幕を下ろすな。
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海の広さと深さ。
それが時々、彼の気持ちを滅入らせる。
「今、俺が、ビールを海に流し込む。それは海に落ちる。海に混ざる。こんな風に。」
彼は実際に手首を傾けて見せる。とぱとぱと筋を引く金色の炭酸水が、水面を叩く。それは混ざる。
遠く紅い夕陽。青く深い水面。弾ける金色。
ビールと海水のカクテル。生命のネクタル。
悪くない。なかなか風情があるんじゃない?
「それは混ざる。一体になる。でも結局。そこに遺るのは海だけだ。ビールを流しても、血を注いでも。すべては海に呑み込まれる。なあ?そんなのって少し、横暴だと思わないか?」
さてね。とぼくは肩を竦める。
まあ海って奴に、或る種の暴力的な独尊性があるのは確かだけどね。
気に入らない、と。彼は云う。
「どうも、俺は、気に入らないね。じゃあ、俺がこの海に入ったら?俺が、海に沈んで、溶け合ったら?それでも、そこに遺るのは海だけか?海はただ、海はまだ、海のままか?」
海のままさ、と。ぼくは答える。
君なんてあっさり消えてしまって、そこに遺るのは海だけだよ。
「ふん。それはまた、素晴らしいね。まったく、心躍るね。」
そう云って彼は唾を吐く。
おやおや、お行儀が悪いね。
ぼくは肩を竦めて彼を見下ろす。見下ろすが。
日没を迎えた蒼黒い海面に、彼の姿はもう映らない。
影は消え、ぼくはひとりになっている。
ぼくはもう一度唾を吐く。もう一度もう一度と。繰り返し。
まったくお行儀が悪いよね。だけど遠慮は要らないものね。
ぼくの唾液が混じったところで、どうせ遺るのは海だけだ。
そうだろう?
海の広さと深さ。
その暴力的な独尊性。
それが時々。酷く。ぼくの気持ちを滅入らせる。
靴が濡れる。膝が濡れる。胸が、首が、髪が濡れる。
心中する恋人たちが入水を選ぶのは、溶け合ってひとつになるためかもしれない。と。不図思う。
蹂躙される境界線。甘美な溺死。そう、甘美な。
溺れた痴人のホメオスタシス。
この海で、世界で、ぼくは、いつまで、ぼくを保って、
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「わたしが、すくってあげる。」と。彼女は笑った。
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梅雨が明けたとニュースが告げた。傘を棄てて、半袖を着た。
世界から落っこちないように、敏感な世情をサヴァイブする。
円熟する演技で、ショウ・マスト・ゴー・オン。
陽の照り付ける午後の公園に、人気は少ない。咥え煙草で空を見る。
売店で買ったソーダ・ポップの青い壜が、世界を冷やして水を纏う。
王冠に掛けた二本の指先。ひんやりじんわり、夏が染む。染み入る。
空気が霞む。熱気が燃え立つ。蜃気楼たちが闊歩する。
木陰を探す。ベンチを探す。陽炎の中で、誰かが手を振る。
光を背負った曖昧な輪郭。曖昧なままに歩み寄って来る。
目を細めても判然しない。まあ仕方ないよね夏だもの。
世界と個人。境界線があやふやになる、そんな季節。
「直島くん、煙草吸うんだ?」
掛けられた声は如何にも気軽な挨拶って感じの涼しいトーンで、でも何処かほんのちょっと、喫煙を揶揄する様な調子が含まれていて。
要するに。あまり。
愉快ではない。
反射的に「いや、吸わないよ?」と否定して、ついでにひとつ、輪を吹き上げる。ぽかっ。
「や、吸ってるじゃん、今、わたしの目の前で。」と笑った声にはさっきの妙な調子は無くて耳に柔らかくて安心する。心の平穏と共に、相手の輪郭も次第に明瞭さを増す心理マジック。
当然ながら、知ってる顔と姿だった。
「あ、霧野さんだ。こんにちは。」
「え、今更?じゃあこんにちは、直島くん。」
陽射しを避けて木陰に座り、しばらく他愛の無い話をする。
「工学部って毎日何してるの?」「セメントを混ぜて、固めて、割ってるよ。」「虚無感!それを毎日?」「毎日連日休み無く。じゃあ文学部って何してるの?」「今はゼミでプラトンを読んでるよ。饗宴。読んだことある?」「いや恥ずかしながら。」「恥ずかしくないよ。」「そう?」「そうだよ。わたしだってセメント混ぜたことないよ。」「そうか。」「そうだよ。」「木陰でも暑いなあ。」「暑いね、でも風が気持ち良いよね。」「ソーダ・ポップ飲む?ちょっとぬるくなったけど。」「ありがと、でもわたし、ソレ苦手。」「あ、確かにちょっと癖があるもんね。」
霧野さんはちょっと照れたように笑って首を振る。
「子供の頃さ、親に脅されなかった?SP飲むと骨が溶けるぞ!って。」
あ、確かに云われたよね、ははは。え?本気?
「本気、じゃないけど、ちょっとコワイよね。はっは。気を付けなよ?」
ソーダ・ポップ、略してSPは砂糖たっぷりどっぷりの炭酸水にジュニパーベリーとスローベリーで風味を付けた、米国発のロングセラー飲料。その独特の香気と甘さには熱烈な中毒愛飲者がいる反面、糖分や熱量への配慮から摂取を敬遠する風潮が根強く在るのもまた事実。ま、身体に良い訳はないよね。ぼくは毎日飲むけどね。
世界中で熱烈に愛されたり憎まれたりする青い壜。
王冠を抜く機を逸したままに、ぼくたちは話を続ける。
いけすかない准教授のこと。講義室の、うるさいだけで効き目の薄い冷房のこと。アルバイトの失敗談。古い映画の話。最近読んだ本の感想。生まれ育った町の事。幾つかの大切な、秘密の話。それから最後に、美味しいカレーの話。「佐渡屋のカレー、凄いよ?わたし今月二回も食べちゃったよ。」「佐渡屋って確か、駅裏の蕎麦屋だよね?」「そ。でもカレーが美味しすぎて、誰一人お蕎麦を注文しないんだって。可笑しいよね。」「揺れる蕎麦屋のアイデンティティ。」「煮込みが極まりすぎて、具材なんか微塵も見当たらないレベルだよ。」「わー絶対美味しい奴だ。絶対食べる絶対。」「絶対食べた方が良いよ絶対。はっは。」
果てしないドーナッツ・トーク。
ゆっくりと。でも確実に。時間が流れてゆく。
世界の熱が、散って行く。
一日の光が、散り終わる。
ほっと。寂しいひととき。
夕闇を背に受けて、霧野さんが光り始める。
その輪郭は再び、徐々に曖昧になって行く。
すぐ隣に、在る筈の。君の姿が。掴めない。
「霧野さん?」改めて小声で呼んでみる。
「ん?どした?」応える声も淡く揺れる。
強すぎる光を帯びた昼中と同じく、或いはより深く、夜の始まりも又、境界線をあやふやに揺らす。見失いそうになる。彼女を。ぼくを。世界の縁を。
きっと、多分、夏だから。
「霧野さん、ちゃんと、居る?」
「はっは。ちゃんと居るし、直島くんも、そこに居るよ。」
ちゃんと居るよね。でも君が、世界が少し、曖昧なんだ。
だから。
「ね、悪いけど、もう少し近くに来てくれない?」
「おおっ?セッキョクテキ!」と霧野さんが笑うけどぼくは笑わない。
ねえ、なんだかさ。世界が境界がでたらめでファジーでさ。
ぼくは考える。まだ見ぬ佐渡屋の絶品カレーライス。
じゃがいもの事を想い憂う。或いはたまねぎの事を。
煮込まれて、煮崩れて、ルゥと一体になる野菜たち。
確かに在る、でも不確かな。曖昧な境界線について。
混然としたルゥの海。じゃがいもは個を保ち得るか?
「煮込んだおじゃがのアイデンティティを憂う男・直島。」と霧野さんは笑う。それからもう一度、はっきりとした声で「ちゃんと、居るよ。」と宣言する。
「ちゃんと居るよ、ふたりとも。」
ありがとう。そうだと良いな、と。ぼくも思うよ。本当に。
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時々、約束をして会うようになった。
蕎麦屋でカレーを食べながら、溜め込んだ知識と熱とを交換し合った。
「饗宴、ぼくも読んだよ。『髪の毛を使ってゆで卵をまふたつに分断する如く』の件が面白かった。」
ひとは昔、男男、男女、女女と云う三種の性が在り、それが引き裂かれて男性と女性に分かれたのだと云う。だから今でもひとは、自分の半身を恋しがり、求め合い、探し続けているのだ、と。男が男を、男が女を、女が女を、それぞれがそれぞれにそれぞれを。
彼らは腕を巻き付けて抱き合い、ひとつになろうとする。しかしそれは、叶わない。
溶け合えない、ふたり。
アイデンティティとホメオスタシス。
「愛って、難しいね。」とぼくは云う。
「同感です。」と霧野さんは笑う。
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独りの夜には、海へ行く。
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海の広さと深さ。
その暴力的な独尊性。
それが時々。酷く。ぼくの気持ちを滅入らせる。
ソーダ・ポップ。飲み干して。
骨が溶ける。ぼくは崩れる。海に還る。
靴が濡れる。膝が濡れる。胸が、首が、髪が濡れる。
ぼくは溶ける。
蹂躙される境界線。甘美な溺死。そう、甘美な。
溺れた男のホメオスタシス。
この海で、世界で、ぼくは、いつまで、ぼくを保って、でもすぐに、きっと、
「うーみーはひろいーぜーおおきーいぜー。」
独創的な歌唱と共に、霧野さんが現れる。
「あーやっぱり溶けてる。そんなこっちゃないかと思ったよ。」
ははは、ごめんごめん。ぼくって本当に弱虫だからさ。
還りたいんだよ、何処かにさ。
世界はもう、ぐにゃぐにゃだから。
だから、おいでよ、霧野さん。ぼくはきっと、君が、君と、
「すくってあげる。どんなに溶けても混ざっても、わたしが直島くんを、掬ってあげる拾ってあげる。ホメオスタシスの守護神・霧野。なめんなよ?」
霧野さんは笑う。ざぶざぶと海に身を投じる。
白い指で掻き混ぜ、探り、ぼくの欠片を集めて行く。
海水を呑み咳込み、吐き出し、懸命に息を継ぎながら、ぼくを掬い、ぼくを縒る。
涙を落とし、鼻水を流し、荒い息を吐き出しながら、それでも笑ってぼくを救う。
ぼくは境界を取り戻す。何処かでない、ぼくの場所。そんなものが、もし在るのなら。
ぼくはぼくを、取り戻したい。と。彼女に祈る。
ぼくは世界を、取り戻したい。本当は、本当に。
取り戻す。越える。温かい腕が、ぼくを掴む。ぼくはそれを掴み返す。
しっかりとはっきりと感じるその他人の肌を体温を境界を、ぼくは掴んで離さない。
「おかえりなさい、直島くん。海は広くて大きいからさ、眺めるだけにしときなよ?」
霧野さんの指がぼくを掴む。それは力強く、ぼくの肉に魂に爪を立てる。その刺激が、ぼくの視界を明瞭にする。霧野さんの頭には海草が貼りついていて、なんならちょっと一体化している。面目無いけど、ショウ・マスト・ゴー・オン。
「いやー、海水浴にはちょっと早かったね。でさ、こんな時になんだけどさ、直島くんは、好きなひととか、居る?」
ははは。まったくもう。今、この状況で。
「ええと、霧野さん以外に?」と。念のために、ぼくは訊くけど。
「いないよねえ。はっは。いたらいたで、ぶっとばす。」と霧野さんが笑うから。
ぼくはちょっと身震いして、ひとつ、静かにくしゃみをする。くしゅん。
/了