メッセージ性と「物語」について
せっかくポルトガルに居るのにぐだぐだとネットばかり見ていてなんなんだお前はと自問しつつ最近思ったことを少しまとめておく。
先日ツイッターで回ってきたこれ https://comic.mag-garden.co.jp/topics/topi/news-0412-kyomu/ を読んだ。面白かった。
のだが、その面白さは「工学的」なもので、つまり仕組みがしっかりしている、歯車がちゃんと噛み合っているなという以上の印象を残すものでは、正直なかった。ちゃんと組み立てれば誰でもそのように作れる、謂わばプラモデルの組み立て説明書としてよくできた物語、という印象だった。
この印象は何によってもたらされたのだろうか。
それを考えた時、つまりは「メッセージ」が「物語」に先行してしまった為ではないかと思った。メッセージというのは作者の主張の結晶であり、それは恐らくどんな作品にも存在する。人間が主観を、意識を持ち、そればかりか創作をする生き物である限りは。だから「メッセージのあること」そのものの是非を問うことは無意味だろう。少なくとも私はそこに意義を見出さない。問題は、しかしメッセージを作者が「伝えたい」と強く思う時、それは受け手にとって基本的には「鼻につく」ものであるということを、作者がどれだけ意識的に作品を作り上げることができるか、ということではないか。簡単に言えば「説教臭い」ということだ。そして人が「物語」を愛するのは、それが善悪の彼岸にあり、純粋な驚きをもたらしてくれ、あるいは現実には「悪でしかない自分」、つまりは「社会に適合できず常に裁かれてしまう側として生きねばならぬ自分」を、少なくともその物語だけは裁かずにいてくれる、そういった安心感を得られる、そこを居場所としてもいいんだと言ってもらえた気になる、そのような「癒し」が物語にはあるからではないだろうか。となれば、人が何かを語る時には一つの視点からしか語り得ないという限界がある以上、その視点から語られる「作者の主張」、即ちメッセージは、その視点を共有しない読者にとってはやはりうっとおしく感じられる場合がある。
それでも「メッセージ」が胸を打つ場合というのは当然ある。
例えば、といって唐突に持ち出すのは『ウルトラマンA』だ。私は幼少期にこの作品を観て以来、二十数年は観ていないので例に挙げる資格がないかも知れない。しかし切通理作の名著『怪獣使いと少年』において語られたそのラストのメッセージ性は強烈に私の胸に刻まれ、いつか必ず観返さねばと思い早数年が経った。
その記述によれば、最終回で歴代ウルトラマンの仮面を被った子供たちが「正義」の名の下にあるクラスメートを「宇宙人」呼ばわりしていじめていた。それを見た主人公の北斗星司は「君たちの好きなウルトラマンは弱い者いじめを正義とは呼ばない(大意)」と言ってやめさせる。しかしそのクラスメートこそ、実は侵略宇宙人だったのであり、そのことが明るみに出ると北斗はウルトラマンエースに変身し、これを撃退する。そして子供たちに告げるのだ。「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人達とも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。例えその気持ちが何百回裏切られようと。それが私の最後の願いだ」と。
私はこの文章を読むだけで未だに涙ぐんでしまう。それほど、『ウルトラマンA』という作品の持つメッセージ性は私に強く作用した。
『虚無をゆく』も同じく強いメッセージ性を持つ作品であった。しかしそのメッセージは私にはあまり響かず、むしろ構成の妙に印象はほぼ限られた。この違いは何であろうか。趣味の違い、と言ってしまえばそれまでの話であるが、それをここでは主観の限界まで掘り下げてみたいと思う。
結論から言ってしまえば、要するにその物語が"どのような限界によって"もたらされているかの違い、と言えるのではないかと思う。つまり、『ウルトラマンA』においては敵を殺さねば自分が殺されるという、抜き差しならぬ、交渉の余地のない戦い、生存競争という限界の中において物語が展開された。そして、そのような過酷な状況にあってなお、「それでも」失わないでくれと告げられる「優しさ」であればこそ、それは観る者の胸を打つのだろう。対して『虚無をゆく』では、そのような限界は設定されていなかった。主人公は生きるも死ぬも自由であり、虚しい日々に生きる意味を見出す為の戦い、その相手となる敵や武器ですら、すべてお仕着せの、誰かから与えられたものだ。そしてその与えられた武器によって与えられた敵を倒し、それでも「生きることは素晴らしい」という作者の主張、メッセージに読者を導く為に「自分のクローンだけを再生産し続ける閉じられた世界に多様な遺伝子を展開して世界をもう一度色付ける」というラストにしていたが、これも「何故そうすれば世界が色付くのか」という根源的な問いをスルーしたまま、つまり「その限界においてこそ意味を持つ」というメッセージが機能する為の条件を黙殺したままのご都合主義的展開であるように、私には思われた。優しさは大事だ。命は大切だ。しかしそれが言葉だけのものであれば、誰だって同じことが言える。その言葉に説得力が生まれるのは、「例え殺し殺されるような場面においてさえそれが言えるのか」という問いに真摯に向き合い、ある種の欺瞞と知りつつもそれを引き受ける、「嘘吐き」呼ばわりをされてもなお「それでも」唱える理想であればこそ、そのメッセージは聴く人の胸を打つのではないか。その意味で、ウルトラマンエースの語る「優しさ」は私の胸に響いたが、『虚無をゆく』で語られた「命の大切さ」は私の胸には何も響かなかった。生きることも死ぬことも等価であれば、端的に死ねばよいのだ。生きることをわざわざ選ぶ意味はない。
そう感じてしまう捻くれ者の私やあなたに、どうやったら届く物語を書けるかを考えて、私は小説を書きたいと思う。おしまい。
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