『コンバッチ!』書評|悔しさの味わい(評者:柚木麻子)
読み終わった後、ブラジリアン柔術について、必死で検索し続けている読者は、きっと私ばかりではあるまい。本短編は「体をつかったチェス」と呼ばれるブラジリアン柔術の魅力をあますことなく描きながら、四十五歳目前の漫画家・苑香が自分の中に流れている生命力を意識し直す物語だ。
十歳離れた夫から突然の離婚を言い渡され、漫画家としての仕事もうまくいっていない。
若い頃に描いた作品は今なお評価されているものの、苑香にとってはその頃の情熱はもはや他人のものなので、自己肯定感にはつながらない。そんな彼女は編集者のすすめで、ブラジリアン柔術教室に通い始める。
相手の重心を利用するので、力や体格に関係なく勝てる可能性がある、できないことがあってもいい、できることを見極めながら独自のスタイルを作り出せる、大切なのは、刻々と変化していく状況を見極めてその都度対応していく柔軟さ……。教室で学んだことは、彼女の実生活や創作活動で、大いに役立つライフハックばかりだ。元夫を油断させ、裸絞めを決めるのは、もっとも痛快な場面だろう。しかし、苑香の人生を徹底的に変えてしまうのは、勝つためのテクニックではない。そこが本作の一番の素晴らしさだ。
中年以降の主人公が初めてのお稽古で自分を取り戻す物語は多く、たいてい、そこで知り合った魅力的な仲間との交流だったり、ささやかな成功体験からくる自己の再発見が、主人公をポジティブに変え、救っていく。しかし本作で、ブラジリアン柔術との出会いで苑香が知るのは、悔しいという、一般的に「負」に分類される呼ばれる感情なのだ。その上、誰かに勝ったわけでもないし、仕事もまるっきり上手くいかないまま、物語は終わる。それなのに、読み終わった後、腹の底からふつふつと湧いてくる生きることへの肯定と希望はどうだろう。苑香は最初、無欲な存在として描かれる。だから、彼女を嫌う読者はいないとおもう。しかし、それは同時に、彼女が無感覚状態で生きているということを意味する。悔しさを一人でかみしめることで、自分の身体に流れるエネルギーを、生活する手応えを取り戻し、人生のハンドルを握り直す。それは誰かを打ち負かすことではなく、自分の運命を他者に委ねまいとする強い意志だ。クライマックスの悔しさの味わいが、苦味も爽やかさもある、美味しそうな、贅沢な表現であるところが、私はとても好きだ。
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