贋作 百鬼園先生言行録
押入れの脇の柱に凭れて、百鬼園先生が煙草を吸っている。
北向きの窓から這入り込む薄らぼんやりとした昼間の気色が否応無く、空腹を実体化せしむるような、故に敢えてその現実から目を逸らすような、依怙地な心持ちで、黙々と煙を吐き続けている。
鰻でもそう云おうか、と思わないでもない。思わないでもないが、其れには先ず以って金がいる。そうして、懐に金は無い。金が無いなら、食わない。
至極当たり前の事で道理も通っている様だが、だからこそ余計に気に入らない。気に入らないことを態々考えて身悶えする位ならば、夢中に煙草でも吸っている方が、自身にもまた世間にとっても穏当であろう。そう考え、また実際に煙を吸っては吐き出しながら、やはり鰻の事を考えている。
テラリと広い額の少しく内側、カラリと乾いた脳味噌の一寸外側辺りが、むずむずとして、変に気持ちが片付かない。
直前の夢心地に見た、鰻屋の行列と見覚えのあるお神さんの姿とが、瞼の裏でちらくらと明滅して気に触る。
「蒲焼をひと串買うと、サーヴィスで十串、余分にくれるのだそうです」
始終腹を空かせていそうな出入り酒屋の小僧が、目をぎらりと光らせて秘密を打ち明ける。辺りを憚るような、抑えた小声であったが、そこは夢の都合、肝心な話はくっきりと耳に聞こえる。
「サーヴィスで、十串も?」
真実ならば大変な大盤振舞いだが、真逆そんな莫迦な話はないだろうと思う。巷間に名は売れるかも知れないが、そんな無分別な遣り方で日々の商売が成り立つとは考え難い。
「しかしもう、そこの横町の角まで、凄い行列です」
不信な顔附きを読んだ小僧が、ひそひそ声で口を尖らせる。
火男みたいな顔で睨んで見せた処で、そんな与太話を真に受ける大人はいないし、当然百鬼園先生も信じない。信じないが、しかしもしも、万が一、本当であったならば羨ましい、とも思う。
一度そう思い付くとどうも漫然と坐しては居られず、散歩に出るような振りをして早足に門扉を潜って見れば、最早町中凄まじい人出である。
ずらりとお行儀良く一列に並んだ頭が、あんこ玉のように黒光りしながら陽中に揺れている。その数、幾百か幾千か。しまったどうやら出遅れたらしいと歯噛みするが、ひとまずは尻尾に並ぶより他はなく、列を辿り辿り歩いて、ようよう最後尾らしきお神さんの背に着く。
ほっと息を吐いたものの、半刻が経ち、一刻がじりじりと過ぎ去っても一向に群衆の捌ける様子がない。振り返り見れば背後にも、随分と行列の尻尾が伸びてきたようである。
中には幾つか、見知った顔が在るようでヒヤリとする。
あそこの背の高いのは、獨逸語の学生の一人ではなかったかしらん。普段は先生、教官殿などと呼ばれ、当然此方としても存分に官僚的威圧感を発するを以って接している相手に、お日様の下に群れ成してわくわくと鰻の施しを求める姿を目撃されたのでは、どうにも明日から教室で体面が保たれない。気付いて此方へ敬礼でも寄こしたら、周りが何と思うだろうかと恐恐と首を竦めて気を揉んでいたら、俄かに集団が殺気立って来た。
「やい、いつ迄待たせるのだ」
「誰だ、順番を飛ばす奴がいるぞ」
「何故もっと一どきに焼かないのだ、焦れったい」
「前を詰め給え、我々はまだ匂いも嗅いでないぞ」
「おい、押すな。待て、引くのも止せ」
「本当に皆が購えるのか。どうも数が足りないのじゃないか」
「なんとか云ったらどうだ、おい。莫迦、返事をする暇があれば串を焼け」
誰かの大声に負けじと更に互いが大声を出し合い、火事場のような騒ぎである。
列が乱れ、体を押されたお神さんが倒れかかるのを両手で支えながら見れば、どうもお腹が大きいようであった。そんな身重で長時間人群れに立っていたのでは、血の巡りが滞りはしないかと此方の方がはらはらする気持ちになった。
「まあ御無礼を致しまして」
目を伏せて詫びる、疲れの浮かんだ丸い顔貌に、何処か見覚えがある。近所のお神さんだったら具合が悪いと思い、慌てて他所を向いて思い出してみるが判然しないまま、そして鰻も購えないままに、ぱちりと目が覚めてしまった。
ぼうん。と掛時計が鳴る。
ぼうん。ぼうん。ぼうん・・・
午を告げる音を、半眼のまま聞いている百鬼園先生の、大きな体躯が凭れた柱は、飴色に著色して鈍く光っている。
ある莫迦げた騒動に巻き込まれて、某私立大学の教壇を降りて十数年、昼に夜に豊富な肉と脂とを無言に支え、肉体的精神的残滓を擦り込まれ続けた結果、柱は質感や体温、またそこに醸す雰囲気迄もが既に百鬼園先生本体との差異を指摘し難いほどに百鬼園的風格を備え始め、次第に境界は曖昧と成り、最早本体の一形態、または変体的な概念と呼んで差し支えない程の存在へと進化と変異を遂げていた。
百鬼園先生自身、厠へ立って帰った時など不意にこの柱に相対すると、あっと声を上げそうに成ることがある。
獨逸にはドッペルゲンガアなる自己像幻視の迷信があると聞くが、まったく冗談ごとではなく、実際に、友人であり箏の師匠でもある盲人の菊山検校なぞ、百鬼園先生の留守にうっかり部屋に案内された挙句、一刻ほども柱と話をして居たことがある。
近場の用を済ませて戻った百鬼園先生が、戸口から留守の詫びを述べると、おや、と云った顔をして、仕切りに光を知らぬ瞼の辺りをごしごしと掌で擦っている。
事態もここまで来ると、最早どちらが本体でどちらが影だか、またそうやって不審に物を考えているのは自分か柱か、そもそもに於いて柱とはどちらであったかと考えて纏まらず、曖昧なままに判然しない。
日毎月毎にご本尊たる自身の方が影が薄くなってゆくようで薄気味が悪いが、かと云ってこの狭い部屋に坐しながら柱を目にせず済ませようとするならば、敢えて凭れて自身の背後に隠すしか方法はなく、畢竟、柱は百鬼園先生的熟成の具合をいや増す一方である。
已んぬる哉、どうとでもなれと云う気持ちで、無闇矢鱈に煙を吹いているうちに、何時の間にやら夕方になった。
「それじゃあ先生のお葬式が済んだらこの柱を切っちまって、先生そっくりに像を彫らせましょうや。我々はそれを囲んで、今まで通り陽気にご馳走でも戴くことにしますから、どうぞ先生は安心して向こうへ旅立ってください」
莫迦なことを云い出した者があって、たちまちにそうだ、そうだと賛成の声が上がる。
見ればどの顔も随分と、覿面に酒精反応を示しており、ぐにゃぐにゃとだらし無い事この上ないが、これは百鬼園先生の顔も同様である。
六畳間にぎゅう詰めの学生たち、と云っても学生だったのは遠い昔のことで、今やそれぞれに家庭も身分もある立派なおやじ紳士連を前に、百鬼園先生は赤味の増したご機嫌な顔で杯を上げ、自説を論ずる。
「或る日、突然に師を喪う寂しさは、勿論僕にも経験があり、想像に難くないところだ。我が生き写しの像を以って、それで諸君の悲しみが些かなりとも慰められるものならば、気の済むようにされるが宜しい。しかし木像とは云え裸ではいかんよ。きちんと詰襟にフロックコートと山高帽なりを仕立てて貰わなければ、参拝者に対して威厳を損ずる。出店の安売品は論外のこと、況んや古着なぞ断固お断り申し上げるが、かと云って其の時になって出費が嵩んでは気の毒だし、急に工面するのも難儀だろうから、どうだろう今夜から割前を出して、ここに積み立てて置き給え」
残念ながら余り賛同を得られなかったようで、酔漢味を帯びた紳士共はまた銘々に勝手な事を喚き始める。
「えい面倒だ、柱なんかいっそ細かく刻んで、参列者に配ってしまえ」
「さて貰った者が喜ぶか、嫌がるか」
「なあに、幸い脂が染みて良く燃えそうだから、処分には困らんだろう」
「あまり無秩序に、先生の分身を撒き散らしては衛生上の問題が提起されるやも知れん」
「最近は政府も保健所も、公衆衛生に喧しいからなあ」
賑やかで騒々しくて、愉快で無いことはないが、どうも体の表面を無数の鋸歯で撫でられるような気持ちがして、臍の下あたりがむずむずする。
「まァ何れにせよ、先生なんかはまだまだ随分と先の話ですよ。生きてる間にさあ、もう一杯」
そう云って、酒を注ぐ者がある。
杯を受けながら顔を見れば、御膳の向かいに坐っているのは、死んだ甘木君である。
にこにこと笑って宴に這入り込んで、怪しからんとも思うが、まあ既にそこに居るものを無下にするのも可哀相だから、気が付かぬような、酔いに胡麻かすような気持ちで、其儘にしておくことにする。
君もひとつ、と勧めると、嬉しそうに押し戴く様子が懐かしく、可愛いらしい。
「確か君は、余り呑める方では無かったが、其の後は少しは手が上がったかい?」
「はは。臓腑が無いせいでしょうか、酔っ払うと云う味は、どうも忘れた様です」
「なんだそれじゃあ、つまらんじゃないか」
それが実はそうでもなくて、と相変わらず和かに、すうっと好い気持ちに杯を空ける。
ぼくはこうなってやっと、酒の味が解る様になった気がしますよ。そう云ってまた、にっこりと笑う。
何を生意気な口を、と笑いながら杯を遣り取りして、すっかり好い気分の百鬼園先生は、心做しか身体が膨れたように見える。
アルコールと愉快な空気とが、弛み始めた皮をぐいと内側から押し広げているらしい。
「そう云えば先生、今日は鰻を購い損ねましたね」
「なんだ、矢張り誰か見た者が在ったのか。意地悪く黙っていないで、潔く名乗り出れば良いだろうに」
酔眼を開き照れ笑いしかけて、しかしすぐに平静な判断に返る。
「それは君、僕の夢の話だろう」
甘木君は莞爾と笑って、深々とお辞儀をする。
其れからまた旨そうに酒を呑み、ぽつり、ぽつりと口を開いた。
「実は丁度、家内が近くに並んでいたのです」
「先生に助けて戴いたと、そう云っていました」
「お腹が重たいもので、ふらつきましてね」
「今晩は、その御礼とお詫びに参ったのです」
「夢と我々とは、とても近しいのですよ」
そう云って笑う。
「ねえ先生。死ぬって、変なものですねえ」
笑った甘木君の顔が、透けるように白い。
無言で受ける杯の酒に天井の裸電球が姿を映し、幻に見る月のように、ゆらりと揺れた。
百鬼園先生は左手の杯を静かに、回すように傾けては戻し、また傾けて、水底に揺蕩う小さな朧月をぼんやりと、いつ迄もいつ迄も眺めている。
/了