臨床知ってなんだろう。
僕は生物学的な運動学の動感というものに凄く興味があります。
オンライン的に過ぎていく今ここにある私、動いている私。
でも、それが例え1秒前の出来事であったとしても記憶として振り返ることはできても全く同じ物を得ることは不可能な何か。
オンライン的に形態を持った何か。
そこから派生して今は異常感覚に興味がある。
これを何か有益な情報として言語化したいと思う。
今回、神経学会で議題にあがった臨床知というのは個人的には臨床的に生じるセラピストの身体知というものに、言語的な知識が加わったものなのかなと思う。
つまり、それを発展させようと思った際はシンプルで、仮説→検証→反省→新たな仮説ということになるのではないかと思う。
臨床では、過去の功績によって積み上げられたある程度改善可能性の高い方法となんだこれはという現象が混在している状態となる。後者に対してはどうしても個人としての仮説として対応せざるを得ない場面が多くなる。しかし、分からないもののままとするのではなく、可能ならば記録し、比較可能な対象として残せることが望ましいのだと思う。
そこで大切になるのがN of 1のデザインを以下に比較できるようにするかなのかなと思った。
結果的に、比較検証がなされていない物を方法論として提供することはもしかしたら対象者にデメリットを与えてしまう可能性がある。
伝達は良くも悪くもプレゼンスキルで印象が操作できてしまう。
でも現実にそれらをしようと思った時に本当に綺麗に比較可能なものに出来るのか、という問題が生じる。ここは個人的には綺麗に比較できなくても良いのではないかとも思う。そこは個人的には昔学んだドイツ的な手法が好きで、とりあえず残せば良いと思う。何かを残せば議論は出来る。質はさておき。第一歩が踏み出せる。特に難事な問題においてはそれが大切だと思う。
哲学的なものというのはかなり対象にすることが難しい。昔シンプルにしないと使えないよと尊敬する先生からお言葉を頂き、そのために統計解析手法を少しずつ学んだ。今は少しずつだけど問題を定量的に解析するアイデアが浮かぶようになった。
最近は色んなことが繋がって楽しくなってきた。難しいことが多いので大概は壁にぶち当たることばかりですが。笑
スティーブ・ジョブズが言ってた"contenting the dots"という言葉が最近はとても好きです。
世の中色んな人がいて、それぞれがそれぞれの手法や考えで対象者を良くしたいと思っている。やり方は異なっても良くしたいという大きな目標は同じなのだと思う。それに様々な学派で発展したことというのは臨床の様々な要素に対応するために生じた領域なのだと思う。目標が同じなら最終的にはお互いがアウフヘーベン出来たら良いのになと思う。