あおくてしずかな。

ねえ、そう云えば。
君に話したことがあったかな。
昔はよく、青い夢を見たんだ。

空と海とが青く在る。
その空には雲がない。
その海には波がない。

まるで互いの映し絵。
ただ青く在る空と海。
その不明瞭な境界線。

軽い、目眩を感じる。

振り向くと彼が立っている。
両目を軽く細めている。

おそらく彼も目眩がするのだろう。
ここでは誰もが、目眩を飼って生きている。

「火を貸して貰えないか?」と彼が乞う。
ぼくは頷いてマッチを取り出す。
マッチ箱には象が描かれている。
瞳を閉じ満月を食べる二頭の象。

まだ生乾きのインクの匂い。
絵の下に字が書かれている。

『目を閉じなければ夢は見えない。』

随分といかれたマッチ箱。
「素敵だね」と彼が笑う。

ぼくは小さく首を振る。
それから、ぼくにとってそれは大変奇抜な絵柄であり言葉であり随分といかれたマッチ箱に思われるし正直云って「いけすかない」のだがきみがそれを素敵だと思うのなら勿論それはそれで良いしもし望むのならば喜んでそれを進呈する、と述べる。
絵柄の善し悪しを抜きにしても、マッチなんてどうせぼくには必要のないものだ。
ぼくは煙草を吸わないし、キャンプ客でも放火魔でもない。

彼は感謝の言葉を述べる。
架空の帽子を胸にあてて、
厳粛で華麗な挨拶をする。

それから手品師のような仕草で煙草を取り出し、手品師のような仕草でマッチを擦る。
マッチは『自由!』と叫んで燃え上がる。

紫色の細い煙が、青い潮風に溶けてゆく。
紫と青とが不意に衝突した時にのみ響き得る、きーんと澄んだ高い音色が、ぼくの鼓膜を叩き揺らす。

「また会えて、嬉しいよ」と彼が笑う。
手品師のような笑顔で。
ぼくはちょっと戸惑ってしまう。
その刹那の戸惑いが、応える声を薄くする。

「それが、夢の中でも?」
「それが、夢の中でも。だって、俺たちは友達だから」

ぼくは戸惑ってしまう。
左目がちかちかと痛む。
ぼくの目の中に産まれ住む、野蛮な目眩が暴れ始める。
それは狂った獣の顔をしている。

ぼくはそれを、ぼくの目眩を、なんとか鎮めなければならない。

目から強引に引っ張り出す。
毛深い首根を、手荒く掴む。
体重をかけて押さえつける。

目眩は低く、うう。と唸り声を上げる。
血走った視線が、じっと彼に注がれる。

ぼくもまた、彼を見つめる。
ぼくたちは友達だった。
ぼくたちは友達だった?
ぼくはまた、彼を見つめる。
ぼくはじっくりと、彼を点検する。

真紅のシャツ。
黒いネクタイ。
吊り上がった口元。
細身の紙巻き煙草。
背はぼくより高く、声はぼくより低い。

耳を澄ます。警報は聞こえない。
だから、ぼくは頷いて、応える。
「そう。ぼくたちは友達だった」

そしてもう一度、耳を澄ます。
やはり警報の音は聞こえない。
世界は青く静まり返り、彼は笑顔を浮かべている。

ぼくも笑顔を返そうとする。
だが隙をついて暴れようとする目眩を抱え、両腕に力を込めているせいで、ぼくの表情は醜く歪んでしまう。 
それがぼくを、とても悲しい気分にさせる。
違うんだ、違うんだよ。と彼に微笑みかけたいが、ただそれだけの事が出来ない。

彼は気にする様子もなく、笑顔を浮かべて煙を吐き出す。
まるで手品師のように。
吐かれた煙が、鳥や、花や、星座のかたちを描き出しては消えて行く。
それはとても美しい。

『しっかりしろ!』

ぼくの目眩が吠え立てる。
牙を剥き出し、涎を垂れ流しながら、しかしまっすぐにぼくの目を見て、大声で叫び続ける。

『しっかりしろ!しっかりしろ!』

激しい怒号に怯んだぼくの腕を抜け出し、目眩が左目に跳び込む。
ぐるぐると駆け回る。
大声で吠え立てる。
左目がちかちかする。

彼は煙を吐き出し続ける。
まるで手品師のように。
吐かれた煙は、汽車や、夢や、人生のかたちを描き出しては消えて行く。

軽く細められた彼の目の中。
彼の目眩が、ゆらゆらと揺れている。
それは青い薔薇のかたちをしている。
それはとても美しい。
ぼくの目眩とは大違いだ。

『だが薔薇はおれの牙と同じように、或いはそれ以上に鋭い刺を備えている。それも無数に』
獣の顔で目眩が叫ぶ。

ぼくは目を閉じて首を振る。
目は閉じられる。
だが、耳は閉じられない。

彼は煙草を爪で弾く。
火種を切って、何処かへ消し去る。
その手にはもう、何も無い。

ぼくは訊く。
「何故だろう。なんだかきみは、ぼくを騙そうとしているように見える」
「目眩のせいさ。そうやって目を細めているから、物事が歪んで見えるのさ」
応えながら新しい煙草を取り出す。
何処か、潮風の隙間から。
マッチが『自由!』と燃え上がる。

何かを見極めるには、ここは眩しすぎるのかもしれない。
だとしたらぼくは、ぼくの目眩を殺すべきなのだ。

ぼくは彼と瞳を合わせる。
ぼくの目眩と彼の目眩が重なり合う。
薔薇の花粉が、狂った獣を眠らせる。

獣は眠る。
嵐は去る。
風は凪ぎ、波は静まり、船は難破を免れる。

『風が無ければ、船は進まない』
微睡みの中で獣が呟く。
『それはただ、穏やかな死に過ぎない』

ぼくはゆっくりと首を振る。
寝言だ。気にする事は無い。
彼は煙を吐き、ぼくは下手くそな口笛を吹く。
煙は何処までも昇り、口笛はすぐにかすれて消える。

ぼくはいつでも、大事な時に限って、巧く口笛が吹けない。
肩をすくめて、彼を見る。
「きみは口笛が吹けたっけ?」

彼の唇が、煙の代わりに旋律を吐き出し始める。

とても不思議な口笛だった。
まるでずらりと並んだ歯の鍵盤を、舌でなめらかになぞっているような口笛だった。
彼は和音すら表現した。
最後の一音が潮風にかき消された後で、ぼくはゆっくりと拍手をする。
「ブラボー、ブラボー」

彼は感謝の言葉を述べる。
架空の帽子を胸にあてて、
厳粛で華麗な挨拶をする。
それから小声で「さて、」と云う。

それから小声で、「さて、」と云ったのだ。 

「さて、そろそろ行かなくては。今夜は蚤の市がある。色々な奴が店を出す。俺も小さな店を出す。俺は小壜を売っている。綺麗な壜だよ。是非一度きみも見においで」

云い終えてから、驚いた顔をした。
実際、彼はひどく慌てていた。
そのせいで、彼はもう手品師には見えなかった。もう何者にも見えなかった。

彼は気付いたのだ。
勿論ぼくも気付いていた。
いつもの通り、いつもの場面で。

「必ず行くよ」

そう答えたら、この夢はそこで醒めるのだ。

やれやれ。
一体どれだけこんな事を繰り返すのだろう?
ぼくたちはまたいつか会えるだろう。
彼はきっとまたライターも持たずに家を出てしまうのだろう。ぼくは必要もないいかれたマッチを持っているのだろう。
ぼくたちはまたいつか会うのだろう。

蚤の市には行けないままに。
口笛も巧く吹けないままに。

ねえ、まったくぼくたちは、一体どれだけ、こんな事を繰り返すんだろうね?

ぼくは浜辺に腰をおろした。
彼はただ立ったままでいた。
ぼくは浜辺の砂粒を数えた。
一、十、百、千、一万、十万、百万。
彼はまだ立ったままでいた。

今夜は蚤の市がある。
彼はそこで色々な壜を売る。
そこは彼を必要としている。
その店は彼の店だから。
その壜は彼の壜だから。
ここは、彼の世界だから。

誰かが彼の店を訪れ、色々な壜を買うだろう。
そしてそれは、ぼくではない。
ここは、ぼくの世界ではない。

ぼくは砂を払って立ち上がる。
彼は両目を細めてぼくを見る。
おそらく目眩がするのだろう。
ここでは誰もが、目眩を飼って生きている。

「きみの店に、青い壜はある?」
「あるさ。夏空を溶かしたような壜が、幾つも幾つもある」

とても良い答えだった。
だからぼくは約束した。

「じゃあ必ず行くよ。そしてぼくは、きみの店で一等綺麗な青い壜を買おう」

                   

今ではもう、ぼくは青い夢を見ない。
彼のいるあの夢を見ない。
ぼくと彼とは友達だった。
約束をしたまま別れた、ぼくと彼とは友達だった。

あの夢をまた、なんて思う夜もあるけれど。
ねえでも君は「そんなの高望みだよ」って、いつもみたいに笑うだろうか?

まあ実際ぼくも、そう思う。

/了
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