世界
タイトルがかなり壮大ですがそこまで大きな規模の話ではないです。
前日とある場所に制作した人形を持って行きました。
球体関節人形という物に対して、見てくださった皆さまが色々なリアクションを下さいました。
そこで思ったこと。
球体関節人形の世界って閉じすぎているのではないか?
自分の感覚で書いているので全く知らない場所ではすごくメジャーなのかもしれませんが、あまりにも狭き扉から入る世界だなぁと思うことが多々あります。
以前、ギャラリーのオーナーさんと話していた時に球体関節人形が美術館に常設で飾られる未来は来るのかというお話をしました。
オーナーさん曰く、おそらく巨匠の◯◯さん(お名前は伏せます)くらいがかろうじて可能性がある……のであり、他の方はほぼほぼ難しいだろう……という結論だったことを覚えております。
でも、可能性は広めたいですよねと笑い合いました。
当時、そうなのかぁ。そういうものかぁ。といった本当にぼんやりとした思いでした。
今はよくわかります。
おそらく、無理なのです。
世界が閉じすぎているから。
キャストドールも含めて「球体関節人形」というものがサブカルチャーであり、そしてオタク気質のものでありすぎるのです。
好きなものを自分の懐にしまっておいて、人に見せずに大事にするタイプの方が比較的に多いのです。
ルーツなど考えると、狭き世界でわかる者のみがわかればいい、みたいな考えになるのはすごく察することができます。
ですが、たまに人形をオーバーグラウンドに持ち込んだ時の皆様の反応と、現在の人形文化をもっと広めたいと活動されている方の「日本人の作品はパクリばかりでつまらない」発言を聞くと、(この文化はもうずっとこのままなんだろうか)ということを思うのです。
ローゼンメイデンやイノセンス時代に大きな球体関節人形ブームが来たということも伺いましたが、それもやはりアニメカルチャー。
今でさえアニメはメジャーですが10年以上前ではまだまだサブカルチャーでした。
自分が人形を作り始めたきっかけもあまりいい思い出ではなかったのですが、そんななかでも長年続けてみて、作ることはもちらん、想いを改めていくこと、出会いが楽しくなっていった過程があります。
単に感謝でございます。
しかしやはり人形世界に渦巻いている横のつながりみたいなものがついて周り、得意ではありません。
どこにいっても突き当たる壁があります。
作品について、人間性と作品は分けて考えるべきみたいな話もかなり考えてきていますが、私は人間性も大事だと思っているので、なんとも言えなくなる時も多いです。
自分がこのまま作り続けて、そこに伸び代みたいなものはあるのだろうか?
フェチズムや哲学の化身のような人形とは、果たしてどこにいくのだろうか?
文化が変わるところに居られるのだろうか?
人形というものは、皆の心のどこに在るんだろうか?
言語化できない気持ちを球体関節人形に入れ込んでいくことが、問題の着地点として自分は納得しているんだろうか?
球体関節人形を通して、とても虚しくなる時があるんです。
長々と書きましたが、これら全て含めての、そしてそれを遥かに上回る守りの神秘性、それが球体関節人形のあの不思議な魅力と空気なのかもしれません。