セリーヌ・ソンとアピチャッポンを観て、「静かだけれど雄弁な映画」について思いを馳せた。
声に出して言いたい映画監督、アピチャッポン・ウィーラセタクン。面白がってるわけじゃなくて、こちらの表記、タイ語の発音を日本語カナでどう表記するかでかなり揺れて、結果的にご本人の発話をもとに「アピチャッポン・ウィーラセタクン」に統一されたそうです(wiki情報)。思わず大事に声にだしてみたくなりません?名前というアイデンティティに関わるものだからこそ、異言語での表記の仕方って難しいし、ご本人の発音を尊重したいし、そりゃ日本語表記の微調整も必要になぅちゃうよなぁ…と思った次第です。映画部の宮嶋です。
最近プライベートで観て「はぁああああ、美しい…!」と思ったのが、そのアピチャッポン・ウィーラセタクンの映像インスタレーション「Solarium」、セリーヌ・ソン監督の映画『パスト ライブス/再会』、片岡仁左衛門&坂東玉三郎『神田祭』、です。
3つ目の『神田祭』は歌舞伎なのでここでは語らないとして(でもいつかここで歌舞伎の話を…とチャンスを狙っております)、映画部noteとしてはまずはセリーヌ・ソン監督の映画『パスト ライブス/再会』ですよね!
長編デビュー作ながら、ゴールデン・グローブ賞作品賞(ドラマ部門)・監督賞・脚本賞など主要5部門、アカデミー賞でも作品賞と脚本賞にノミネートされる快挙!
私は、それらの要素もさることながら、何よりも「どこを切りとっても部屋に飾りたい映画、またひとつ増えた!!!!」と、そういう意味でかなり興奮してしまいました。ビジュアルが好きすぎる!
ラブストーリーって、共感できるかどうかは本当に個人の指向や経験によると思うので安易におすすめするのはどうかなと思ってしまうのですが、この映画の画面デザインが本当に美しいので、もうその1点だけでもぜひ観ていただきたい。
ただ「美しいものを背景にしている」というのではなくて、まずは構図が安定していて(というか私好みの構図で)、あざとくならない範囲で象徴的でもあり、対象とのほどよい距離感があり、ゆったりとしたカメラワークでその美しさを存分に楽しませてくれるこの感じ…!
舞台はニューヨークですが、ファッショナブルなNYではなくて、人間が生きている息遣いがあって。それと同時に、観客がその人間たちにのめりこみ過ぎない距離感が保たれていて(こういう作品、これ大事)、呼吸とスクリーンの動きに不自然さがない感じ。
セリフやストーリー展開だけではなく、その場にある風の温度や匂い、空気の密度、人の気配、暮らしそのもの…そんなものまでスクリーンに映っているような雄弁な美しさ。
伝わるでしょうか…伝わるといいのですが…伝われー!笑
とにかく、映画館で見ているあいだセリーヌ・ソンの映し出す世界にふれて私の目はずっと喜んでおりました。
たとえば…たとえばソール・ライターが好きなかた!ぜひ観ていただきたい!!(というか私がソール・ライターの作品が好きなので、私の中でピコンと繋がったのかもしれないのですけれど…たぶんふたりの魅力、繋がっている気がする!)
もうひとつ、最近の美しい体験は、冒頭で名前を出したアピチャッポン・ウィーラセタクンの映像インスタレーション「Solarium」。
アピチャッポン・ウィーラセタクンはタイの映画監督でもあり、写真家でもあり、絵も描くような、オールラウンドなアーティストと言いますか。おそらく、自分が表現したいテーマにあわせて形を選んでいるタイプのかた。
このエキシビジョンも映像インスタレーションあり、ドローイングあり、写真ありの内容でした。
撮影可だったのでドローイングは撮ってきたのですが、美しい映像インスタレーションは私のへっぽこスマホで撮るには恐れ多く(ドローイングならいいというわけでもないんですけれど…)。
この目のモチーフはインスタレーションにも多用され、想像力を刺激されました。会場にあるヘッドフォンは「音ありでも音なしでもお楽しみいただけます」ということで、つけてもつけなくてもOK。わたしは最初は音なし、次に音あり、と両方で観たのですが、イマジネーションの方向性が変わるのもとても面白かった!(ちなみに私は音なしだとパーソナルな内面の葛藤が、音ありだと現在の国際情勢が重なるようにも感じました)
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画作品はあまり配信解禁されていないのですが、U-NEXTにはティルダ・スウィントンを主演に迎えた最新作『MEMORIA メモリア』(2021)があります。
これはなかなか不思議な映画で、何が起こるのかというと…音との対峙?いや、違うな…ある記憶との遭遇?だとニュアンスが違うか…ちょっと説明が難しい映画なのですが、人間という生き物の内面にぐっと入っていくようで、それでいて傍観者的でもあり、都会的でも土着的でもあり、少しファンタジックさもあって…。画作りも個性的というか、監督の強い意志と美意識を感じます。
基本的にずっとフィックスでの撮影。長廻しも多く、一方で演者の動きはミニマム。余白が多いというか、とにかく間あいがたっぷり取られている。でも、とても雄弁なのです。
演者がじっと動かない(それはリアルの世界では実際によくあるような、じっと何かを考えこんだり、感情を噛みしめたりするような時間です。とかく映画では省かれがちな)あいだに、葉が風にそよいでいたり、生活音や自然音が印象的に鳴っていたり。それによって確実に何かが伝わってくるのです。うまく言えないのですが。
この作品もとても美しくて、評論や解釈はできないけれどなぜか好きな作品です。(加えて言うとティルダ・スウィントンがスペイン語で演技をしている意外性が、どこかふわっとした非日常の予感を感じさせてくれるのも巧みです)
アピチャッポン、新作が来たらぜったい観るぞ、と心に決めている監督のひとりです。
ちなみに、映像インスタレーションを観たエキシビジョン「Solarium」で展示されていた写真にも、おそらくこの映画のロケ中に撮影されたのであろう、ティルダをうつした写真作品がありました。
開催されているギャラリーも素敵で、谷中にある、元銭湯をリノベした建物。
展示はまさかの無料(!)なので、谷根千さんぽがてら、ぜひ。
個人的には、映画って「不特定多数の人と一緒に体験する(能動的に観る)もの、そのために創造されたもの」だと思っているのですけれど、インスタレーションもそうだなぁと「Solarium」を見ながら考えていました。だから、彼にとっては何をどんな風に表現したいかによってインスタレーションだったり映画だったりするのだろうな、と思ったり。
ちょっと前に六本木の森美術館の開館20周年記念展「私たちのエコロジー展」(現在は会期終了)でもアピチャッポンの映像インスタレーションがあって、そちらも観に行ったんですが、それは今回のものよりもさらに“映画っぽい”展開があり、ややミクロな体験によって人間という存在に対する発見があるようなインスタレーションでした。
たぶん作り手は、観客に体験してほしいと思うことのすべてを、考え抜いたありとあらゆる方法の中から選び抜いて、映像にこめているはず。それに向き合って体験するのが「映画」かな、と思っています。
胃がヒューっとなるくらいスリリングなカメラワークのアクション映画も、おもわず目を瞑ってしまうようなおぞましいホラー映画も、色彩豊かでポップでリズミカルな映画も、心躍る音楽映画も、刺さるセリフの応酬に共感しきりな会話劇も、知らなかった問題を身近に感じさせてくれる社会派映画も、ぜんぶ「映画」だし、私はそれぞれに好きです。
でも、(もちろん上記のような作品と重なるものもあるのですが)わかりやすいセリフで物語を進めるでもなく、演者の顔のアップで感情の変化を伝えるでもなく、明確な起承転結で惹きつけるわけでもなく、静かに、でも確かな画面デザインを構築して、あえて目にみえないものをスクリーンに映し出そうとしているセリーヌ・ソンやアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品は、私にとっては圧倒的に能動性が必要になる「映画」で、つまり「体験」で、私はたまにこういう作品に触れて、言外の部分でハッとしたり感情を動かされたい欲が、あります。
ここのところはこの2作品でその欲がとっても満たされて、とても嬉しい気持ちです。いろんな映画があって、しかも「映画は総合芸術」って言われるの、そういう懐の深さと広さなんだろうなぁ、と思ったりしてます。
いろんな体験があるから、映画、たのしいです。
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