賛歌

地球。日本。円生町。

駅裏の路地に梅雨色のビルがあって、その最上階に俺の事務所が在る。
と。云えば少しは羽振りが良さそうだが、実は店子も疎らな三階建ての更にその屋上、違法で物騒で安普請な小屋を建てて居座っているだけの話。
あばよ法令、よろしく買収。

ルームナンバー404。Not Found。
幾ら宣伝してみても、客が増える訳がないぜ。

一応、看板は出して在る。
「妹鬼塑秋探偵事務所」
五年前のカレンダー。その裏に、マッキーで手描きさ。達筆なんだよ、俺のボス。

まあ当然だけどこんな錆びた街の、錆びた駅裏の、錆びたビルの、錆びた屋上にワザワザ上って来る奴なんてマトモな訳がなくて発想が既知外で、ジャジャン!とざっくり統計を発表してみれば。(ジャジャン!)

・人目を憚る立ション野郎(30%)
・安上がりにコトを済まそうとする情熱的な二人組(25%)
・敵意とか害意とか殺意を持ったひとたち(23%)
・堕ちるために昇ってきたイカロス気取り(17%)
・ただの迷子と永遠の迷子(4%)

って感じで、アレ?僅か1%の依頼人で細々と食い繋いでるにしては、敵が多過ぎやしないかな?くわばらくわばら。しかし考えるな、感じるな、目を閉じてじっとしてろ。それが俺の、処世術。

だが。
突然チャイムが鳴る、ディンドン!

「どうぞ。」と応える俺は遺憾ながら既に大変酔っぱらっていて有能で勤勉な探偵らしい威厳を保てているか自信が無いけどこんな時間に訪れる依頼人なんてどうせ路頭に迷ったずぶ濡れのロバみたいな間抜け野郎だろうし多少訝しがられてもハッタリかませば乗り切れるだろうとか考えてみるけどそもそも『こんな時間』って今何時?なんて腕時計を見るけど焦点が合わないし扉を開けて入って来た男は黒光りするバズーカを抱えているしで南無阿弥陀仏ラマサバクタニ。

勿論俺は慌てない。だって酔ってるし。眠たいし。
懐のトカレフを引き抜きながら、椅子を蹴飛ばして床に転がる、この間僅か900秒。嗚呼、身体が重たい眠たい。
転がった拍子に腰とか手首とか捻ったり撲ったりしてズンズン痛むし、良く見たら右手に掴んだのは拳銃じゃなくてチャッカマンだし畜生、俺はあわてんぼさんですか?

「ボーエンキョ、拾っちゃったァ」と男が云う。
黒光りする筒状の物体、見ればなるほど望遠鏡。

俺はスーツの埃を払い、チャッカマンで煙草に火を点ける。ポッ。
頼むぜボーイ、ビビらせんなよ。ビビってないけど。ホントだよ?

「どうせ盗ったんだろ?」
「拾ったんだョ、お店で」
「面倒はご免だ、返して来いよ」
「バーボンもあったョ。要る?」
「イタ・ダキ・マス」

キャップを切り、ぼこぼこに凹んだアルマイトのカップに注いで、ひと息に呑む。噎せる様な芳香。胸に火が灯る。ふう。

依頼人でも殺し屋でも友人でもない訪問者、”役立たず”アポロは、不器用な手付きで望遠鏡を弄り回して立てては倒し、起こしては倒す。
ガシャ!ベキ!スタン!大騒ぎだね。

「ハイジ、今日も独り?セオ兄はァ?」
「セオニは仕事」多分、ね。

事務所の主にして俺のボス、妹鬼が消えてもう三年が経とうとしているのに、”脳味噌お留守”アポロは、それが理解できないままでいる。
ま、仕方が無いよな。誰にだって、得手と不得手が在るもんさ。

アポロは、からっぽ。
清々しいほど、ルナティック。

「オレさァ、セオ兄に漢字、教わったンだよネ名前の漢字オレの名前の、でも忘れちゃったからさァ、今ン度会ったら紙に書いて貰おと思ってさァ」
「おう、そっか。早く帰ってくると良いな」

ハンサムで背が高くて金払いが良くて面倒見が良くて街の奴らに愛される『有能な方の探偵』妹鬼。でもとにかくお節介でロマンチストで服のセンスが悪くて腕っぷしが弱いから、多分ロクでもないトラブルに巻き込まれた挙句どこかの地下室とかボイラー室とか箪笥の裏とか暗くて狭い所でくたばってるんじゃないかなーと半分以上確信しているんだけど、まあ考えても仕方がないので考えないし感じない、そんな俺は超クール。

「出来たァ、ボーエンキョ!早速どれどれ?おお?おお!こ、これは凄いですよハイジくん?遠くの遠くの遠くまで、手に取るように見えますぞ?おや、あの光は、パリの灯かしらん?」
マジかよ凄えな、望遠鏡。エッフェル塔によろしくな。

「ワンダホー!」とか「ビューリホー!」とか「ミゼラボー!」とか「ハングリー!」とか「ハイリホー!」とか「マールーダーイハンバーグ!」とか叫んでいるアポロを見守りながら、俺は杯を重ねて重ねて重ねる。

時々電話が鳴る。ジャリーン!
「ハイ、こちら迷子犬捜しから神隠しまで貴方の悩みをガッポリと解決、円生町の良心にして守護者、妹鬼探偵事務所です。無能な所長が不在の為、昨日も今日も明後日も、有能なロノメハイジが特・別・に!承ります。貴方、ラッキーですよ?ところで現金のご準備はしっかりお済みですか?」
でも大抵は、間違い電話。
「ねえラーメンまだなの?何年待ってると思ってるのよ!」
ふむん。随分と気が長いんだね?

間違い電話と悪戯電話と脅迫電話を聞き流し、俺は酔いの海に沈む。フェンスの破れ目に歩み寄って、地上に向けてお行儀良く、茶色い反吐を吐き散らす。何度も何度も。
「ゴラァ!×××探偵!××野郎!××××を××すンぞ!!」
地を這う民の怒声には、紳士的な笑顔をプレゼントにっこり。毎度おおきにご贔屓に。
。。。敵ばっかり増やしちゃって、どうすんのよ俺?ねえ?

「なァハイジィー、月って、どれさ?」飽きもせず望遠鏡に齧りついて、間抜けな声でアポロ。
よろしいよろしい、知らずば教えて進ぜよう。
「上を見ろよ。もっと上。もっと!ぐっと!上の方に!でかい饅頭みたいなのが光ってるだろ?アレが月」
「おお?でかいじゃん!月、ヤベェなァ」
うんうん。ヤベェよな、月。でもおじさん、もうおねむの時間なんで、そろそろ帰ってくれないかな?
「そっかァ、残念無念合せて九念。でもオレも、釣り竿拾いに行かなきゃだ」
釣り竿?
「じゃあなハイジ、おやすみ!ボーエンキョ置いとくから、明日の朝は先に見ていいぞ、月」

ありがとよ、おやすみアポロ。
でも俺は、夜の月が好きなんだ。

□□□□□

それに。
俺の探しているものは、多分、月には無いからさ。

□□□□□

地表の騒ぎで目を覚ました時、俺の脳味噌はまだアルコールに曇っていて、三階分の階段を降り切るまでに四つのゴミ袋を蹴飛ばし、三つのバナナで滑って転び、二つの青痣を拵えた。
ひとつ、大きなため息を吐く。

アア、本日モ、晴天ナリ。
しかし、空気はキナ臭い。

往来に吹き溜まった暇人たちに挨拶を投げつつ話を聞けば、どうやら最近お馴染みのボヤ騒ぎ。

「なあ探偵、やっぱり”火男”の仕業かな?」
「さてね」
「六件だぞ?今月だけで六件の不審火なんて、同一犯に決まってる!探偵、アンタ追ってるんだろ?”火男”の事」
「秘密」
「しっかり頼むぜ?」
「秘密」
「あと屋上から吐くのをヤメロ」
「ハイ」

今朝の火元は線路脇の雑貨屋『監視塔』。まあ町境に近いってだけの、ただの薄汚れたビルだ。

焦げたシャッタの前にビールケースを据えて腰掛け、店主が煙を吐いている。水面に映した幻燈みたいに、ぼんやりとした存在感。
近づく俺の影に気付き、煙草を挟んだ二本の指をちょい、っと上げる。気障な仕草。

「ヨオ、落合。原因はお前の寝煙草か?」
「ご冗談。私、禁煙中ですよ?」いけしゃあしゃあ。
「へえ。実は俺もそうなんだ」いけいけしゃあしゃあ。
差し出されたオイルライタの火を口元に移して、煙を肺に送る。溜めて、吐く。長く強く。ふーう。
「火事場で吸う煙草ってのはオツだね。好いもんだぜ」
「。。。ハイジさんが焼いたんじゃないでしょうね?」

路上には、焦げた額縁や本棚がちいさく積み上げられている。
ノート。歯磨き粉のチューブ。小型の扇風機。革靴で蹴ると、カラカラと乾いた音がした。あ、ワインみっけ。
「割とやられたなァ。被害額は?」
「まあそこそこ。でも、本当に価値の在るものは店には出しませんからね」
「そう云うもんなの?」
「そう云うもんですよ」

ふうん。安ワインなら、貰っちゃっても構わないよな?
七つ道具でコルクを抜いて、ひとくちガブリ。なるほどこれはお安いテイスト。つまり大好物だぜ。

「ところで誰か、恨みを持っていない奴に心当たりは?」
今日初めて、落合が少しだけ口元を上げる。
「電話帳を、上から順に読みましょうか?」

俺も少しだけ笑う。
落合は妙に存在感は薄いし気障だし何処か油断ならない野郎だけど、焼かれるほど因業な奴じゃない。
と云うか、『焼かれるほど因業な奴』なんてそうそういるか?実際。

「あれが、例の”火男”って奴ですか?」儲け損ねたワインの料金を考えてるような顔で、落合がとんでもないことを云い出す。
「『あれ』ってお前、見たのかよ犯人」
「まあ火の手が上がって慌ててたし、一瞬のことだったんで。スーツと時計と靴のブランドくらいしかわかりませんでしたけど」
「何だよお前、千里眼かよ」
「まあ、目だけは良いんで」

さすが監視塔、頼れるぜ。
「他に気付いた事はないか?細かいことでも構わないぜ」
「うーん」と顎を撫でる。
「これは火事の前なんで関係ないと思うけど、商品が幾つか盗られましてね。まあ、日常茶飯事ですけど」
「ちゃちな万引きかよ。モノはなんだ?」
「望遠鏡とか」

どっきり。おっほん。それは君、

「やっぱり、火事で燃えちゃったんじゃ?ないかなー?」俺にっこり。
「大荷物のアポロを見かけた気が?するんだけどなー?」落合にっこり。

俺たちはにっこりにっこり笑顔を交換する。目に見えない触手で、互いの腹を探り合う。長い沈黙。
長い沈黙。の。あと。

「全くもって身に覚えはないけど、ちなみに、お幾ら?」にっこり。
「三萬圓」にっこり。
畜生、高いな。
「そうかそうか、いやあ、災難だったな。ところでこれは火事見舞いだよ、少なくて悪いんだけど、遠慮なく取っておいてくれ」にっこり。
「ええ~二萬圓も?二萬圓、も、ですかァ?気を遣わせちゃって逆に?悪いなァ?逆に?まあバーボンと、そのワインの分はサービスしときますけど、本当に今回きりですからね?」

うっふん。

□□□□□

望遠鏡を覗きながら、アポロが釣り竿を振り回す。ブンブーン!

「また盗って来たのか?」
「貰ったんだョ?ちょっと焦げたからって」
「落合?」
「うん。アイツ良い奴だよなァ。存在感無いけど」

まあね。で、それはそれとして。

「で、貴君はここで、何をしておいでかな?」
「釣りびとですよ?見てワカンナイかなァ?」

これはどうも、観察力不足で面目無い。

「オレさあァ、セオ兄に教わったんだよネ。月には海があってさァ『しずかの海』『みなみの海』『あめの海』あと何だっけ忘れちゃったけど月には海がいっぱいあってさァ、だから、魚、釣り放題じゃん?やばくね?」
「やばいっすね」
「オレ見たんだよなースゲェの!青くてデッカい魚が、『しずかの海』で泳いでるの、見つけたんだよなー!オレ、釣ってご覧に入れやがりますよ?したら、ハイジにも喰わせてやるからな?」
「え、喰えんの?」
「や、喰えるかわかんないデスカラ。。。さァ?ハイジがお先に、な?」
「な?じゃねえよヤダよ」

望遠鏡を覗きながら、アポロは釣り竿を振り回し続ける。
ブンブン!ブブブーン!
清々しいほど、ファナティック。

唸り舞い踊る尖った釣針。
俺はそれを華麗なステップで避けたり避け切れなかったりしながら(イテテ!)カップに琥珀色を満たして。満たしては呷り続ける。
生温く燃える呼気を、吐く。
息が、苦しい。次第に、重い。

□□□□□

月の海について考える。

□□□□□

静かの海。
静かな海。
そこは静かで静かな。音の無い海。

水の無い海。

俺は泳ぐ。水の無い海を俺は泳ぐ。
真空の泡が、鼻から口から毛穴から漏れる。
プクプク、プク。プ。
暗い。冷たい。息苦しい。
プクプ、プ。

□□□□□

青い魚。目が合う。

□□□□□

月の海には、水が無い。
じゃあきっと、月を、泳ぐ者は、

□□□□□

「ハイジ、寝ちゃった?」とアポロが云う。

「いや、起きてるよ」と俺は応える。
大丈夫だよ。起きてるよ、多分。

「今日は駄目だったけどさァ、明日はゼッタイ釣れるからな?」
「そうだな。俺も、そんな気がするよ」
「ホントにホンキかァ?」
「本当に、本気さ」

思い返す。青い魚。その目は俺を見ているようで。

「じゃあさァ、水槽買っといてよ?デカイ奴」
「なんだよ、喰うんじゃないのか?」
「やっぱ飼う。この部屋、サップーケイだし、アイツ綺麗だしな」
俺が世話すんの?まあ良いけど。
「オーケイオーケイ。買っとくよ」
「デカイ奴、な?」
「ああ。一番大きい水槽を買っておくから、見てビビんなよ?」
落合の店。水槽のひとつくらい在るだろう。
「オッケー4649!釣り竿、置いとくから使っていいケド大切にな?そしてオレの竿はオレの名前書いてあるんだから、オレの竿で釣った獲物はつまりオレのものでリョーカイだよな?じゃ!」

云い逃げるようにアポロが去る。慌ただしい奴だ。
床に喰い散らかされた菓子袋と空き缶を拾ってゴミ箱に投げ入れて、ようやく一服。
望遠鏡のレンズに布を掛け、釣り竿は壁に立て掛けようとするがチップスの油でグリップがぬるぬるしてるぜ、やだなあもう。ハンカチで拭ってすっきりさっぱり、しかし黒い染みが取れない。おかしいなゴシゴシ。違う、これは油性マジックだ。名前だ。名前か?

『愛放浪』
え?ひょっとしてア・ポ・ロって読むの?コレ?
何それ凄いセンス度肝抜かれちゃうぜ。
愛放浪。
見覚えのある妹鬼の達筆。しかし本ッ当に、センス悪いよなアイツ。
愛放浪。だって。ふふっふ、ほほっほ、俺は笑う。笑うけど。

あれ?

□□□□□

ギャリッツ!と音を立てて。
心臓が割れる。

□□□□□

俺、今、何て云った?
妹鬼の字?
今日手に入れた釣り竿に?

□□□□□

「アアアアアアポロォッッッツ!」

フェンスに駆け寄る。叫ぶ。
路上に人影は無い。畜生、足が速いぜバカ阿呆郎。
妹鬼に逢った?いつ?どこで?

ジャリーン!と電話が鳴る。割れた心臓を更に鋸引く不快な振動。
おいおい何だよこの展開?落ち着け俺。落ち着いて虚数を数えろ。
数えられません。仕方ないから自力で落ち着く。受話器を上げる。

「ハイ、こちら愛犬の躾から過去改変まで貴方の悩みをガッポリ解決、」

「拝司か?」と電話が云う。

俺は受話器を投げ棄てる。
夜に駆け出す。全力で。全力を越えて。

□□□□□

□□□□□

□□□□□

長い。夜が。明ける。

□□□□□

□□□□□

□□□□□

「都に、オリンピックが来るからサ、」と妹鬼が云う。
「国威発揚!金剛無双!清冽湧水な我が国よ!ってサ?都じゃ大盛り上がりなんだよネ」

あっそう。 成程、だからか?
ここは都の果ての街。掃き溜めの奥の吹き溜まり。
燃えろよ燃えろ貧民窟。臭い物には蓋して燃やして清潔な世界をアピールって訳だ。燃えろよ燃えろ炎よ燃えろ。だけど、焼かれる側にも言い分が在るぜ?

地球。日本。円生町。
誰が呼んだか、『厭世街』。
汚物と異臭とロマンの街。俺たちの街。

俺は溜息ひとつ、ふう。
尋ねたい事云いたい事が山積みだけどソーリーちょっと休憩な。
俺、アバラが折れてるし、鼻の骨も折れてるし、多分手の指も折れてるし。
所謂、マンシンソーイって奴なんだ。はあ、しんど。

「お互い、荒事向きじゃないよナ」と笑った妹鬼は前歯が折れててハンサム台無し。
絶望的にセンスの悪い黄色のタータン・チェックのスーツ、右袖は破れて千切れて失われて、替わりに救い難くセンスの悪いピンクのシャツに包まれた腕がにょっきりと生えていて、目を覆いたくなるほどセンスが悪くてセンスが悪い。

「あいつが、”火男”か?」と俺は訊く。
「そ。都の飼い犬。雑魚だヨ」と妹鬼が応える。

そんな雑魚一匹にコテンパンに殴られ蹴られ捩じり上げられて前歯とか肋骨とか鼻骨その他をぽきぽきばきんと折られて地面に這いつくばって血の混じった細い息を吐いたりして旧交を温めている俺たちに、この街が守れるのか?

「無理だよネ?」と妹鬼が笑う。でもその目はまだ死んでない。
歯を喰いしばって立ち上がり、赤い唾を吐いてハンサムに笑う。

俺の友達はきっと、『自分の背骨』って奴を見つけちまったんだろう。
俺には、在るかなァ?なんかさ。なんか、まだ、俺にも、なにかがさ?

「俺はまた、都に潜るヨ。お前はどうする、拝司?」と友達が訊く。
わからない。俺は、どうしたら、良いんだろうな?わからないから。
「とりあえず、帰って寝る」と俺は答える。
うん、それがいいヨ。と妹鬼が笑う。

□□□□□

だけどせめて、約束は守りたい。

□□□□□

俺は『監視塔』に寄る。
ビールケースを蹴倒して、落合が駆け寄って来る。「ハイジさん?」肩を差し入れ、俺を支える。
「大袈裟な声を出すなよ。ちょっと転んだだけなんだ」
「そうですか?なんだか、悪党にボコボコにされて肋骨を折られて存在意義を見失った、正義のコンビの地味な方、みたいな顔してますよ?」
うるせえよ千里眼。瞼をホッチキスしちゃうぞ?
なんて云い返す元気も気力もないから、手早く用件だけを済ます。

「水槽、在るか?」
「え?買い物に来たんですか?」
「水槽は在るのか、って訊いたんだ」
「まあ、幾つか。サイズは?」
「一番でかい奴。大物を入れる予定なんだ」
「じゃあ五萬圓です」
「。。。もっと安い奴、無いの?」
「じゃあ三千圓の奴にします?サイズは殆ど一緒ですよ」
「。。。何だよその価格破壊。さては、割れてるな?」
「そりゃあ勿論、割れてますけど」

お前なー。俺は腰から砕け落ちる。店の壁に背を預け、往来を眺めて息を吐く。ボク、何だかもう疲れちゃったなー。

ああ、街。
俺の街は今日も、毒々しく輝いている。野良犬が(或いは野良住民が)ひっくり返したゴミ箱に朝の陽が降り注ぎ、嗅ぎ慣れた、酸味の強い腐臭が空気を濡らす。

「消毒、した方が良いですよ」
琥珀色を満たしたグラス。
ひと息に呑む。熱い刺激と鉄の味とが、食道を叩き胃を蹴り上げる。
効くねえ、この赤チン。

「大丈夫ですよ」と落合が云う。
何が?何がどう大丈夫なんだよ?
「大丈夫ですよ、ハイジさん。ちょっとくらい罅割れていても。多少水が漏れたとしても。今は中身が空っぽでも」落合は云う。
「それでも水槽は水槽だし、探偵は探偵ですよ」
そう云って。落合は笑う静かに俺を見て。

空々しいほどオーセンティック。だけど。

俺は少しだけ、救われる。

□□□□□

妹鬼は都へ行き、俺は街に残り、アポロは月へ行った。
まったく、慌ただしい奴だぜ。

厭世街。
錆びた街の、錆びた駅裏の、錆びたビルの、錆びた屋上に事務所が在って、窓際に望遠鏡が在って、望遠鏡の中に月が在って、月には静かの海が在って。

静かの海には、静かな魚が泳いでいる。

莫迦莫迦しいほど、ロマンティック。

アポロは竿を振り回す。ブンブンブーン!
俺は地球でそれを見ている。
ヘイ、アポロ、調子はどうだ?
お前の魚は釣れそうか?
せっかく買って来てやったのに、水槽、地球に忘れてるぜ?

俺は笑う。
笑うとアバラがギシギシ唸るけどしかめっ面で俺は笑う。
革の伸びたソファに転がって、俺は俺を考える。俺の背骨。俺の魚。俺の何か。俺のための、俺だけの何かについて。

それは、在るだろうか?この空っぽの、干上がって砂の舞う俺の心に、俺の海に。
それはまだ泳いでいるか?泳いでいるのか?

応えは無い。都も月も、俺の街からは遠すぎる。

灯りを消し、毛布を胸に引き寄せる。
水槽に投げ捨てた煙草の火が一瞬、遠い星の様に瞬いて、深海魚のウロコの様に輝いて。
瞬いて。それから永遠に、消える。消えた。けど。

俺は折れた指を伸ばして。伸ばして。
いつまでも。それを追い続けている。

/了

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