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誰かのために生きるということ:アイドルとファンの場合


世の中には、名前のない関係性というものがある。
アイドルとファン。明確なようでその関係性にも名前はない。

親子、家族、友達、恋人。
相関図があればこの言葉の下には、双方向の矢印が描かれている。
一方で「ファン」というのはアイドルに向けられる一方向の矢印。
じゃあ、「アイドル」は誰にむかって矢印を向けているんだろう。

かつて私は、あるジャニーズグループのファンだった。
小学4年生から高校2年生の夏まで追いかけた彼らは、私の青春のど真ん中を堂々たる面持ちで陣取っている。
生活の中心、思考の中心、彼らを太陽としてこの地球は回っているのだ。

思い入れが強くなれば強くなるほど、彼らに対する私のなかでのキャラクター像が確立されるようになる。「そう、あなたのそういうところが好き。」
こういうキャラクター像って、ファンのあいだでは割と共有されていたりもして、より洗練され、美化され、自分のファインダーを通した脚色が加えられて、気づかないうちに、強固なものになっている。

私が彼らから離れたのは、嫌いになるような出来事があったわけではなくて、いたってシンプル、追いかけるだけの時間も気力もなくなったからだった。アイドルじゃなくても、なにかにハマったことがある人はわかると思うけれど、ほんとに時間もお金も気力も、全身全霊をそこにかけてしまうと、ほどほどに応援するというのがなかなかできなくなる。

距離をおいて5年ほど経とうとしているが、その間にアイドルに対する見方はかなり変わった。

私たちはファンは、というか少なくとも私は、彼らアイドルに対してどこまでも期待してしまう。それは決して悪いことではないし、むしろこれが彼らの原動力になるといっても過言ではない。
だけど、私の期待と彼らのやりたい、にズレが生じた時が正直しんどい。

殊ジャニーズにおいては、「親戚が勝手に応募してて」というやつをきいたことがあると思う。わけもわからぬまま芸能界に飛び込み、「大人」の意向でデビュー、抗えぬ波の中で気づけば今のポジションに押し流されていく。

そして彼らは一生懸命に、どこが前でどこが上かもわからないけど、とにかく歩みを止めずに進んでいく。いつしか沿道にはファンがいる。その声が止まりそうになる足にエネルギーをくれる。ありがとう。
あるとき、ふと顔をあげ、自分の立っている場所をみて、彼らはそれぞれに夢や理想について考えてみる。本当にやりたいことってなんだろう。

そこからが分かれ道になる。

人間生きてれば、こういう場面って少なからずある。私だって親や先生が喜んでくれる高校や大学に進学し、自慢のこどもとしての過ごし方や、理想の友人としての振舞、恋人が好きだという服装をする。
だけど私は、誰かのためのなにかって、すごく虚しく感じるときがある。本当の自分は、こんなことがやりたいんじゃないって。
そう感じたら、私はリセットできる。背負ってるものが少ないから、周りからの期待や誰かが望む理想なんて、しらないよって鼻歌まじりで言えてしまう。

だけど、アイドルは違う。
ファンがいなければ成り立たない存在。自分自身の存在が他者に依存する割合がかなり大きい。目指すものと、ファンの期待が一致するときばかりじゃない。

だからこそ、今、ファンからの思いを一身に受け止めて活動してくれている全てのアイドルに感謝と尊敬の気持ちでいっぱいだ。

彼らはまぎれもなく彼ら自身の人生を生きている。
そのうえで「ファンの子が大事」だと言える、その言葉の裏にアイドルとして生きてきたことの誇りと覚悟を感じる。誰かのために生きることも含めて自分の人生、その潔さがまぶしかった。

アイドルとファンの関係性はとても難しい。
人はみんな、他の誰でもないその人だけの人生がある。それを誰かの手で操るような権利はない。だけど、ひとりで生きているわけじゃないから、いつだって誰かに影響され、誰かに影響を与えて生きてる。
お互いを大事に思うからこそ、時に重く苦しい存在があったとしても、それでもそんな重さが私の人生なんだとまるっと受け止められるような生き方をしたい。