労働者の上映会『ROMA/ローマ』


3月の自粛ムードをきっかけに、Netflixを契約した。この「労働者の上映会」では、そこで観た映像作品について触れてみたいと思う。既に2本noteを書いたが、テキストの完成度を無意識に追ってしまい、硬い文章になってしまうので、そのあたり気を付けて行きたい。

紹介するのは、「ROMA/ローマ」という映画。「ローマは1日にしてならず」という言葉があるが、国体が疫病によって脅かされている今、強い国とはなんぞや。と曲がりなりに考えている時にそのストレートなタイトルが目に着いたので見てみることにした。



結果、ローマ自体はあんまり関係なく、70年代、政治的動乱の中のメキシコにおける家族と家政婦を描いた映画であった。

70年代のメキシコの状況をここで深追いするのは避けるが、

経済発展による格差の拡大や、隣国アメリカに比べ自由の制約されたメキシコに不満を持つ者がこの時期に学生や知識層から出現する。1968年のメキシコシティオリンピック直前には、反政府デモ隊を軍隊によって弾圧し300人もの死者を出したトラテロルコ事件や、1971年6月10日の「血の木曜日事件」など、体制による強権的な反対運動の弾圧が進むにつれ、徐々にPRI体制下での近代化の歪みが露わになっていった。

1970年に成立したルイス・エチェベリア政権は政治への不満を和らげるため、政治犯の釈放を行った。対外的には資源ナショナリズム前面に出した積極的な第三世界外交を行い、従来よりも更にアメリカ合衆国や西側世界とは一線を画した外交路線を採ったが、政権末期には対外債務が276億ドルにまで膨張した。
ーWikipediaより


であったようだ。映画内でもそうした政治的状況を少し垣間見ることができる。

はじめから終わりまで、モノクロの、退屈にまで思える程ゆったりとした映像が遠巻きに家族の風景を漂う。

冒頭から、中産階級の豊かな家族の暮らしと、貧困層の象徴としてか、原住民をルーツに持つ家政婦の労働が対照的に描かれている。

しかし、豊かさはその中で、そのまま家族の幸せを意味しない。

言葉にはしないまでも、雇用主と労働者、家族と家政婦、の見えない信頼関係が時間を経るごとに心地よく伝わってくる。
監督の子供時代を題材に、当時の建物や家具など、細部までこだわって撮ったとされるこの映画は、観るものに不思議なリアリティと居心地のよさを与える。



単なる雇用関係を越えて、お互いがかけがえのない良き理解者に映じていく。しかし、ややもするとそれは、身勝手な金持ちの美化された昔話になりかねない。(普通はここから、「この映画はそうではない。」という、擁護的な評論が始まるのが常だが、私はそうは思わない。)

ここに、モノクロの静かな映像美と(素人を含めた厳正なオーディションから選ばれた)家政婦の、言葉足らずで素朴な演技、映画的な価値観に隠蔽された格差社会の矛盾を私は捉えてしまう。当時の(きっと)薄給の割に犬の糞まで掃除させられ、時に八つ当たりされ、挙句それを映画のネタにもされ、家政婦はここで二度搾取されている。クソみたいな世の中だなあと、私みたいな労働者は見てしまう。

かけがえのない二人の子供の命まで救っておいて、大した給料もなく、勝手に美談に仕立て上げられた無名の庶民である家政婦にこそ私は最大の賛辞を贈りたい。

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