19世紀に学問は専門分科した

エドワード・S・リード,2020(原著:1997)『魂から心へ 心理学の誕生』,村上純一・染谷昌義・鈴木貴之訳,東京:講談社

魂から心へ

学問の専門分科は、いつ、どのようにして、起こったか?

本著では、神学を中心とする学問から、心理学や哲学が分科していく過程を、19世紀の中に見ている。実際に、19世紀の始まりと終わりとで、学問はすっかり様変わりしていた。19世紀の前半、人の心理を探求したのは作家や医者や牧師たちであり、表現としては詩や文学であった。それが世紀末になると、実験心理学が成立し、心理学は大学の職業専門家の担当領域となり、表現としては実証的な論文になった。1世紀の間に、これだけ大きな変化があったのだ!

この変化の過程で大きな転機の一つとなったのは、1848年である。ご存知のように、諸国民の春と呼ばれるこの年には、フランスやドイツをはじめ、民主主義的な革命が立て続いて発生し、ウィーン体制を崩壊させたが、すぐに革命は鎮圧された。こうした革命の顛末を見る限り、民主主義的な人民主義の蜂起は失敗に終わったといえる。ただし、1848年の経験は、政治的にも文化的にも大きな変化をもたらした。革命後の秩序を形成するために、古い支配階級と新しい中産階級は連帯を強めたのだ。この連帯の下で、経済においては鉄道に代表される資本主義の発展、文化においては支配階級の世界観と中産階級のそれとのハイブリッド化が進んだ。

「一連の革命は、その目標を一つとして達成することはできなかった。しかし、これらの大衆運動は、どれ一つとして無視できない。なぜなら、革命はどこにおいても挫折したが、政治や社会の改革は多くの場所で実現したからである」(p181−182)

「新たな中産階級は、かつての人々のように伝統的な宗教の正統的教義にとらわれることなく、イデオロギーを発展させた」(p 182)

それでは、中産階級が発展させたイデオロギーは、反宗教的なものだったのだろうか? 否である。新しいイデオロギーは、神学的世界観を破壊しようとしたものではない。古い支配階級と新中産階級の同盟は、自由主義化が進む世界の中で、行き過ぎた変革を食い止め、秩序をもたらすための同盟である。文化的に言うならば、科学が発展していく中で、かろうじて宗教的な領域を守ろうとする試みである。そしてそのような役割をになったのが、心理学であった。

「19世紀の前半を通しての心理学は、・・・基本的な科学と見なされていた。なぜなら・・・ますます科学化されていく近代世界の中で宗教を維持するために、心理学は最も相応しい科学であるとみなされていたからである」(p 25)

「19世紀中頃における魂の心理学の支持者は、後にジェームズやフロイトのような人々によって提出された異端説とでなく、正統的なプロテスタンティズムと手を結ぶ傾向にあった」(p 196)

以上のように、神学の権威が1848年になって突如として失墜したわけではない。19世紀初頭はもとより、1848年を迎えてもまだ、無神論・唯物論を主張したと世間から見做されることは社会的地位を失うと同義であったことは確かである。しかし、1848年からの30年ほどの期間をかけて、心理学は神学との関係性を維持したままで、その守備範囲を限定した実験心理学として自立する。このような変化は、如何にしてなされたのか?

実験心理学の誕生

著者によれば、ヴントらの実験心理学は、連合主義と自然形而上学という二つの先行する理論を発展させたものである。連合主義からは内観という方法論により心の自立的活動を叙述する方法を取り入れ、自然形而上学からは実験法と測定法を取り入れた。ここに自然形而上学とは、ショーペンハウアー、ミュラー、ロッツェに代表される思想潮流で、魂を伝統的形而上学とは異なったやり方、より自然化されたアプローチで解明しようとする思想であった。

以上の主張には現在の私たちの常識からすると意外という他ない指摘が二点含まれる。一つは、実験心理学はいわば哲学や生理学、従来型心理学の再生として発展したものであること。(むしろ現代の哲学は、心理学から派生したことも語られる)もう一つは、実験心理学の特徴とされる実験法や測定法は先行する自然形而上学から借用されたものであったこと。

実験心理学の社会的背景

実験心理学が1879年に誕生するに至る学問に内在的な理由としては以上であるが、外在的な理由としては、二つの大きな社会的な変化をあげる事ができる。一つは、大学制度の発展である。実験と講義を仕事と考える専門家が大学の中で居場所を与えられることになった。もう一つは、知的潮流の変化である。学者の理論的関心が限定され、魂の問題が論じられなくなっていった。つまり、広く実証主義が浸透していったということである。

ただし、ここで実証主義については注意が必要である。現在の視点から見ると実証主義は唯物論の代表と捉えがちであるが、当時の実証主義は、反唯物論であった。物質を徹底的に研究するからといって、神を否定するわけではなく、実証主義からは神や魂の存在が証明できないことを意味するだけだというのが実証主義者の主張であった。実験心理学も当初の関心であった魂の問題を論じることはなくなり、実験に特化することで時代にあった学問として成功する事ができた。

新心理学の限界

本書においては、カントに代表される伝統的形而上学が魂や知覚そのものについて語る事を不可能としたことへの抵抗として19世紀に様々な思想潮流が生まれたが、思想間そして社会的な葛藤の結果、皮肉なことに、魂については語らないカント的な新心理学に落ち着く過程が語られていた。

しかしながら、このような決着は、新心理学のそもそもの関心であった魂や知覚について語ろうとする衝動には回答を与えてくれない。こうした衝動に答えようとする中で、20世紀の新しい思想が誕生してくることにもなるのであろう。本書は、20世紀を準備する世紀としての19世期を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれる。



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