思い出が多すぎる。
わっしょい。没ネタ祭です。
つい先日、手元にないと思い込んでいた過去の作品の一部を妻が保管していることを知り、おそるおそる再読する機会を得ました。
20年近く前に書いた作品と云うのは、もう恥ずかしいとか照れくさいなどと云う衒いを越えて、ただただ拙く、そして愛おしいものでした。
当時の私は本当に(本当に)ひどい生活をしていて(吐きそう)、更にタチの悪いことにそれを誇りに感じている愚かな一面もあり、今では冷静に思い出すことが出来ません。青い時代、と云うにはあまりにも薄暗く、饐えた匂いと強い酸味で彩られた時代。それはもう本当に遠く遠くて。忘れてしまったのです、私は。
ですが、書いたものが残っています。
ペリペリと、捲る毎にインクが鳴くその紙束を何度も読み返し、ここに改めてタイプしながら「書き直したい、手を入れたい」と強く強く思いました。
気が付いた誤字、用法の誤りだけを、直しました。
だってこれはもう「私」の作品ではないんだもんな、と云うのが今の偽らざる気持ちです。作者への、私に良く似た遠い彼への、せめてものリスペクトです。
拙いものではありますが、その拙さゆえにこうして記録しておくことに意味を見出し、自分を奮い立たせることとします。
自由な空間、noteに感謝を。没ネタ祭という聖域に、御礼を。
それから、これを目にしている数少ない私の見知らぬ友人たち。いつもありがとう。愛してます。(両目でウインク、バチー)
「愚者の楽園:思い出が多すぎる」(2000年11月15日)
差出人不明の小包には、小さな箱が入っていた。
木製で引き出しの付いた、ママゴトのタンスみたいな可愛い箱だ。
しばらく眺めてから、ヨリコに電話を掛ける。ぼくの恋人。
きっと少し早い誕生日プレゼントのつもりなのだろう。
「やあぼくだけど素敵な箱をありがとう気に入ったよ」
「ハコ?ええっと、何の事?」
「さっき届いたんだけど、君じゃないの?」
「残念。あたしの名前で届いたの?いたずらかしら」
「いや差出人は空欄なんだ。てっきり君からだと・・・ちょっと電波が悪いね地下鉄かい?」
「地下は正解。職場のおともだちと食事してるの」
「邪魔しちゃ野暮だな、もう切るよ。でも良かった。やっぱり君からのプレゼントなら手渡しじゃなくっちゃね」
「あら催促?あ、ごめんなさいおともだちが呼んでるから」
「うん。それじゃあまた」
とりあえずソファに腰をおろし、箱を肴に冷えたビールをゆっくりとぼんやりと、時間をかけて飲んだ。
小物入れだろうか。それとも唯の置物か。
何気なく振ってみると、カタリと恥ずかし気な音を出す。
何か入っているのだ。中に。
成程。箱とは元来そう云うものだった。「箱が送られて来た」と思い込んでいたのだが、冷静に考えれば重要なのは中身なのだった。
ミズタニのことを思い出す。
貰い物があると「やあ素敵な包装紙だね」「丁度こんな紙袋を探してたんだ」と本気で喜び相手を鼻白ませる、ちょっとカワリモノの友人。
どうも、彼を笑えたものではないようだ。
さてみなさん、これは喜劇です。ぼくに与えられたのは「謎じゃ!いやはやまったく、謎じゃわい!」なんて観客の笑いを誘う、頭のおかしな探偵さんと云う役回り。いやはや、困ったもんじゃわい。
では気を取り直して。
さてみなさん、ついに謎解きのお時間です。
すべての謎を解く鍵は、この箱の中にあったのです!
ぼくは観客の目を意識した気取った仕草で、その小さな箱の引き出しを、開けた。
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「これはあれだよ、宝箱」
箱を見るなり、ミズタニがふやけた声でそう言った。右手には缶ビール。「知ってるのか?」
「いや知らない。名付けるとしたら宝箱、という意味さ。もしくは、思い出箱」
ふざけた奴だ。でも確かに、それは言い得て妙だった。
その小さな箱の中には、ぼくの思い出がぎっしりと詰まっていたのだ。
まっかなビー玉。黄色いリボンの麦藁帽子。砂の入った青いビン。小さなタイル片。キャプテンハーロックのシール。幾つかの曲がった王冠。工事現場で拾ったボルト。どこの扉にも合わない鍵。学習雑誌のふろく。祖父の壊れたメガネのレンズ。ドラえもんのコミック。猟銃の弾。
思い出は子供の頃に限らず、おととい無くしたジッポのライタが出て来たりもする。
それらはすべて、ぼくが『大事にしていたのに失ってしまったもの』たちだった。
ミズタニはそのひとつひとつを手にとっては「ああおれもこんなの持っていたな」とか「これはなんだろう」とか感想を述べた。
そうして話している間にも、箱はぼくの思い出を次々と吐き出して行く。
「一度、引き出しを閉めたらどうだい」
ふやけた声でそう言われて我に返ると、八畳ある部屋の床は既にがらくたの宝物で埋まりかけていた。一体この小さな箱に、どうやってこれだけのものが詰まっていたのだろう。
「まあそういう箱だってことだよ。それに思い出なんて場所を取らないものさ。それを忘れている間はね」
あっさりとそう言われると、成程そうかと思ってしまう。
実際は何の説明にもなっていないのだが。
「やあ、良いものがあった」
ミズタニが拾い上げたのは、ぼくらの世代の黄金アイテム『野球盤(消える魔球付き)』だ。
「わあ、懐かしいな。やろうやろう」
こう云ったゲームは、細部を想像力で補う事が大切だ。
ぼくらはそれぞれ自分のチームのオーダーを組んで対戦することにした。
ぼくは太宰治、坂口安吾、小田作之助の無頼派クリンナップ擁する『文豪チーム』。ミズタニはスキヤキ、ニンジャ、ゲイシャなどを集めた『間違った大和魂チーム』。ジャンケンポンで、ぼくが先攻。
「♪一番。ショート、シェイクスピア」
「なんだ、日本の作家だけじゃないのかい」
「助っ人外国人だよ」
「じゃあこっちのピッチャーは久米宏」
「大和魂と関係ないじゃないか」
「助っ人外国人だよ」
「無茶言うなよ」
試合は百八十三センチの長身を活かして速球を投げ込む久米宏と、『ニヒル魔球』を軸にのらりくらりと変化球で躱す芥川龍之介との息詰まる投手戦となった。しかし最終回、芥川の変化球に目が慣れて来たミズタニの打線に捕まり、サムライ、ハラキリに連続長打を浴びたところで哀れ『文豪チーム』のサヨナラ負けと相成った。
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「これ、おれが開けたらどうなるんだろう」
ふやけた声で、ミズタニが言った。
「そりゃ、おまえの思い出が出てくるんじゃないかな」
多分。
「開けてみていいかい」
ぼくはわざと興味無さげに頷いてみせて、キャメルに火をつけた。そして横目でちらちらと様子を窺う。他人の思い出を覗くと云うのはやはり何処か背徳的で・・・淫靡な行為だ。
ミズタニは慎重にひとつずつ、箱から思い出を取り出してゆく。
模型飛行機。童謡のレコード。砂時計。錆びたぜんまい。コインケース。ゴムボール。万華鏡。綺麗に割れた卵の殻。小指のない手袋。
ぼくと同じで、やはり他愛のない物が多い。
それはつまり、大人になるにつれ大事なものが少なくなった証拠なのだろう。しんみり。
「懐かしい?」
湿っぽい気分を悟られまいと、ぼくは努めて明るい声を出した。
「いや、つい最近なくしたものばっかりだね」
大人になっても、変わらない奴もいる。
やれやれ。ぼくはトイレに立って、ついでに冷蔵庫からビールを取り出した。需要と供給のバランスを巧く取ることが、この混乱の世を生き抜く秘訣だ。「おまえも、もう一本飲むかい?」
返事はない。きっと穴の空いたフライパンだとか破れた黒板消しだとかそんな『最近なくした宝物』に夢中になっているのだろう。
ビール片手に戻ってみると、ミズタニは左手を箱に入れたままの姿勢で、その箱の中へただじっと視線を注いでいた。まるで魔女に石化の呪いでもかけられたみたいだった。『振り向いてみると、連れの男はきらきらひかる塩の柱になっていました』冗談じゃない。
「ミズタニ。おいミズタニっ」
何度目かの呼びかけの後でようやく、しっぽを踏まれた犬みたいにぴくりと体を震わせる。
「おい大丈夫かよ。随分と汗をかいてるぜ」
「・・・ああ、平気だよ。それよりビールを貰えないか」
「さっきからそれを聞いてたんだけど」
ぼくらはソファに並んで座り、缶ビールをゆっくりと、時間をかけて飲んだ。箱の引き出しは、今はぴったりと閉められている。
遠くから次第に近づいてきたパトカーのサイレンが、アパートの前で低い響きに変わる。それはまるで、すとんと落とし穴にでも落ちたような唐突さだった。
これをドップラー効果と言います。たぶん。
サイレンが完全に聞こえなくなってから、ミズタニがぽつりと口を開く。
「例えば。それを喪くしてしまったと気づきさえしなければ。おれたちは、何ひとつ。喪くさずに済むんだろうね」
顔にはいつものように、捕らえ所のない柔らかな表情が浮かんでいた。
ぼくはそうだねと曖昧に答えながら、ミズタニは箱の中に何を見たのだろう、とぼんやり考えた。
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床一杯に広がった思い出を、ひとつひとつ、箱に収めていく。
「箱から出て来たんだ。箱になら入るさ」というミズタニの言葉通り、小さな箱は何の抵抗もなくするすると思い出を飲み込んでゆく。
虫メガネ。蝉の抜け殻。高校時代の彼女の写真。虹色の貝殻。学生服の裏ボタン。懐中時計。ああ!ぼくらはなんて多くの物をなくして生きているのだろう!思わずため息が漏れる。
「あんまり酔うと、飲み込まれるよ」
ふやけた声で、ミズタニが言う。
「まだ二本目だよ」
「思い出にさ。アルコールより、余程酔う」
成程。
確かにぼくは、思い出に酔わされ始めているようだった。それはふわふわと柔らかく、あまりに気持ちが落ち着き過ぎる。
ぼくらはぶるぶると頭を振って気合いを入れ直し、黙々と思い出を詰めてゆく。
アイドルのポスター。くじらの絵の手帳。ダリのポストカード。ムーミンのシャープペンシル。玩具の注射器。クリスマスブーツ。金の折り紙。万年筆。
そして最後に花の種が残った。十粒程のコスモスの種。
ぐらり、と視界が揺れる。ピンク色の絨毯が見える。思い出が、ぼくを飲み込もうとしているのがはっきりとわかった。「おい」と隣でミズタニが呼ぶ。ああ頼む蜘蛛の糸を投げてくれないか。『さあ準備はよろしいですかでは参りましょう』ちょっとまておまえ誰だ『細かいことは言いっこなしです』待てってば『おやもうこんな時間』やめろ『さあ手拍子どうぞ』はいはいはい!『では出発』
ぼくが九つの秋に祖父が亡くなった。父親の顔を知らないぼくにとって、祖父は優しい理想の父親だった。祖父はコスモスが好きだった。ぼくは祖父にコスモスの種をあげようと思った。天国についたらすぐに植えられるように。新しい家の周りを、コスモスで埋め尽くせるように。皆が寝静まるのを待って庭に出て、コスモスの種を拾った。街灯ひとつない田舎の庭は暗く、月明かりを頼りにようやく集めた種も、後で調べると殆どが小石や木屑だった。それでも十粒程度の種が、手のひらに残った。それはぼくの、大冒険だったのだ。ぼくの名はトム・ソーヤー。コスモスの種を握ったハックルベリィ・フィン。祖父の棺はまだ、家の中に横たえられている。なんとかして、祖父に種を渡したかった。ぼくはこっそりと棺に近づき、そっと触れた。そして突然恐怖に憑かれた。きっかけなんて何もない。『何も起こらない』事が、怖くなったのだ。例えばそこで祖父が身動きしたって怖くはない。人間はフィクションの中でなら、幾らでも勇敢になれる。死人が動く世界の中ではぼくだって魔法を使える。だが祖父は動かなかった。死人は動かない。井戸を這いあがったりしない。リアルな現実。その時ぼくが直面していたのは抜き身の現実だった。ぼくはばっさりと切り捨てられ、わっと泣き声をあげて逃げ出した。「ハギワラ」母親の元にたどり着いた時、既にぼくの手の中に種はなかった。「ハギワラ」オバケに奪われたのだったらどんなに良かっただろう。ぼくは自分の手で撒き散らしたのだ。気付きもしないまま。
「ハギワラ。おい、ハギワラ。しっかりしろ」 ミズタニの声だ。だが珍しく、ふやけてはいない。
「おい大丈夫かよ。随分、汗をかいてるぞ」
「 ・・・ああ、もう平気だよ。それよりビールを取って来てくれ」
吐く息が炎のようだ。
「気をつけろって言ったろう?おまえ、飲まれかけてるぞ」
大丈夫だよミズタニ。ぼくらはそういう風に出来ているんだ。色々なものをなくして、それでも平気で生きられる、そういう風に出来てるんだからね。だから大丈夫だ。大丈夫。ねえおまえだってそうだろう?
「ミズタニ」
「なんだい」
ぐい、と額の汗を拭い取る。
「おまえは何を、なくしたんだ?」
ミズタニもまた、確かに思い出に『飲まれかけた』のだ。ぼくの目の前で。
ミズタニは「そんなことか」と笑って、あっさりと答えてくれた。
「引き出しの中にね、おれがいたのさ。昔のおれさ。幸せそうに笑ってたよ。『こっちへこいよ』って、笑いやがった。くそくらえ、だね」
口調は激しかったが、声は優しくふやけたままだった。
結局ぼくは、ミズタニのことを何も知らないのだ。
「変な事を尋ねちゃったな」
小さい頃から『おっちょこちょいだから良く考えてから話しなさい』と母親に説教されてきたぼくだ。
「言葉に税はかからないよ。それに話した方が楽な事だってある。そうだろう?」
ミズタニはまっすぐに、ぼくを見ていた。「おれを電話で呼ぶ前、」ふやけた声が、ぼくの鼓膜を揺らす。
「この箱を開けてすぐ、おまえはひとりで何を見たんだい?」
ぼくはキャメルに火をつけて目を閉じる。ぼくが見たもの。ぼくがなくしたもの。
「それを話したくて、おれをここに呼んだんだろう?」
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さてみなさん謎解きのお時間です。謎を解く鍵はこの箱の中にあったのです。
ぼくは観客の目を意識した気取った仕草で、その小さな箱の引き出しを、開けた。
予想に反して、メッセージカードの類は見当たらない。代わりに出て来たのは、まっかなビー玉。黄色いリボンの麦藁帽子。砂の入った青いビン。小さいタイル片。どれもこれも、『大事にしていたのに失ってしまったもの』たちだった。この小さな箱にどうやって入っていたのか、次々と出てくる。キャプテンハーロックのシール。幾つかの曲がった王冠。工事現場で拾ったボルト。どの扉にも合わない鍵。学習雑誌のふろく。祖父の壊れたメガネのレンズ。ドラえもんのコミック。猟銃の弾。そしてヨリコ。ぼくの恋人。
みなさんこれは喜劇です。ぼくに与えられたのは『邪魔しちゃ野暮だな。じゃあ切るよ』なんて観客の笑いを誘う、哀れな男という役回り。どうか笑ってやって下さい。
『職場のおともだちと食事してるの』電話の声を思い出す。『おともだち』か。ばかだなあ。気が付かなかったのかね。ばかだなあ。君はもう既に、彼女を失っていたのだよ。もうすぐ誕生日だっていうのにね。ばかだなあ。あんなに大事にしていたのにねえ。『邪魔しちゃ野暮だな』なかなかの名台詞じゃないかね。ぼくはあはははと声を出して笑った。笑ったら楽になる気がしたからだが、随分長いこと笑ってからわかったのは、疲れるだけだということだった。ばかだなあ。
受話器を手に取りアドレス帳をめくる。一番上がヨリコのアパート。マジックでキュッ。次がヨリコの携帯電話。マジックでキュッ。上位が消えて暫定一位に認定された三番目の番号をダイアルする。
こんな時に留守にしていたら、絶交してやる。
「ようミズタニか。遊びに来ないか。ビールがあるぞ。それにちょっと面白いものを手に入れたんだ」
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ぼくは結局、コスモスの種だけを手元に残すことにした。種には箱の中より土の中の方が相応しいと思ったからだ。(「思い出の、思い出だね」とミズタニが笑った)
ぼくらはまたソファに並んで座って、箱を肴にゆっくりと、時間をかけてビールを飲んだ。ビールがなくなると、グラスを出してウィスキィを嘗めた。思い出の残滓をアルコールで消毒するみたいに。ゆっくりと、たっぷりと。遠くで、救急車のサイレンが鳴っている。遮るように、ミズタニが口を開いた。
「もうすぐ誕生日だろう。何処か、遊びに出掛けようか」
鼻の奥が、つんとした。ひょっとしたらぼくは、泣きそうな顔になっていたかもしれない。そんなの認めたくないけれど。だから精一杯意地悪そうな顔と声を作って言った。
「美味いものでもご馳走してくれるんなら、付き合ってもいいぜ」
友人はあははと笑って、ふやけた声で「いいよ」と言った。
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秋になって、ミズタニの家に程近いアパートの一室に引っ越しをした。そのごたごたでぼくは、大事にしていた文庫本を数冊と、小さな箱をひとつ、なくしてしまった。
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新しい部屋では今、コスモスが薄いピンク色の花を咲かせている。
/了