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羊飼いと継いでいく風景

「継」ぐには「糸」が入っている。
安直にも私は考えた。羊といえば毛糸、「糸」が入っている。
「継」は羊飼いを表すにふさわしい漢字だ!と。
しかし著者のジェイムズ・リーバンクスさんは語る。羊毛は儲からない、と。
今は安価な人工繊維が流通し羊毛は安すぎて、毛を刈るのはあくまでも羊たちの健康維持が主目的で捨てるのも何だから売る程度にすぎないらしい。
私の羊飼いのイメージは「毛刈り」だったので毛が主産業ではないことに衝撃を受けた。
メェメェと鳴くもこもことした丸い羊たちがバリカンを手にした熟練の腕ひとつでクルクルと瞬く間に毛をむかれ、つるんとした新生物のごとき羊が現れる…。
テレビを通してしか見たことはないが、牧歌的とはまさにこのこと、と温かい気持ちになった。

「羊飼いの暮らし」は外野がほのぼのとした気持ちに勝手になることをやんわりと断わってくるような本だ。
著者が暮らすイギリス湖水地方の美しい四季を通して羊飼いの暮らしを教えてくれる。しかし、観光客など外部から来たものたちが考えているような上澄みの美しさだけでこの場所が成り立っているのでは決してないと常に訴えかけている。この土地は名もなき羊飼いたちが積み重ねてきた暮らしで出来ているのだと。

私は以前、日本で昔の街並みが未だに残る土地を旅行した。写真を撮ることが好きなので歩きながら街を撮影していた。
すると通りすがった地元の方らしき男性に「こんなの撮って何が楽しいのかね」と嫌悪と不可思議さが入り混じった言葉を投げかけられたことがあった。
そのときの私は「やっぱり住んでいる人にはここの街並みの貴重さ、素晴らしさは見えていないんだ!」と、お宝の価値を知らないとは勿体ないと訳のわからない鑑定人目線で、男性の意見をとらえた。

リーバンクスさんのおじいさんは湖水地方にやってくる観光客を不可解な存在として見ていた。自分たちの庭にズカズカとやってきて写真をパシャパシャ撮って去っていく。おじいさんたちにとって湖水地方は生活の場であり、羊や家族とともに生き抜く場所であり、決してただただ美しく牧歌的な風景を提供してくれる世界ではないのだ。

確かに庭先に突然現れて「スバラシイー」などと呟きながら写真を撮っていたら不気味だ。
当時の鑑定人気取りの私を恥じた。


「羊飼いの暮らし」を読んでいて通底に流れているものは‘世代’だと感じた。
リーバンクスさんのおじいさん、お父さんとのやり取りはもちろんだが、羊たちにもより強い血筋を残していくにはどうしたらいいのか、この羊と交配させると何世代にもわたって影響が出るのではないかと考えを巡らせる。
今の世代をないがしろにするわけではなく、継いでいく大きな流れの一部として自分たちをとらえる。
私は子供を持ってようやく次世代のこと、あくまでも自分は継いでいく流れの一部なのだと意識するようになったが、リーバンクスさんは小さな頃から既に理解しているように思えた。

細い細い糸が幾重にも重なり丈夫な布になる様はやはり羊飼いにピッタリかもしれない。

そして羊飼いに限らず、イギリスの湖水地方でも日本の東京でもどこでも変わらない、父親がテレビをつけっぱなしで寝て、消そうとすると「見ているんだよ」と文句を言う。
「継」はきっとそんな家族の風景にも相応しい。

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