏のウォンビン』。全232ページのうち、24ページの試し読みを公開します。アジアの架空の都市を舞台に繰り広げられる少年二人の愛と青春の群像劇を、ぜひお楽しみください。
■著者紹介
小野美由紀(おの・みゆき)
1985年東京生まれ。慶應義塾大学フランス文学専攻卒。2015年にエッセイ集『傷口から人生。』(幻冬舎)を刊行しデビュー。2020年刊行の『ピュア』(早川書房)は、女が男を捕食するという衝撃的な内容で、WEB発表時から多くの話題をさらった。著書は他に、絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)、旅行エッセイ『人生に疲れたらスペイン巡礼』 (光文社新書)、小説『メゾン刻の湯』(ポプラ社)などがある。
■あらすじ
スラムで育ち、幼いころからスリで身を立てていたルゥとウォンビン。
いつかこの生活から抜け出すことを願いつつも、生き延びるために汚れ仕事を避けることはできない。そんな二人を引き裂く出来事が起こる。
養父母に引き取られ文化的な生活を手に入れたルゥにとって気がかりなのは、願ってもない別れ方をしたウォンビンのことだった。そして、偶然の邂逅からまたしても二人の運命が大きく動き始める。
非力な二人がもがいた先に幸せはあるのか--。
『ピュア』で話題をさらった小野美由紀さんの書き下ろし小説。
■本文
プロローグ
いいか、骨の聲を聞け。
お前も知らないお前の聲を、
本当のお前自身の聲を。
血でもない、肉でもない、貌でもない。
それだけがお前をお前であらしめるのだ。
それが、愛する者を救うただ一つの――。
第一章
路の裾に、散った花弁が積もっている。泥に埋もれ、風に吹かれてもなかなか散ってゆかない。死者の魂がそこでステップを踏むように。現世への名残を抱き、まだそこに留まろうとするように。
路地を駆けるゴムサンダルの乾いた足音が、トタンの屋根屋根にこだまする。格子窓から忍び入る陽の光を瞼に感じて僕は目を覚ました。埃っぽいマットレスは上体を起こすと大きく軋む。隣のベッドで寝ている叔母を起こさぬようそうっと立ち上がると、靴を履き、鉄の重たいドアを押し開け外へと出た。
陽が昇ったばかりの街は巻き上がる土埃に抱かれ一層乾いて見える。白い朝の日差しが灰色のバラック小屋の群れにフォークのように差し込み、みすぼらしい輪郭を浮かび上がらせている。どの細い路からも、通りへと駆け出してくる子供達の靴音がばらばらと聞こえ、一日の始まりを合図していた。
「ルゥ」背後から声をかけられて振り返ると、シャオイーが立っていた。
「親方が、二、三人で海沿いの市場に行けって。〝外船〞があるんだ」それだけ言うと彼は雀斑だらけの顔をぷいと背け、僕を追い越して先へと駆けて行った。僕もあわててそれに続いた。仕事の時間だ。
僕はこの街に三年前から暮らしている。
両親が流行り病で死に、骨董商を営んでいた家はあっという間に人手に渡った。僕は母の遠縁であるウーフェン叔母を頼りになんとかこの街にやってきた。叔母は家に連れてこられた僕を見るなり、酒臭い息をはあ、とひといき吐くと、僕の顔を平手で思い切り殴りつけた。その一撃すら、狙いもわざとつけず、自分が起こす行為の全てに少しの力も注ぎたくないというようなおざなりなものだった。その痛みから僕は悟った。生まれてからこれまでの七年間と同じ、暴力や悪意といったものとまるきり無縁だった生活は、決してこの先、戻ってこないであろうことを。次の日、陽が昇るとともに彼女は僕を戸口から蹴り出すと「自分の食い扶持は自分で稼ぎな」と吐き捨ててバタンとドアを閉めてしまった。
以来、僕は近所の孤児たちに混じり掏摸稼業に身を窶している。幸いにも、似たような境遇の子供がたくさんいるおかげで自分を惨めだと思わずに済んでいた。周りの大人たちも決して僕らを咎めない。弱い者が生き延びるには周りを出し抜くしかないことを、この街の全員が身をもって知っているのだ。
狭い路地に密集する住宅は年中吹きつける潮風に浸食されて朽ちかけ、軒先を地面につきそうなほど低く垂らしている。この、季節の区切りの緩慢な南国の街にも、かろうじて継ぎ目のわかるほどの春があり、夏がある。訪れた春を祝う薄桃色の花が、家々の軒にくくりつけられ花弁を散らしていた。吊り下げられた籠の中では黄色い小鳥が囀り、その下には昨日の雨で生まれた泥濘が乾き切らずにぐずぐずとわだかまっている。舞い落ちた花弁と小鳥の羽根、人々の撒き散らしたごみや動物の糞。それらが道端で入り混じり、一体となっている。ひどい有様にもかかわらず、泥の中からは不思議と萌え出る若草の匂いがした。
市はいつも以上に賑わっていた。埃舞う目抜き通りをたくさんの人々が往来している。港に外国船が寄れば、市はたちまち活気付く。僕らにとっても格好の稼ぎどきだ。
路の両脇には所狭しと店が並び、物売りたちが大声で朝一の客を呼び寄せている。魚屋、八百屋、肉屋、香辛料の店。客たちは我先にと品物に手を伸ばし、店主に大声で注文をつける。鶏飯の屋台はおもちゃのような椅子と卓を路いっぱいに並べ、これから労働に出る人々の胃袋を満たしていた。香草の澄んだ香り、スゥプの良い匂いが通り中に漂い、僕らの胃を絞りあげる。ヨーグルト売りが屋台を引くガラガラという音、吊り下げられた牛乳缶がぶつかりあう音。渋滞した荷車が通りの角で尻を擦り合う鈍い音。それらが通り過ぎた後の地面には、まるで巨大なウナギが暴れ狂った跡のように、いく筋もの轍がうねっている。
僕らはすぐには動かない。稼ぎのチャンスは待つ者にのみ、必ず向こうからやってくる。時折、道端で飯をかきこむ労働者におこぼれをねだる子供もいたが、そんなことをしたって冷たく追い払われるのが関の山だ。
この日も急ぎの俥引きが魚屋の店先に車をぶつけ、大量の魚をひっくり返して喧嘩が勃発していた。揉め事が起これば僕らの出番だ。僕は仲間に遅れをとらないよう、見物に集まってきた野次馬たちの輪の中へと飛び込んで行った。決して怪しいそぶりは見せず、自分たちも喧嘩を見物しに来た、という体で。
輪の中心では俥引きと魚屋がののしりあっていた。二人の足元には盛大に魚が散らばり、ぎょろりとした目玉を恨めしそうに天に向けている。野次を飛ばす大人たちの間をすり抜けながら、着ているものの生地で慎重に懐具合を品定めする。薄汚れた木綿の背中が並ぶ中、一人だけ上物の亜麻を着たのがいた。尻ポケットからは膨らんだ財布がのぞいている。僕は何食わぬ顔をして、背後にそっと近づいた。意識して息をゆっくりと吐く。横隔膜の緊張を解くためだ。内臓がこわばっていては良い動きができないと、親方から教わっていた。
男は喧嘩に夢中で僕に気づいていない。そうっと指先に力を込める。耳の奥が熱くなり、喧騒がふっと遠のいた。財布を引き抜く時の神経の昂りと、引き抜いた直後の脱力は、子供同士が戯れに耽り合う秘密の遊びがもたらすそれと似ている。指先の一点に意識を集中し、男の尻ポケットにそっと差し入れると、滑らかな革の感触があった。爪を角に食い込ませ、慎重に引き上げる。呼吸を、ゆっくりと、繰り返しながら。
掏摸はあっけなく成功した。上質の革が布地の隙間をすり抜ける、するりとした感触があり、次の瞬間にはずっしりとした重みが手のひらに収まっていた。僕は自分のズボンの尻ポケットに財布を閉じ込めると、何食わぬ顔をして群衆の外へ出た。膨らみ具合と重さから察するに、今日の稼ぎはこれひとつで十分だろう。ちょうど、魚屋と俥引きの喧嘩にも決着がつき、群衆は雨止み後の雲のように急速に四方に散り始めていた。埃にまみれた魚を店主が苦い顔で拾いあつめている。ふと、その後ろ、品台の足元に一匹の上等なトビウオが転がっているのが見えた。あれを持ち帰れば今日の夕食はより豪華になるはずだ。こう毎日水粥では、育ち盛りの身にはたまらない。
僕は足を止め、そうっと魚屋の脇に近寄った。店主に見咎められぬよう、急いでトビウオを拾い上げてTシャツの背に隠す。そのまま魚屋と隣の薬屋の壁の隙間に滑り込んだ。
大通りの裏を埋め尽くす網密な路地は、鍵穴のように入り組み住人すらも知らない秘密の抜け道を作り出す。僕が滑り込んだのもそのうちの一つだった。昼ですら光を通さず、犯罪と密事の温床だったが、僕たちにとっては都合が良かった。ここに入り込んでしまえば、まず捕まらない。
突然、がつん! という衝撃と共に燃えるような痛みが後頭部に走り、僕は跳ねとばされた。状況を理解する間もなく、地面に叩き伏せられる。
「気づかれてないと思ったか」
さっきの背広の男だった。答える間もなく男は僕に馬乗りになり、頰を張った。頭の芯が痺れ、痛みに呼吸が止まる。男は僕の襟首を摑むと力ずくで路の更に奥へと引きずり込んだ。靴が片方脱げ落ち、踵が地面に溜まった泥を搔く。
「あいにく今日は朝から機嫌が悪いんだ。付き合ってもらおうか」
地面に転がされ、男の太い胴が両足の間に割り入って来た時、何をされるのかを予期して内臓が縮み上がった。逃れようともがくと、男はためらいなく拳を鳩尾にぶち込んだ。脳天まで割れるような衝撃に視界が眩む。昨日食べた水粥が胃液とともに喉から溢れ出る。上等のスーツが汚れるのも構わず、男は僕にのしかかった。圧倒的な体格差になす術もない。
「お前の顔には見覚えがあるんだ。この一帯で長いこと仕事してるだろう」
ひやりとした感触を腹部に覚えて目をやると、ナイフが突きつけられていた。男はナイフを構えたまま、片手で僕のズボンを剝いだ。反射的に閉じようとする脚を無理矢理こじ開けると、男はためらいなく入ってきた。
体を真二つに引き裂かれるような痛み、内臓を圧迫される不快感に声すらも出せない。引き攣れたそこは異物を拒むが、男は無理矢理押し広げ、抽送を試みる。
「大人しくしてれば可愛がってやるよ」男の指が胸を這う。払いのけようとすると、さっき殴られた場所を手のひらで押されて再び胃液がこみ上げた。嘔吐感で体が緩んだ隙に男はさらに腰を進める。意識は次第に恐怖でかじかみ、男の侵略を徐々に受け入れ始める。
その刹那。
どすん! と大きな音がして、頭上から黒い影が降ってきた。ぐえ、という呻き声と共に男の体が僕から離れる。
慌てて顔を起こすと、一メートルほど先の地面に男が転がっていた。その向こう、わずかに屋根の隙間から差し込む日差しの中に誰かが立っている。陽に透ける琥珀色の髪、薄暗い路地でも、光を集めて輝く白い肌……。
「ウォンビン!」
「ルゥ、逃げろ!」
聞き慣れた声が壁の間に響いた。途端にこわばっていた僕の体はすぐさま活力を取り戻す。気を奮い立たせて立ち上がると、一目散に走り出した。元来た大通りとは逆、暗がりの奥へと。頭を押さえ、うずくまる男を残して。
「通りに出たら向かいの区画に飛び込め。そのまま乞骨街を目指せ」
背後から彼の声がする。僕の身体はたちまち銃弾のごとく尖る。力がみなぎり、足は一層強く地面を蹴る。泥水をはね散らし、崩れた壁の破片を踏み越え、一目散に路の奥へと。
あっと叫ぶ声がして振り返ると、ウォンビンが男に髪を摑まれていた。男の太い腕が彼を引き寄せる。振りほどこうとするウォンビンの顔を、男の大きな手のひらが覆う。ぎゃあ、と凄まじい叫び声が上がった。ウォンビンが男の手に嚙み付いたのだ。白い歯が人差し指の付け根にぎっちりと食い込み、深々とえぐっている。男は振り払おうと腕を振り回す。ウォンビンは離さない。肉が削げ、白い骨が剝き出しになる。
「てめぇ、ふざけるな」
蹴りつけられ、殴りつけられようやくウォンビンは口を離した。あっという間に体勢を整えると、痛みにうずくまる男を尻目に一目散にこちらに向かって駆けてくる。
「何してんだ。いくぞ」
僕たちは脇目も振らずに駆け、薄暗い路地の終点を目指した。立ちはだかる壁を避け、僕たちの住む街へと。屋根の隙間から時折フラッシュのように眩しい光が射す。後ろから男の咆哮が壁を伝い追いかけてくる。路は入り組みながらも次第に太くなり、軒の隙間から覗く空の面積が増えてゆく。
男の罵声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった頃、僕たちはようやく陽のあたる通りへと飛び出した。
「川を越えるまで走れ。そこまで来れば安全だ」
人ごみの間を縫うようにすり抜け、街のはずれまで出る。隣の街と僕たちの街とを隔てる川を越え、建物の陰に飛び込んで、ようやく僕らは安堵の息を吐いた。
「ウォンビン、」
僕は隣で荒い息を吐く少年に声をかけた。彼は応えない。膝に手をつき、下を向いて喘いでいる。顔を覆う長い髪の隙間から、べっとりと血の付いた口元が覗く。
不安になるほどの時が経ったのち、彼は顔を上げると、
「おっ前なあ!」
鼓膜が破れるほどの大声で僕に向かって叫んだ。
「スったあとに気ぃ抜くなって、あれほど言ったろうが! ボケ!」
互いの鼻先がつきそうなほどの距離で、ウォンビンは罵言を炸裂させた。
「獲物を抜いたら、すぐにその場を離れる。絶対に相手に顔は見せない。基本だろ」
日差しに晒された色素の薄い瞳は金を孕み、鋭い眦を縁取る濃いまつげまでをも光に透かしている。口の端は男に張られたせいで、潰れたプラムのように赤黒く変色していた。涼やかに通った鼻梁とのギャップが一層痛々しい。
「ごめん、ウォンビン。今度から気をつけるよ」
僕は素直に謝った。僕が目を付けられることは、行動を共にしている彼を危険にさらすことにもなるのだ。大人たちにとって、この街の孤児たちはどう扱っても構わない犬ころ同然だった。捕まった時の見せしめは、指の一本や二本では済まされず、時にもっと悪辣な暴力として僕たちに降り注いだ。仲間の何人かはそれで掏摸を止め、物乞いに転じている。
「魚、君にも食べさせたかったんだ」
気が済んだのか、彼は顔を離すと
「ったく、心配させんなよな、バァカ」
そのまま向こうをむいて歩き出した。勝気な彼は誰に対しても口が悪い。言葉は荒いものの、もうそれほど怒っていないのは足取りの軽さからも明白だった。
「あーあ、今日の稼ぎはなしか。また親方にどやされんなあ」
目の前の背は僕よりもほんの少しだけ高い。薄い肩甲骨が、どこからか拾ってきたのであろう、鮮やかなピンクのタンクトップから覗いている。頚椎の目立つ細い首の上、ウェーブがかかった髪が揺れている。琥珀色の猫毛は陽に透けると南国鳥の尾羽のような緋がわずかに混じって見えた。性格とは裏腹の、この少女のように端麗な見目のおかげで、凄んでもいまいち迫力の出ないことが彼の唯一の弱点だった。
「ウォンビンの分は」
「ねぇよ。さっき男に捕まった時に落としちまった」
手をひらひらさせながら、彼はこちらを振り返らずに言う。ふと思い出したように歩みを止め、タンクトップをめくって見せた。脇腹が露わになる。
「あいつ、思いっ切り革靴で蹴りやがって。見ろよ」
薄い皮膚の上、肋骨の間を埋めるように毒々しい紫の痣が広がっていた。澄んだ乳白色の肌には雀斑一つなく、余計に変色が目立つ。
「……本当にごめん」
もう一度、今度は後悔の念を込めて謝った。いつもは年長のやつらの倍を稼ぐウォンビンの、今夜の取り分が僕のせいで減るのは忍びない。僕たち孤児の一日の稼ぎは全て、親方の元にまとめられ、大幅に上前をはねられたのちに分配される。成績の悪い者はそのうち別の商売に駆り出される可能性があった。彼をそんな目に合わせるわけにはいかない。
僕の胸中を察したのか、ウォンビンはいく分か和らいだ口調で言った。
「心配すんな。行くぞ」
僕たちの暮らす乞骨街は半島の南端に位置する古い港街だ。一年を通して海から南風が吹きつける潮夏市に属し、日本との貿易で栄える隣の市の恩恵を受けてなんとか生きながらえている萎びた貧民街だった。熱帯気候の蒸れた日差しを受けて一年中すえた匂いが立ち上り、雨季には日に数度のスコールのおかげで路は常にぬかるんでいる。そこに暮らす人々も、全員が全員、泥の底でもがきながらなんとか息だけは継いでいるような、そんな生き様しか持ち合わせていなかった。
女たち――女に限らずだが――は港に寄る男たちの欲望を受け止め、男たちは港を締めるやくざの一党からのおこぼれにあずかって日銭を稼ぐ。そのわずかな稼ぎすら、皆すぐさま一滴でも多くの酒に変えてしまう。 引き取られてからの三年間、ウーフェン叔母が博打と酒以外に金を使っているのを見たことがない。明日の朝に炊くための米すらもキッチンの戸棚に入っていることは稀だった。もっとも彼女の稼ぎだって、子供の僕が他人の財布から拝借する額と大して変わらないのだから仕方がない。喧嘩や博打に明け暮れ、隣家の住人同士でも隙あらば騙し合う。生きてゆくためのまっとうな金の稼ぎ方を、誰も最初から知らないし、知ろうともしない。大人も子供も泥底を這い回り、互いに奪い合い暮らしている。
僕がウォンビンに初めて会ったのは、この街に来てすぐ、ギルドの年長組のやつらから〝洗礼〞を受けていた時のことだ。
彼らは新入りがあるたび人気のないところに追い込んで、裸に剝いて隅々まで検分を行った。リーダー格のドゥアは特にそれを念入りにやった。東方からの流れ者で「正式な」みなしごではない上、やせっぽちで背の低い僕は嗜虐癖の強い彼の格好のターゲットだった。
「お前、本当はウーフェンの子なんだろ」
虫歯だらけの口をにぃ、と開け、ドゥアは僕に迫った。追われて逃げ込んだ袋小路で僕は震えていた。
「あいつ、誰とでも寝るらしいな。この前、道路で犬とやってるのを見たやつがいるってよ」
「お前、犬の子か」彼の仲間たちがすかさず囃す。
「犬の子は、あそこも人間と違うんじゃねぇのか」
ドゥアが僕を突き飛ばした。地面に転がし、足を高く持ち上げる。彼の威圧的な体軀が視界を覆う。
「見せてみろよ。もし人間と違ったら、切り落としてやる」
恐怖と諦めで目を閉じかけた時、突然、ぎゃ、という叫び声と共に鈍い音が響いた。驚いて顔を上げると、ドゥアが地面に倒れ、その上に見知らぬ少年が馬乗りになっていた。周りを取り囲んでいた悪ガキ達が一斉に輪を広げる。
「お前ら、またやってんのか」
どうやら軒の上から飛び降りてきたらしい。彼はすぐさま立ち上がると、ドゥアの前に仁王立ちになった。
「てめえ、何すんだ」
ドゥアが起き上がりながら叫んだ。
「新入りには稼ぎの手口を教える。それ以上のことは、親方は命じてない」
「半端もんに、ここのルールってもんを教えてやってるんだ。邪魔するな」
「お前が勝手に敷いたルールだろ」
どけ、と短く言うと、少年は僕に向かって手を差し伸べた。
「おい、勝手に手ェ出してんじゃねぇぞ」
ドゥアが少年の腕を摑む。少年はドゥアの咆哮を受けても顔色一つ変えない。ドゥアを押し返すように、大きく胸を張り、相手を睨めつける。挑戦的な目つき、きりりと結ばれた唇。態度とはうらはらに、彼の体のひとつひとつのパーツは小作りで、傘の部品か、影絵人形の骨組みのように繊細な印象を与える。
二人は睨み合った。ヒキガエルのような平たいドゥアの顔には憎々しげな皺が寄り、一層醜く見える。それでもなかなか間合いを詰めずにいるところを見ると、どうやら過去にも彼にこっぴどくやられたことがあるらしい。
しばらくののち、ようやく反撃の材料を見つけたとでもいうようにドゥアがニヤリと笑って言った。
「お前も半端もんのカマ野郎だから、同情してんのか」
言い終わるやいなや、少年の体が舞った。自分よりもずっと背の大きなドゥアに果敢に殴りかかる。乱闘が始まった。
「こいつ、やっちまえ!」ドゥアの仲間たちが一斉に彼に飛びかかった。
少年の動きは、華奢な体軀のどこからその力が出るのかと思うほど素早い。くるりくるりと身を翻し、ドゥアの拳を避けながら反撃する。しかし多勢に無勢では敵わない。引きずり倒され、たちまち地面に組み敷かれた。泥が跳ね、彼の白い頰を汚す。
「お前、調子にのるなよ」ドゥアの目には憎悪が燃えている。
「稼ぎがいいのだって、掏摸の腕前のおかげじゃねえって噂だぜ。薄汚ねぇおとこおんなが。本当かどうか確かめてやる」
ドゥアが彼の襟に手をかけた途端、頭上から大量の水が降ってきて二人は水びたしになった。
「うるさいねえ、こんなとこで喧嘩なんかすんじゃないよ!」ダミ声とともに、三階の窓から黒い人影がのぞいた。「次は煮えた油をひっかけるよ」
孤児たちはしぶしぶ解散した。ドゥアも振り返り振り返り、去ってゆく。僕と、彼だけを路地裏に残して。
さっきまで地面に組み伏せられていた少年は、その事実を打ち消すかのように勢いよく立ち上がると、座り込んだままの僕に近づいてきた。
「大丈夫か」
彼は手を差し出した。
「気にすんな、ドゥアはよそ者が嫌いなんだ……特に〝混じりもん〞が」
混じりもん――その中に彼自身が含まれることに、僕は彼の顔を間近に見て初めて気づいた。考えなしにパーツを転がしたような南方系の顔つきとは明らかに異なる。目鼻の稜線は切り立ち、薄い唇は紅を引いたように赤い。――西方系だろうか。
「今度からは、追われても狭いところに逃げ込むなよ。誰も助けてくれねえぞ」
恐怖で動けないと勘違いしたのか、少年は僕の手を摑むとぐい、と引いて立ち上がらせた。
白く滑らかな見た目に反し、彼の手のひらは熱い。
「心配すんな、じきにあいつらも飽きる。……お前、名前は」
「ルゥ」
「ルゥ、か。俺はウォンビン」歌うような南方なまりで呼ばれた僕の名前が、耳の中を心地よくくすぐる。瞳は先ほどまでと変わらない意志の強さを漂わせながらも、今ではわずかに柔らかみを帯びている。
「よろしくな、ルゥ」
摑んだままの僕の手が、一層強く握られた。僕もとっさに握り返す。彼の、さっきまで険しかった表情が緩み、優しげな曲線に変わる。僕はこの街に来て以来、いや、両親の死以来はじめて、心の底を柔らかく押し広げられるような気持ちと、同時にこれまで覚えたことのないむず痒さを感じて、いつまでもその手を離せずにいた。
あの時の彼は随分大人びて見えた。同い年だと判明したのはしばらく後だ。
彼の家族は強盗に殺されたのだと、僕は親方から聞いた。深夜、家族で寝ているところを襲われ、用を足しに起きて外へ出ていたウォンビンだけが助かったらしい。この街では西方系の人間は金を持っていると思われていて、実際ウォンビンの両親は花南のあたりから運ばれてくる陶器の卸業をやっていたそうだから、貧しいながらも生活に困っていたわけではなかっただろう。しかし、狙うならもっと裕福な家があるはずだ。手狭な長屋暮らしの一家が命を落とすにはそれ以上の理由があったはずだが、僕には到底想像が及ばなかった。何より、彼自身が家族のことを頑なに話そうとしなかった。まるで、辛い過去には捉われるまいと振り切るように。
彼はいつも悠々と路を歩んだ。初めて出会った時から、その視線は自らの境遇を嘆いて地面に落とされることも、他人の中に自分と同じ薄暗い部分を探り当てようとひねた色を帯びるでもなく、ただ、まっすぐに路の先へと向けられていた。僕はこの彼の視線が、彼の人生のどの部分からやってきて、また未来のどこを目指しているのか、この時はまだ考えたこともなかった。ただ、帆のように胸を張り、マストのように背骨をまっすぐに立てて目の前をゆく彼の凛々しい背中を、眩しい思いで見つめていた。
今になって思う。彼がいたからこそ、僕はこの泥の底を這うようなこの街での生活を、なんとか乗り切れたのだ。
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