今もこの水底で。
そんな訳で世界は沈み、わたしはぷかりぷこりと浮いている。
世界、沈んで在る。
沈んで在る、しずかにゆれる世界の、つややかに濡れた膚、膜、その凛と青い張力に、わたしはわたしをゆだねて、浮かんで、眺めて在る。
広い、ひんやりとあたたかい、そんな視界を、ながめ、ながれ、漂流。している、わたしは紺碧に塗られた、一枚の木板の上に在って、見下ろせば、街はもう霞む。でも見える。わたしの街。ふかく沈んで。
青い板、真鍮の取っ手の付いたわたしの舟は、沈んだ街の、沈んだ建物の、玄関扉で在ったかも知れない。多分そうだろう。わたしは、わたしの舟の、出自を求めて、眼下に扉の無い建物を、探すような、でもそうでもないような、有耶無耶な気持ちで街を眺めながら、実はずっと、ハンバーガーについて考えている、以下。
空と水との二枚のバンズで、世界を挟んだハンバーガー。圧倒される。大きいね。
じゃあ片隅にちょこりと添えられたわたしは、ピクルスみたいなものだろうか?と考えてみて、でもピクルス、ピクルスピクルス。ふむん。ちょっと、ときめかない。
それではレタス?ハム?まさかベーコンですって?いえまさかまさかそんな存在感。重量感。わたし、ございません。ございません。
調味料が好いな、とわたしは思う。どうですか?
ペパーにソルト、ケチャップ、サルサ、マスタード。
好いね、マスタード。マスタードマスタード。好きだよマスタード。太陽を匙で掬ったような、元気印の色と香。
どうせなら、ハニーマスタード。ハニーマスタードハニーマスタード。語呂が悪いね、でも美味しい。「ねえハニー?」「なんだい、可愛いマスタード?」なんて、天神さまの細道で出逢った二人が、互いの長所を引き立て合って魅かれ合って愛し愛されて産まれたのがわたし。と。云う訳。
そんな訳でわたしはハニーマスタード。
世界はこんな風だけど、まあ、元気を出して、参りましょう。ハンバーガーの話、以上。
わたしは浮かんで在る。流れて在る。道路を沿わず、線路を沿わず、往く。ぷかりぷこり、気ままに。只今中央駅を、通過。ご覧ください、あれが悪名高い、開かずの踏切。勿論、今日はお構いなし。ご注意ください、上空、わたしが通過します。ヨーソロー、ヨーソロー。面舵切れば小学校、取り舵切れば商店街。
色々な物が流れてくる。リボン、鏡、裁縫箱。フライパン、レコード、ペットボトル。色々に様々な。わたしはそれらを拾い上げて、幾つかを舳先に並べ、幾つかを水面に戻す。それは再び流れて行く、さようなら、わたしは手を振る、でも流されているのはわたしも同じで、拾い上げてくれる手は、まだ現れそうもない残念なことに。或いは幸福な、ことに。わからない、何も。思考が流れる。
図書館が見える。水底に立つ、沈黙の殿堂。
音がして風を、感じる。頬に感じる。髪に。
鳥が、群れている。鳥?いえ、蝶?群れて。
羽ばたいている。ふぉう。ふぉう。と鳴る。
わたしは近づく。撹拌された、空気の渦に。
引かれる。寄せられる。引き寄せ。られる。
わたしは図書館に羽ばたく群れに近づいて。
気圧されて閉じかけた目で、翳した指の合間を縫って、見て知る、見て知った、それは、
沢山の、本だった。沢山の無数の、飛んでいる。ふぉう、ふぉう。
□□□
静かな場所だ、と俺は思う。この世で一番静かな穏やかな。
此処は語る場所で無く、耳を傾ける場所だ。
少しだけ目を細めて、ひとびとは書架の木立をゆらゆらと彷徨う。
果樹園の様だと思う。たわわに実った果実、『お好きなものを、お好きなだけ。』そんな売り文句の果樹園。甘いもの、酸味の強いもの、苦味の在るもの、勿論、時には毒の実も。どうぞ、お好きなものを、お好きなだけ。
なあ、エデンの園ってのは、こんな感じかい?
だけどここには吝嗇家の神も、お節介な蛇もいない。だからどうぞ、どうぞ。
手に触れるそばから、ぷつりと捥いでは噛んでみるも好い。理想のひと果を求めて歩き続けるのも、また好いだろう。自分好みの、熟れた果実。探して歩けば、足取りはいつしか夢心地だ。
俺は一冊の本を掌に、しかし開くことなく、ゆっくりと、自分の足音を肺に収めるように、深く、丁寧に息を吸い吐きながら慎重に、静謐に、図書館を歩く。
俺はこの森が好きでこの森の空気が好きでこの森を歩くことが好きで俺の掌には一冊の本が在ってそれは過去に幾度も幾度も繙かれて今日はまだ開かれずしかしいつでも思い出せる。
僕はここにすわって一人の詩人を読んでいる。ホールには大勢の人々がいるが、ちっともそんな気配は感じられない。大勢の人間はみな書物の中にいるのだ。ときどき、書物のページの中で彼らは動く。眠っている人間が、二つの夢の間を寝返りするみたいだ。読書する人々の中にすわっているのは心が楽しい。なぜ人間はいつもこのようであってくれぬのだろう。
まったくその通りじゃないか?俺は今、俺の愛する本の事を考えて幸せな気分でいる。
幸せなんだ。だが。首筋がちくりとする。僅かな刺激。
羽虫が首に落ちた。そう思った。そんな僅かな刺激。探って触れた指先が、薄く濡れる。水滴。見上げる天井、雨漏り?まさか。気圧配置は鯨の尾型、好天続きの一週間。
だが重なる。視界に重なる。層、青い、透明な、水の層が、水色のセロファンが、重なって重なって、それは澄んで重なり、澄んだまま、然し僅かに確実に、読書灯の放つ光を歪めながら、視界を埋める。埋まって、けれど息苦しさを感じる間もなく、重なって埋まって沈んで。
世界はもう、あおく沈んだ。
浮力の不意打ちを受けた大型本が、書架から誘い出される。家庭の医学、住宅地図、色鮮やかな絵本たち。目眩み卒倒したままに、翻弄されて水宙を舞う。『家庭でできる簡単おやつレシピ20』からドーナツが次々と抜け出してくる。気の毒に、きっと自己を浮輪と誤認しているのだろう。『みずのいきものずかん』からはクジラが飛び出すシャコが逃げ出す辺りをぴちぴち泳ぎ回る。
よせよ、これでは水族館だ。
静かに整列して静かな読み手を待っていた文字。
水を浴びる。浸かる。洗われる。洗い流される。
文字は洗い流される。手放される。開放される。
檻の役目を解かれた白い頁。羽ばたく。飛び立つ。
単行本が泳ぐ新書が跳ぶ文庫がくるりと回転する。
白紙、その軽薄な身軽さ。羽ばたいて飛んでゆく。
文字たちも踊る。
放埓に踊り狂い、手当たり次第に衝突する。
無作為に偶発的に絡まり合う。紡ぎ始める。
新しい言葉を文章を新しい物語を。次々と。
俺はそれを読む。
パラフレーズされる物語、変容する世界線、ありとあらゆる物語が、可能性が、語られて語られ終わらない。そして俺はそれを読む、読み続ける。
俺は読む。俺は語ることを止める。
しかし、最初からそうだったのだ。
此処は語る場所で無く、耳を傾ける場所だ。俺の話、以上。
□□□
だから最後に、私が語ることになる。
正確に云えば、これは語りでは無い。
これは『俺』が語った様に、文字そして言葉のアットランダムな衝突と融合がもたらす、物理的な反応の結果に過ぎない。『わたし』が拾い上げ並べたリボンとフライパンの様に、この文字の並びにも意味は無く、しかし、
物語はある。
物語だけが、ある。此処に。其処に。何処にでも。
世界と水とが、意味も必然性も無く出逢うような。
ハニーとマスタードとの運命的な出逢いのような。
いつか何処かで空き壜と雨とが出逢い、そこに一輪の花が挿されて、あなたの窓辺に飾られるような。あなたの犬が、その香を嗅いで爽快なくしゃみをするような。あなたと大切な誰かが、それを柔らかく笑って眺めるような。
そんな素朴な、種の無い手品が、魔術が、
今もこの水底で、産まれ、消えて、私はきっと、語り終えない。
/了 (20201129~20201130)
引用註
新潮文庫「マルテの手記」(リルケ著 大山定一訳)より。
私の暗室に灯り続けている小説です。重拝。