五月雨、噎び泣く【2】
あれから約十二年。
靖秋は此の屋敷へ来てから、一度も外へ出たことがない。最後に屋敷の外に出たのは、母の葬儀の日だった。
母・花江は七歳の時に靖秋を残し、突然他界した。
原因は過労だと聞いているが、母の身体にいくつもの痣や縛られたような痕が残っていたことを靖秋は知っていた。そしてその疵をつけた相手が埜耶の母・綾香である事も幼いながらに理解していた。
しかし、知っていたからとて、靖秋に何が出来ただろう。
藤志朗からの寵愛を受けながらも、屋敷の中では白い目で見られ続けていた母子はただただその暮らしに耐えるしかなかった。
特に靖秋をまるで汚いものを見るような目で睨みつける綾香に対しては、常に逆鱗に触れぬよう従順になる他、靖秋に生きる術はなかった。
藤志朗と綾香と埜耶と靖秋。
ただ一人の男の自己満足ゆえに出来上がった仮想の家族は、花江にはただただ地獄だったかもしれない。
息を引き取った花江の死顔を静かに見つめながら、靖秋は泣くこともできなかった。母の顔は靖秋が想像していたよりも遥かに綺麗で、本当に眠っているようだったからだ。
葬式には当然のように綾香の姿はなく、藤志朗と埜耶と使用人の長である村松の四人ぽっちの葬儀だった。
藤志朗はただ呆然と母の亡骸を見つめ、全身がひたひたに濡れ雫が落ちていた。その流れた雫が母の身体に落ち、しかしそれは染み行くこともなくただ無感動に棺の中で消えていった。
雨が降っていた。しばらく日照りが続き、ようやくと願った人々の祈りが通じた雨がざあざあと降っていた。
藤志朗は母を愛していたのだろうか。
ならばなぜ母はこんなに早く死ななければいけなかったのだろう。
子どもながらに疑問に思ったけれど、そんなものは口にする気にもなれなかった。
愛なんて言葉にまだ靖秋自身も手が届く年齢でもなければ環境が程遠いものだったからだ。
母もこの男を愛していたのだろうか。するとなぜ自分は生まれてきたのだろうか。
七歳の靖秋は母の亡骸の前で沢山の疑問を生み、そしてそれが靖秋のこれからの成長に大きな闇を落としていく。
母が生きている時は、あまり一緒に時は過ごせなかったけれど母を一目でも見るだけで靖秋はあの偽物の家族の中でまだ気丈に振る舞っていられた。
しかしこれからはどうだろう。
心の軸を失ってしまったような想いが靖秋の身体から樹液のように溢れだしては、冷たい雨の中へ静かに静かに溶けていった。