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生かされるということ ー容疑者Xの献身ー

死にたいと、死んでしまいたいと思ったことがあった。
何なら、包丁を片手に6畳間をうろついたり、スーパーのビニール袋を頭から被ったこともある。意識がなくなる前に止めてしまったけれど。
風呂のお湯に限界まで身体を沈めるのと同じかもしれない。
それでも私はロープを手に掛けるほど追い詰められていなかったと思う。

『石神』は数学の天才だけれど、この世界のありふれた一員だ。
数学が好きだけれど、親の介護をしなければならなかった。
いわゆる、進学を諦めたヤングケアラーだ。
親の介護は選ばざるを得なかったかもしれないが、選ばない人だっているだろう。無視して自分の人生を優先する人も。
それでも、自分を優先しなかったのは、経済的な理由だけではないと思う。
確かに親を愛していたのだと思う。
そして、献身を捧げた親は他界し、自分の生きる理由が分からなくなったのかもしれない。

人は自分の中の小さな隙間に欲望や希望を詰められても、大きな穴に詰め込むのは至難の業なんだろう。
昼は何を食べたい。今夜は定時で帰りたい。明日は何を着たい。来週は何の映画を観たい。
日々の中の色どりであれば、幾らでも欲求は生まれる。
でも、将来の夢は?一生続けたい好きなものは?誰にも譲れない大切な事は?
大きな穴は簡単に埋められないように思う。
途端に空へ放り投げられたように、地に足がついていない浮遊感に襲われる。
大きな穴が埋まっていないと生きてはいけないような気がするけれど、かつて持っていたかもしれない希望を取り戻すことも、再び手に入れることもままならない。
大きな穴を埋められないまま生きている人は、私が思うよりも多いのかもしれない。

ただ、暴論だと自覚があるけれど、結局人は『生きていたい』か『生きていたくない』かの二択を彷徨って、一瞬一瞬、どちらかを選んでいるように思う。
大きな穴なんか埋まらなくても、小さな何かが隙間に入り込むだけで、『生きていたい』と思い続けられるのかもしれない。
きっと、『そう』思い続けるには、ほんの些細な誰かの優しさで十分なんだろう。
誰かと交わす会話、メッセ、相手の表情、仕草。
何気ない些細な優しさで、どうにか今日を生きている人は案外多いのかもしれない。
もしかすると、『石神』はいつも誰かに『生かされて』生きてきたのではないだろうか。
私だっていつも誰かに『生かされて』生きてきたのかもしれない。
かつての『湯川』や介護していた『親』、そして『花岡』のような存在は、私の周りにも必ずいたし、今もいるはずだ。

この『生かす何か』を『≒(ニアリーイコール)愛』とするなら、案外、『愛』もしくは『愛のようなもの』は、自分でも驚くほど身近に、当たり前のようにあるのかもしれない。
カメラのファインダーを覗くように、ゆっくりとピントを合わせれば、自分の周りにも沢山溢れていることを気づけるような気がする。






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