Concept memo “Free Improvisation”

 私のピアノの即興演奏は、ある作曲家のレッスンによってある課題を出されていた。それは、固定化することである。

 クラシックや現代音楽。例えばJohn Cage 4:33であっても、楽譜=Scoreというものに固定化されている。また、打ち込みは電子計算機上のmidiソフトやその他DTMソフトに対して再現を指示しており、同じように再現できるように固定化されている。また、録音は電子計算機等に対して記録され固定化されているものである。

 と、いうように、今日音楽において”固定化”されたものはますます重要になっている。特に作曲という制作行為においてはそれは顕著というよりも必須である。

 音というのは波長による力学的エネルギーであり固定化されなければ、減衰して消えてしまう。即興演奏というのも、固定化されなければ、消えてしまうものである。

 ”即座に興ずる”ものをどのように制作とするか。作品とする。については、一つの重要視された方法として記録するという固定化が必要である。

 それと同時に指摘されていたのは、「固定化されることから逃げている」。ということだった。固定化することが必須な作曲において固定化することを嫌がるというのは、”反作曲的”な行為である。

 レッスンは作曲以外の事が教えられ、一つは「ピアノの即興演奏をどのように意図して弾くか」ということであった。また、「ダダイズム」や「コンセプチュアル・アート」、芸術家としてのOno Yokoなどについての解釈についても学んだ。

 マルセル・デュシャンという芸術家は『泉』という作品で既製品の男子便器に”R.Mutt”というサインを書いただけの作品を発表した。レディ・メイドの一作品である。レディ・メイドの明確な定義について所論あるが、既製品を用い既存の制作を放棄し、コンセプト(Concept)を制作することによって制作される。既成の破壊という反芸術的な芸術行為であった。という定義が可能であろう。

 John Cageの4:33については”無音の音楽”であるが、マルセル・デュシャンなどのコンセプチュアル・アートにも影響をうけたとされ。楽譜(Score)にあるのは休みと三楽章、時間の指定のみであり、コンセプト(Concept)を制作することによって(既成的)演奏を放棄している。ともいえる。また、その他の楽譜(Score)よりも、演奏者を固定化しているともいえる。

 音楽家であり、芸術家でもあるOno Yokoは元夫作曲家 一柳慧 の影響でJohn Cageの影響を受けている。Ono Yokoの芸術家としての活動を通してダダイズムなどの現代芸術、現代音楽の影響を受けている。

 現代芸術や現代音楽についてレッスンで触れ、先生からある一言が発せられた。”現代を直視すれば現代アートになる”ということである。また、それについて関連すると思われるTweetが三上寛が行っており、 “都会の『アート』は、田舎の『自然』。 “*1ということである。

 これらを私なり解釈すると、”現代は歪んでいるので、自然と歪んだものが表現される”と解釈している。クラシック的近代的な表現を好み、現代芸術、現代音楽を嫌うというのは、自然なことであり、わざわざ”歪み”を見る必要はない。ということが大衆心理であり、現代芸術、現代音楽の商業的な失敗の一つであると思う。

 私は意識的に、固定化と反固定化を意識して、さまざまな即興活動、例えば、ピアノ、トランペット、ギターなどの音楽から、ダンス、即興詩、散発的なメモ(memo)、散文、Reblog、つぶやき、絵などを表現してきた。それらに対する評価はどのようになるだろうか。即興活動中ばなのでわからない。

 固定化を拒むことから始まった私の即興活動は、現代の歪みを伴っており、ある意味反芸術的、ダダイズム的である。現代芸術、現代音楽を嫌うように嫌われるであろう。私が外部から固定化されなくなり、嫌われるのであれば、”制作としての即興活動”としては、成功したといえるだろうし、反面失敗したともいえる。

*1:https://twitter.com/nagarerukumowas/status/745401820877455361

2017-2-6 Keiichro Kato

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