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留学先で群れる日本人

 皆さんは自分のアイデンティティについて深く考えたことはありますか。私は幸運にも今年の春まで行っていた留学先で自分自身のアイデンティティについて深く考える機会を得ることができました。そしてその機会というものは留学先で出会った別のある日本人の男の子の一言が与えてくれたものです

 私は去年の九月から早稲田大学の交換留学プログラムでアメリカのニューヨーク州で勉強をしていました。私はその学校でただ一人の日本人として前期は勉強していましたが、後期から京都の大学からもう一人日本人の生徒がやってきました。その時私は日本語に飢えていて、みうらじゅんといとうせいこうのエッセイを繰り返し読んでいたのですけれど久しぶりに日本人と日本語で話せるとあって僕は嬉しくてたまらなかったのを覚えています。彼が到着して数日経ったであろう時に彼をキャンパスで見かけました私は走り寄って彼に話しかけました。しかし彼の口から出たのは「僕、日本人とは話さないんで」という一言でした。久しぶりに他人からそのように表立って拒否され、一瞬フリーズしてしまいましたが「ええ、そんなこと平気で言うんwwちょwwまじで」と変な笑いがこぼれ出てしまいました。その時期に私がよく話していたのは、いつもようわからんヴィジュアル系バンドの話をまくしたてるストーカー気味な女の子と私を毎日ゴーゴーカレーニューヨーク店に誘ってくる男の子のアメリカ人二人だったので久しぶりに人から冷たい扱いを拍子抜けしてしまいました。ただ彼から聞いた言葉にはびっくりはしつつもどこかで聞いたような言葉だなと言う気はしました。そしてそれは大学での留学前のオリエンテーションであったことを思い出しました。「留学先ではできるだけ日本人を避け、日本人だけで固まらないようにしましょう。」多分どこの大学、留学斡旋会社のオリエンテーションでも言われていることだと思います。言われたその時はヘラヘラ笑ってなんとかごまかしていましたが彼が無言で立ち去った後に一人で教室に座って考えていると段々と腹が立ってきました。もし20年間一緒に過ごしてきた友達に「君とはもう話さないって決めたんだ」と言われたらそれは人生の一大事であり拝聴するに値します。自分という人間に何か根源的な問題を秘めており、長年の友人を失うほどの人間としての落ち度がある可能性があるからです。しかしさっき「話さない」と言ってきた彼とはワンセンテンスしか言葉を交わしていません。今回ばかりは私に問題があると言うよりも、私の国籍が一番の問題であるのは確かです。ただ考えているうちにこれはある種の人種差別なのではないかと思いました。もしアメリカ人か中国人が「日本人とは話さない」と言ってきたらその場はピリつき一触即発状態になりうる可能性は十分にあります。ただ日本人が他の日本人に日本国籍を有していることを理由にして拒絶することは問題にならないどころか留学関連の場においては奨励されてさえいます。

 そしてまたこれは日本人特有の問題でもあり学生だけでなく社会人のコミニティでも起こっていることだと感じました。ある時には中国人のグループの子達になぜ日本人は他の日本人と一緒にいないのかと聞かれ、韓国人の美容師さんにも同じことを聞かれました。大人は大人で長くニューヨークに住んでいるオノヨーコ崩れの自称アーティストの日本人たちが新しくやってきた駐在員を聞こえるようにバカにしています。

 彼はその後なんだかんだ私に英語のレポートの添削を頼ってきて少しづつ会話をするようになり、なぜ彼が先のような発言をしたのかも段々と見えるようになってきました。彼の発言には日本が嫌いだと言う気持ちの吐露という側面とアメリカ人に取り入るため、そして英語に集中したいというプラクティカルな側面の3つの理由がどうやらあるようでした。「日本が嫌だからアメリカに来た」このことを留学に来た理由にあげる人は彼以外にもそれなりの人数がいると思います。日本が大好きで岡崎京子の漫画を留学先で読んでいるような私の方がもしかしたら間違っているのかもしれません。ただ彼に限って言えば、自分の力不足や不甲斐なさを受け止められずにその不満を日本という自分がいた環境に向けているだけにも聞こえてきました。「受験が上手くいかなかった」、「日本ではモテなかった」と彼はよくこぼしていて、それは不公平な日本の社会がおかしいと言っていました。しかしどうも彼がそれなりの対価を得るためにそれ相応の努力をしていたかというと疑問が残りました。皆さんも生きていく中で何かを得るにはそれ相応の努力をしてまた犠牲も払って来たと思います。そして人よりも労力を使えばそれ相応の対価が帰ってくるという点で日本はそれなりに平等な社会だと思っていました。確かに人と人との関わりで出来上がっている社会においては足を引っ張ってくる人もいるかもしれません。「このバイトを辞めたら他でもお前はやっていけない」、「みんながこのようにしているのだからそれに従え」。確かにこのような言葉を私も聞いたことがあります。しかし日本国憲法は私たちに幸福追求権を保証しています。あなたたち個人個人にはそれぞれの幸福の形があるのだからそれを追い求めていいんだと日本国憲法は言っています。自由に生きづらい空気があるのは確かに正しいかもしれません。しかし日本国は私たちが自由に生きることに規制をかけてはいません。自由には痛みが伴う中で、どう生きていくかは完全に私たちに委ねられています。ただどうやら彼は比較的容易に自分の問題を社会の問題に転化させる傾向があったように思えます。日本は自由主義の国ではないと他のアメリカ人に言いふらせていました。真剣に日本という国と向き合ってきて、良いところと悪いところのどちらも受け入れようと決めた私からするとそのような間違った情報を外国で発信することには違和感を覚えました。どの国にもそれぞれの良さと問題点があるものです。新渡戸稲造がかつて言っていたように「西欧の最良の側面と日本の最悪な側面」を比べることは何も生み出さないのではないかと思いました。

 また二つ目のアメリカ人に取り入るためというものについてです。これは簡単には日本人の悪口を言うことで自分を日本人というくくりの外側に置くというものです。確かにもともと日本またはアメリカ以外の外国に良いイメージを持っていないアメリカ人に対しては幾らかの効果を発揮するかもしれません。よもすると今回のことはあなたが気にしなければ良いだけのことではないかと思われる可能性もありますが、このことは日本人そして日本の性を背負っている人全体のアイデンティティに関わる問題だと感じています。日本の性を背負っている人と先ほど記しましたが私はアメリカでたくさんの日系人の学生と友達になりました。そしてほとんどの子が日本に対して郷愁の念を感じていました。アメリカで日系人として生きていれば少数派として辛いことを経験することは必ずあります。ただそんな時に彼らはもう一つの自分の居場所として日本に思いを馳せることによって今現在の辛いことをなんとか乗り越えていました。彼らの多くは日本の地に足を踏み入れてはいません。しかし心の片隅には先の世代から大事にしてきた日本人の精神が宿っています。そしてまた日本本土から来たとすれば暖かく迎えてくれ、無条件に信頼をしてくれます。そんな子たちにいきなり「安倍死ね」や「日本はアメリカに吸収された方がよかった」などの思慮に欠ける言葉をぶつけるのはあまりに思いやりに欠けているように感じました。また、ただでさえ日本や外国に良いイメージを持っていない人がアメリカ社会には多くいます。そのため日本人だけでなく世界中から集まった移民たちが自分たちの文化を紹介するイベントを開催しています。日本でしたら桜祭りなど固有の美しさを示すものです。アメリカでの多文化主義を維持してまた自分たちの地位を確保するためには「自分たちにはこんなに素晴らしい文化を持っていますよ」と示し続ける必要があります。それは自分たちのためでもあり、アメリカの大事にする多様性へのリスペクトでもあります。そのような中、日本から一年だけやって来た留学生が国全体のネガティブキャンペーンをするのは無責任だと思いました。私たち交換留学生は一年で帰るけれど彼ら日系人はそのコミニティでこれからもマイノリティとして生き続けなければなりません。彼らの生活に責任を持つ覚悟がないのであれば、口を慎むべきだと私は思います。もし聞かれたのならばもちろん良いところも悪いところも答えることは重要であると考えます。ただやはり外国で生きるマイノリティとしてはできるだけ良いことを言うことで自分の身を守れるとは思います。高村光太郎記念館でもいきなり「こいつは戦争に協力した悪いやつだ」などとは書かれていません。たくさんの詩を作ったことを紹介されて最後に戦争との関係を明示されているでしょう。

 また何よりもこれは他の人だけではなくてその発言をした彼自身をいつかは苦しめることだと思います。最初は日本を揶揄したりすることを面白がってくれる人はいると思います。日本でも中国の悪口言う人が面白がられるように。自分が白人の仲間に入れてもらったような気がして気持ちがいいかもしれません。ただ本当の意味でそのような人が尊敬されることってあるのかなと私は疑問に思います。例えば一回北海道出身の人がアイヌのことを「土人」だとか、ハーフの友達が自分のことを「あいのこ」だとか面白おかしく私に言ってきましたが結局のところ「そういうこと言うのやめたら?」としか思えませんでした。やはり人生のどこかの段階で自分自身のアイデンティティを受け入れる必要があるのかなって思いました。50歳を過ぎて「私イギリス人になりたい!日本人とは結婚できない!」ということをロンドンで言い続けている女性に会ったことがありますが正直にいってこうなりたいなと思わせてくれる大人ではありませんでした。

 さらに自分のアイデンティティについて深く考えさせられたのはロサンゼルスの日系博物館においてです。そこには鉄条門向こうで笑っている子供の写真や自分が働いて築き上げた家から追い出されて家族で強制収容所に向かう日本人の一家の写真そして警察に連れて行かれてついに戦後になっても帰ってこなかった男の人の写真があります。けれどそんな時代ではあっても説明書きには日本語で「本土、北海道そして沖縄、どこの出身であろうと日本人は自分たちの地位を守るために皆が手を取り合っていた。」と書いています。それを読んだ時に私は、ニューヨークの路上で日本から来た駐在員に向かって「日本人で固まって歩くのはみっともない」と怒鳴っていた現地在住の日本人女性を思い出して悲しくなりました。異国の地でマイノリティが固まるのは果たして本当にみっともないことなのかなと思います。外国人として生きていくにはその土地の他の同郷の仲間と手を取り合うことは必要なことであると思います。そしてそれは非難されるべきでもなく、また恥じることでもないと考えます。

 社会を批判的に観察することは人間の進歩においてとても重要なことだと思います。ただそれが自分を社会の外側においてそのシステムを全否定するようではダメだと思います。社会の外側に自分を置いて、成田山で警察の機動隊をボコボコにしたり沖縄で火炎瓶を投げたり、また静岡の山奥でサリンを作っても世界は結局よくなりませんでした。大切なのは社会の内側に自分を置いて何が必要なのかを考えることだと思います。

 日本が嫌でアメリカに行ったのならいつかはアメリカの負の部分を背負わなければならない時がきます。ずっとサービスの受け手ではいられません。コミュニティに帰属するということは内側からそのコミュニティに関わる必要があります。その時に自分がどのコミュニティにであれ何をしてあげられるかが重要であると思います。自分自信のアイデンティティを受け入れるということ。それがいつかは自分を愛することに繋がると私は信じています。

「ディズニーの方がジブリよりもすごい!日本は全然ダメだ!」と言っていた京都出身の彼が「ディズニーとジブリのどちらも素晴らしい作品を作っていますね」と言えた時、彼は日本でももっと生きやすくなるのではないかと同じく不完全な僕は東京で思い耽っています。


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