"こんなことしてる場合じゃない"と思いながら生きて多分俺は死ぬだろう~極私的反差別論~
こんなことしてる場合じゃない。
マジで。折角声を掛けてもらった同人誌に寄稿予定の小説はコロナの威を借りた怠惰によって脱稿の気配を見せず、公募に送らねばならない小説もうんうん唸っている内に〆切が過ぎ、かと思いきやまた次の〆切が迫り、その間も生活は続き、したがって、生活を続ける為の労働もまた続くのだ。
あ、でもラップは一曲配信できた。
十年以上やってて、ようやく一曲。っていうのやばいけど、仕方ないこれが俺のマイペース。良ければ聴いてみてください。巨大な猫に頭蓋骨を噛み砕かれたい。
https://magazine.tunecore.co.jp/newrelease/70334/amp/?__twitter_impression=true
それで、
こんなことしてる場合じゃない!!
のだがそれは結局"常にそう"なのだ。何をしている時も、常にその脳裏には可能性としての"こんなことをしていない自分"が過る。ではこんなことをしていない自分は、一体何をしているのか?
こんなことをしていない自分は地球に迫る巨大隕石を破壊する為にロケットに乗り込み今まさに大気圏を脱したところかも知れない。あるいは都市を蹂躙した怪獣を海に返す為に祈りを捧げているかも知れない。
けれど現実にはそういう危機はなかなか訪れないし、訪れたとてそれを解決するような特殊能力が自分にある筈もない。その時俺はただ立ち尽くすだろう、現在生活に対してただ立ち尽くすことを余儀なくされているように。
生活というのは不倶戴天の敵だ。少なくとも俺にとっては。それは常に自分の主観がそこに価値を見出すことが極めて困難な徒労、"どうでもいいこと"を"生きる為"だと言って俺に課す。それは生れたが最後死ぬまで返済できない借金のようなものだ。生きていれば、確かに良い事はある。それによって確かに借金は目減りする。けれどそれは5億の負債がたまに4億7千万になったりする程度のことで、決して0にはならないし、油断をするとすぐに10億や100億の負債へと膨れ上がる。
ではこの負債の正体とは何か?
それを恐らく物心付いて以来俺は考え続けてきた。それはきっと俺だけが感じているものではないのだと思う。意識していないだけで誰もが感じていて、逆に言えば確かに感じているもののそれが意識の俎上に上がってきていないだけなのだと思う。
それは一言で言えば、「"現在"の"外"に"何か本質的に大事なもの"がある」という感覚だと思う。このロマンと、その(原理的な)獲得不能性こそが、俺を苦しめる"生の痛み"そのものだった。
つまり、俺にとって「生活が豊かになる」ことは、それだけでは生きることそのものに対する解答にはならない。どれだけ生活が豊かになろうが、否、豊かになればなる程、そこに付き纏う「欺瞞」の臭いは濃い腐臭となって漂い、俺を苦しめることになるだろう。その予感に対する信仰、持て余した過剰な自意識による予言の自己成就が、現在進行形で俺を社会的な栄達から遠避けている。得られなければ得られないだけ"正しさ"へと近付いているのだと、詐術で自分の目を晦ましながらしかし、生活の塗炭はいよいよ身に染みる。
しかし一方で、「生きることすら儘ならない」人々がいる。それは日本で入国管理施設に収容されて虐殺された"外国人"やアメリカで白人の警察官に虐殺された黒人の市民だ。彼らを苦しめる"差別"に対して、声を上げないことはそのまま彼らを直接殺すことになる。だから俺は声を上げる。差別をやめてくれ。肌の色の違う人間を、話す言葉の違う人間を、生活習慣の違う人間を、考え方の違う人間を、「違う」というだけの理由で怖れないでくれ。怖れる時はせめて「怖れている自分」を自覚してくれ。自分の"恐怖"は一体何によってもたらされているのかを考えてくれ。そうすれば、それを考えている時間だけは、肌の色が違う相手を殴ろうとするその拳が振り下ろされるのを遅延することができるだろう。その間に、あなたに殴り殺されそうになったその人は逃げ延びて生き永らえることができるかも知れない。その人が去った後、宙に掲げられた拳を見てあなたは「一体自分は何に怯えていたのだろう」と不思議に思うかも知れない。
正反対のことを書いた。
生きているだけじゃ楽しくない、今すぐ俺をここから出せ!
と叫んだその舌の根も乾かぬ内に俺は
差別をやめろ、平等に人を生かせ!!
と書いた。
これらは矛盾しているのか、していないのか、俺には分からない。
ただ、仮に矛盾しているとしてもどちらも本心なのだから仕方ない、と今は開き直ることにする。
けれどここで終わってしまってはあまりに纏まりに欠けるので、これら「私怨」と「義憤」の間で、どのように生きるべきか、と言うより実際に今俺がどのように生きているかを書いてみたい。
そもそも差別とは何だろうか。
人は何故誰かを差別するのだろう。
それは「好き嫌い」とはどう違うのだろう。
人を「嫌う」自由はないのだろうか。
人は誰とでも仲良くしなきゃいけない?
俺は「差別」と「好き嫌い」は明確に違うと思う。
差別は"制度"の問題で、それは個人的に相手を好むか好まざるかという感情とは切り離されて存在している。要するに、あなたが男性でも女性でも職場で仕事の内容にかかわらず女性にだけ「パンプスが強制」されていて、そのことについて「おかしい」と声を上げる女性に対して「あなたのことは個人的にとても好きだけれど、でもこれは会社のルールだから仕方ないよね」と言うとしたらそれはやはり差別に加担していることになると思う。
差別とは何かを一言で言い表すのはとても難しいけれど、無理やり言い表してみるならそれは「その人の持つ先天的/後天的を問わない"何らかの属性/特徴"によりその人の全人格や能力を"一元的に判断"し、その判断に基づき社会的な位置付けを決定する」ことだと思う。
こう書いてしまえばそれはもう殆ど他人を何らかの基準で"評価"することそのものが差別的だとさえ言えてしまうように見えるが、実際俺はそのように考えているので、現在"能力評価"と謳われているものさえ本質的には差別であって、だから将来的には撤廃されるべきだと思う。
とは言えこれは非常に遠大な理想の話になるので、今は別稿に譲るとする。
では何故人は誰かを差別したがるのか。
したがる、という欲望はしばしば透明化されていて、差別をしている当人には気付かれない。だから差別を指摘された人間は決まって「自分は差別などしていない」とか「差別ではなくこれは区別だ」とか言ったりする。
それは本人にとっては事実なのだろう。
ならば質問を変える。
何故人は誰かを"区別"したがるのだろう?
差別だろうと区別だろうと、自分と誰かとの間に何らかの線引きを行いたいという欲望がそこにあることに変わりはない。
その"欲望"の構造を解き明かすことが、迂遠に見えてもストリートのヘイトデモに向かって中指を突き立てながら"レイシストの豚野郎は死ね!"と叫ぶことよりも差別を抑止することに繋がると少なくとも俺には思えるし、それが俺なりの差別に対する戦い方なのだ。結局は人は自分がその有効性を信じられる戦い方で戦うしかないし、戦い方にはバリエーションがあるべきだ。何が敵の心臓を射貫く"一矢"になるかは、誰にも分からないのだから。
〈偶然だけが君を救う〉
雑なことを言うなと言われるかも知れないけれど雑なことしか言えないので書く。要するに人は常に「他人とは違う自分」というものを確立したいと願っていて、それはもう「命というのは世界を取り込んで自己へと変換する営みだから」としか言い様がないのかも知れないけれど、差別というのはそうした欲望を非常に手軽に叶えるのだと思う。
「日本人」という"属性"だけで「他国民とは違って優秀」だということが仮に保障されるとしたら、それは確かに「他人とは違うものとしての自分」という形で"自己肯定感"を持ちたいと感じている人々にとって心地好い"物語"かも知れない。
けれど、俺にはやはりそのような物語に頼って生きるのは卑劣だし、何より退屈ではないかと思える。
"承認"は"制度化できない"からこそ尊いのではないか。
つまり、「あなたが日本人だから好きだ」と言われて、本当の意味で「自分を認められた」と感じることはそもそもできるのだろうか?
だって、自分以外にも「日本人」はいくらでもいる。
その他大勢の日本人に対しても、その人はきっと同じことを言うだろう。
そうなれば、結局のところ「他人とは違う自分」というものは承認されていないことになる。
最終的に「自分が認められた」と感じられる為には、そのような「制度」の外で、徒手空拳で戦う自分の何らかの一撃が相手に届く必要がある、のだと思う。
勿論それは一撃とは限らない。
というより、狙って放った"一撃"が、その通りに的に当たることなんて殆どないのだろう。
だから、俺を救ってきたのは"偶然"でしかないと思う。
狙った弾はことごとく外れた。けれどともかく撃ってみれば、そこに的があったことにすら気付かなかったような所に当たり、何らかのレスポンスは返って来た。思いは、思った通りに誰かに届くなんてことはない。だけど、口に出せばそれを必ず誰かは聞いてくれる。そして何らかの言葉を返してくれる。俺はその、今は自分には"見えない誰か"の存在を常に感じていて、その存在を信じられる。それは神への信仰に、ひょっとしたら似ているかも知れない。
相手の目をじっと見て「好きだよ」と言って口説けたことなんて俺にはないんだよ。
それでもこうして生きてきた人生は、嘘に塗れた"制度"によって他者から差別/区別されて承認を与えられる人生よりは、豊かなものだったと思える。
だから俺はこれからも自分の人生を豊かに彩って生きていきたいし、その為に「ここにも豊かな人生はあるよ」ということを一人でも多くの人に伝えていきたいと思う。差別のない世界の方が、豊かな世界だと思えるから。
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