ヨカナーンの函
「北へ向かって。」と女が云う。
何故、とは問わずに前を見る。夜を見る。それは更ける。
つまり深夜の環状線。ハンドルは冷たくアクセルは重い。
対向車。ヘッドライト。好戦的な光線が俺の水晶体に火を点ける。硝子体を蒸発させる。じゅう、じゅう、上手に焼けました。よせよ、発光ダイオード。羞恥を知れ。己を知れ。お前なんて所詮、発光するダイオードに過ぎない。ところで、ダイオードってなんだっけ?
とは問わずに前を見る。
更ける深まる夜を見る。
五分、十分、十七分。
女は口を開かない。勿論俺も開かない。
沈黙の、綱引き。つまり深夜の感情戦。
五分、十分、十七分。更に経る。
結局先に音を上げる。「何故、北へ?」
「だって、」と女が云う。
「だって、お決まりのコースだわ。罪びとは北へ向かうのが相場なの。でも、そう、確かに不思議ね何故かしら。北に、何が在るって云うの?赦し?それとも裁き?ねえあなたはどちらが好み?赦し?それとも、裁き?」
質問では無く誘惑。だと、俺は察知する。勘が良いんだよね。だから質問に応えず誘惑に乗らず話題を変える。べきだと思う。何かくだらない事を、そう例えば『月面のクレイターが発するブギウギなラジオ電波』についての小噺でも、語るべきだと思う、思うが、思いながらも「罪びと?」と相槌を打つ・俺の・優しさが・底抜け。
「なあ一体誰が、罪びとなんだ。君か?俺か?」
「あなたも、私も。違って?ねえ、罪を犯していないひとなんて、いるかしら?」
「一般論を、大上段に振りかざすなよ。生臭坊主の説教みたいだぜ。」
無論、俺だって罪を犯す。
味の消えたチューイングガムを路上に吐き出したり、誰かが忘れて去った自販機の小銭をちょろまかしたり、死にたがりな誰かを見捨てたりする。
□□□
「絵を描いてるんだ。」と男が云う。
バーで隣り合わせただけの男。俺は適当な相槌を打つ。
「へえ。俺も時々描くぜ?チューリップとか、くじらとか。うまいもんさ。」
・・・適当な相槌って、割と難しいよね?
「女の絵、なんだ。」
カウンタ席、その薄い灯さえも避けて俯く横顔に、昏い自虐の愉悦が浮かぶ。痴れた神経、その産声が震えとなって、眉根の谷から鼻梁へ、そして口の端へと流れ落ちる。俺はそれを観測する。俺は注意深く、それを観測する。洞察そして鑑定する。『呑んだくれの、死にたがりの、画家。』オーケイ。悪いけど、救いようがない。
杯を重ねる。思考は乱れる。酔漢二人の飲酒量の二乗は、対話の胡乱さの二乗に等しい。サン・ヘイホー博士の定理。博士は昨年、肝臓を患って死んだ。享年930歳。へえ。奇しくもアダムと同い歳だ。博士に黙祷、ついでにアダムも。そして乾杯。
「女を描く上で、大切な事って、何だと思う?」
「さァ?後学の為に、是非ご教授願いたいね。」
「それはね、君、」と男は云う。呑んで呑んで、なお潤いを知らぬ声。ひびわれて。
「それはね、君、女を、描こうとしないことさ。」
あっそう。禅問答なら茶室でやってくれ、どうぞ。
男が手洗いに立った隙に、カウンタに紙幣を並べる。
「余るようなら、隣の払いに充ててくれ。」
バーテンダは静かに頷く。何も訊かない。良い店だ。
公園を抜ける。駅へ近道ショートカット。
駅に用事なんて無いけどね、千鳥足でね。
ホットドッグ・スタンドのハロゲン球体。
凍える闇にふわり咲いて、色はイエロー。
安っぽいケチャップと、焦げた油の匂い。
音の割れたラジオ、遥か遠い昔の流行歌。
聴き覚えのある曲、でもどこか曖昧な詞。
「昔々アラビアのお噺、偉大なる生臭坊主がお戯れ。
純朴チェリーボーイに秘伝の黒い汁を飲ませました。
すると効果は覿面すっかり興奮立派なジゴロになりました。
色情狂になりましたとさ。レッツ・ジゴロ、どっとはらい。
さあみなさん、マンボだかタンゴだかを踊りましょうさあ。
ヴァルプルギスな・ナイト・ディスコ!
ディスコディスコ!ナイト・ディスコ!」
そんな歌。多分。どうにも罪な話だね。ああなんだかコーヒーが飲みたい。
コーヒーが飲みたい。と。思う。下顎が溶け落ちるような、胃液が爆発するような、そんな、容赦無く熱くて苦い液体が、欲しいんだ。そう思う。
「待ってくれ、なあ、一体どう云うんだ?」
男が追って来る。呑んだくれの、死にたがりの、律儀な画家。
「何が?」
「何って。。。君に酒代を恵んでもらうような、その。。。筋合いは、無い。」
筋合い、と云う言葉の物々しさが可笑しくて、俺はちいさく笑う。俺は男を、少しだけ好きになる。
「気に障ったんなら謝る。今夜は財布が重たくて困ってたんだ。ま、人助けと思って許してくれ。」
男の瞳が鈍く光る。揶揄われたと思ったのだろう。若いなと思う。美しいとも思う。まあ、揶揄ったんだけどさ。ごめんごめん。
「悪かったよ。」頭を下げる。今度は心から、謝罪の意を表明する。男はそれを受け入れる。良い奴なんだ。俺たちは和解する。俺は男の描いた絵を買うことになる。女の絵。
その顔に、見覚えがある。
□□□
待ち合わせたロータリーで女を拾う。
つば広の帽子にサングラス、ヒールと日傘に不似合な大荷物。
旅行鞄ふたつと手提げ鞄ひとつ、青白縞のクーラ・ボックス。
すべてを後部座席に詰め込んで、中古のトヨタに尻を据える。
澄ました顔と声色で「久しぶりね。」と挨拶する。
「バカンスか引っ越しか、はっきりしない荷物だな。」と俺は応える。
でも。結局それは、同じ事かも知れない。逃避行。
女は手回しハンドル式の窓やシガーソケットを物珍しそうに眺め、帽子を取り、扱いに困ってもう一度頭に置き、ダッシュボードを撫で、それが核ミサイルの発射ボタンでないことを祈るような慎重な、神妙な手付きで、ラジオのスイッチを押す。
シュウゥハ。シュウハ、スゥ、と雑音。
ぐるぐるとダイヤルを回す、白い指の、不慣れと、不審と、戸惑いと、幽かな苛立ちと、調和不在の、電波が踊る、踊って、シュウゥハ。シュウハ、スゥ。
「巧く、受信しないわ。」と女が云う。
「壊れてるんだ。」と俺は云う。
「ラジオが?それとも世界が?」と女が訊く。
さて。どっちだろうな。でも。
結局それも、同じ事かも知れない。両成敗。
俺は運転に集中する。陽の陰りと共に地平に車が溢れ始める。鉄の馬がアスファルトを覆う。聖書的暗示に満ちた、呪われし渋滞。なんて冗談。半分冗談。俺は運転に集中する。すぐに飽きる。冷めやすいのが俺の欠点。クールなんだ。情熱と冷静の、チューニングが合わない。俺と世界、ズレているのはどっちなんだ?それは決して、同じ事では無い筈だった。自問無答。
ちいさな奇跡が顕現する。一瞬の調和が訪れる。勿論俺じゃなくて、ラジオの話。最先端の流行歌の、平坦で耳障りなラップ調。突然車内を満たす。気に入らない。俺はダイヤルを回す。雑音フリークエンス。奇跡は去る。雑音と破片。雑音と破片と雑音。『・・・の天気・・れ・・指数は・・・・意が必要です『・から私、上司・・・に・・・・・てやった・・・けどこれって・・りま・・・でもやっぱ・・じられ・・・うか『・・体の・部が・・れた状態で発・・・は・・・一方・・居する女と連絡・・・・くなっており警・・・らかの事情・・って・・・・見て行方を『神は見ておられます。』やれやれ世界、お前の周波数は幾つだ?
「もう、消して。」と女が云う。
「ラジオが嫌なら、グローブボックスにテープがある。スティーリー・ダンでもトム・ウェイツでも、お好きなものをどうぞ、ご自由に。」
女はそれを開く。優雅な手付きで掻き回す。呆れたように溜息を吐く。
「カセットテープ!ねえ、今が何世紀だか、知っている?」
「六代目圓生だってあるぜ。嫌いじゃないだろう?」
「嫌いじゃないけど、首提灯って気分じゃないわ。」
「それは残念。」
残念だよ、本当にね。
俺は運転に集中する。
そして、沈黙。
□□□
「悔悛のマグダレーナ。」と男が云う。
マグダラのマリア。イエスの復活を報せる女。
乳房も露わな薄絹、香油壺、匂い立つような色気と涙と赤い唇。
好い絵だと思う。そこには対象への、確かな憧憬と執着がある。
だが違う。
これは違う。
「これはサロメだ。」と俺は云う。「解かっているだろう?」
男は静かに俺を見る。痩せた顔、鋭利な首筋に流れ落ちる痙攣の陰影が、俺を諭す。俺は悟る。確信する。
悪いけど、もう救いようがない。
「そう、多分。君が正しい。」と男は笑う。
悦び。ただその一色に、濡れて。
□□□
ルームミラーに、視線を感じる。時々それを観測する。知る。
後部座席。詰め込まれ積み上げられた荷物。女の函。秘密の。
旅行鞄ふたつと手提げ鞄ひとつ、青白縞のクーラ・ボックス。
何が入ってるんだろうね?
なあ、一体何が、入ってるんだ?
とは問わずに前を見る。
明ける新しい空を見る。
俺は運転に集中する。俺はクールに、運転に、集中する。
北へ向かう車の中で、女が、男が、周波数が眠りに就く。
おやすみ世界。良い夢見なよ。
カーラジオは、もう鳴らない。
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『彼らは主に言った。「あなたはなぜ、私たちすべてよりも彼女を愛されるのですか?」救い主は答えた。「なぜ、私は君たちを彼女のように愛せないのだろうか」』(『フィリポによる福音書』)
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さてね?でもまあそれが、愛ってもんなんじゃないの、多分さ。
/了 (20210330~20210401)