ゆく年くる年(去り行く旧世界と来るべき新世界)
ま、翻訳には並々ならぬ思い入れがありまして、以下は、奇跡講座テキスト、T-15.XI.10 を、Urtext も参照しながら独断と偏見で訳してみたものです。
途中から、なぜか古文調になっていますが、それはそれ。
文意が複雑なところはこれでは無理がありすぎますし、この調子で全文訳すのは無理すぎるため、どうかご勘弁ください(笑)。
では、ご笑納ください。
T-15.XI.10
今は、キリストの時節から新しい年が生まれる週末である。私はあなたに全幅の信頼を寄せている。あなたはすべてやり遂げる人だ。非の打ちどころなく、破壊することなく、すべて完了させるだろう。次のことを言って理解しよう。
あなたが大切だからこそ、私はあなたを聖霊に手渡す。
するとあなたは解放されるだろう。
ただし私があなたにかこつけて自分を囚われの身とするなら、話は別。
自分の自由という名目で、私はあなたを手放そう。
私たちは一緒に自由の身になるのだから。
かくして、弥栄(いやさか)なれば年明くる。すべきことは山ほどあれど、われら遅れに遅れたり。このとし生まれるごとくして、聖なるときに明(あき)らめよ。こたびの幕開け大いなれ、ながらくあけるところにぞ、おのずと赴くべかんなる。とにもかくにもやり遂げて、ひと味違う年とせよ。そして自分のためにこそ、自分にまつわる関わりを、すべて聖(きよ)らかなるものへ、どうかさせてもらいなさい。
これぞわれらがこころざす。
しかあれかし(アーメン)。
途中の部分は、一言で言うと、「心の中で相手を手放す」ということです。
つまり、赦しの変形バージョンのようなものだと思っていただければいいかと。
訳に関して言及すると、公認訳で「自分を幽閉するためにあなたを使いたいと望まない限り、あなたが解放されると、私は知っている」の箇所は、「~しない限り」の元の「unless」の前に、Urtext ではコンマが入っていたため、付加的に訳してみました。
これは絶対、イエスさんはユーモアをもって思わせぶりにウインクしながら言っている感じでしょう。
というのは、ヘレンさんにしても、相手を利用して自分を幽閉したいとは、まさか思っていないわけですからね。
ですから、「君が相手を聖霊にほかしてやれば、間違いなく相手は解放されるよ、ただし君が自分の不自由さを相手のせいにしていたいのなら、別だけどね 😉」みたいな感じで。
ま、イエスさんのああいう言い回しは、いけずですね(笑)。
というのは、意識の基盤をイエスと共有していなかったら、あれはユーモアどころか、「ただの脅し」ですからね。
だから、いかにもこうなりそうなわけで。
この、「いけず」感満載な描写がもうね、たまらんです(笑)。
現段階では、聖霊はどうしても、「天使の衣をまとって欺こうとする悪魔」としてしか知覚されないものです。
しかし、この、「天の門のように見える地獄への扉」というところで思い出すのが、はるかな昔、テレビの人形劇の「飛べ! 孫悟空」というのがありましたが、あの中で、「てんごく」と書かれている札の「てん」というところの紙が、後から貼り付けたようになっていて、その「てん」の書かれた紙がはがれたら、そこには「ぢ」と書かれていたという。
いや、まんますぎますから(笑)。
で、見つけました、このシーン。
しかし記憶の中では羅生門とか南大門とか、とにかくもっと開けた場所だったような気がするのですが、まあマンデラ効果だということで良しとしましょう。
途中から始まるようにしてあります。
さて、ですからこれ、天国への脱出口は、この「地獄への扉」という知覚の、さらにその「向こう」にあるというわけですから、これがつまり、「彼らは天国が地獄であると信じており、愛を恐れている」(T-25.VIII.6:5)ということなわけですよ。
つまり、心の深層において、天国が地獄だと信じているために、たとえ実際にずっと天国にいたとしても、それは「見かけ上」のことだとしか思えず、実はここは地獄だと「実感」することによって「安心感」を得る、というぐらい、知覚はその根底から錯誤にはまっている、というわけです。
ですから以下のように書かれていますね。
ここでいう「悪寒」は実際には、東洋医学でいう瞑眩(めんげん)であり、実際にはこれは、心の奥底でかすかながらも愛が実感されたことによって心が「再起動」した最初の兆しなんですが、その「復活」は現段階ではまだ、あまりにも深層で起きているため、どうしても病的に捉えてしまいます。
ま、それはともかく、ですから、知覚は今のところ、3段階を想定すると分かりやすくなるのかもしれません。
例えば、世界知覚に関してであれば、実相世界に対して幻想世界というベールがかぶせられ、さらにその上に「すべてをポジティブに捉えよう」というベールがかぶせられている、という感じです。
そしてそれは対人関係においても同様で、まんまの相手は神の子なんですが、そこに対して「罪びと」というベールをかぶせ、さらに「でも許してあげる」というベールがかぶせられている、という感じです。
そういう辺りの機微をうまく取り込んだのが、京都弁の感覚なのかもです。
つまり、「自我はある」という感覚がありながらも、それでもなんとかうまくやっていこう、という、いわば「生活の知恵」として、複雑な感覚が発達したというか。
「みやこ」、つまり「都会性」ですが、そういう「都会的ライフスタイル」においては、生活の中で対人関係が占める割合が極度に高いため、例えば、「自我はある」という信念にしても、田舎や自然の中で暮らしているときには、その信念にあまり煩わされずに済むんですが、都会生活ではその信念を否応なく突きつけられます。
ただし、ここで大抵は、「自我はある」という信念を、頭ごなしに否定的なものとしますが、これはそうではありません。
確かに、「自我はある」という信念は、本来ないものをそこに存在させますが、しかし、そのようにして、対人関係の中に「一段かませる」、ということの「メリット」があります。
それ、つまり「ワッシャー」ってやつです。
ワッシャーをかませることによって、摩擦を減らしているわけですから、これは、もし自己と他者がいきなりダイレクトに対峙したら、その「摩擦」が大変なことになるため、そこにワッシャーとしての「自我」を「かませる」ことによって、対人関係の摩擦を減らす工夫がなされている、というわけですよ。
これはそもそも、自分と相手を「関係」認識によって「結び付けて」いる限り、どうしてもこの「ワッシャー」としての自我は必要だ、ということなのでしょう。
ですから、冒頭の訳で言及した箇所、つまり、「あなたが大切だからこそ」で始まる連は、「関係認識を手放す」ということでもあります。
ただし、この「関係認識を手放す」というのは、「あなたと私は無関係」ということではなく、特別な関係から神聖な関係へと関係の質が変容するためには、従来の関係認識がいったん「ほどかれる」必要があるからです。
つまり、図で描くと、以下のような変容が必要だからです。
これは厳密に言うと、これらすべてが自分の心の中で起きていることだという「背景」まで併せて捉える必要がありますが、それはまあ、今のところはいいでしょう。
というか、ついでですから描いてみますか(笑)。
ま、ですから、奇跡講座でいう「特別な関係」を図示してみると、以下のようになるわけですよ。
これが、先の図でいう「自分の世界」と「相手の世界」が、無意識の合意に基づいて重ね合わせられている状況です。
ここで、「ん?」となります。
つまり、「いや、これは単に現実の世界のことですよね? 一体、これのどこが無意識なんですか?」と私に言いたくなる感じです。
はい、つまりですね、「この世界」という事態は元々生じていない、ということです。
それを正確に言うと、「この世界」とは無意識の中においてのみ実在感がある仮想的なものだった、というわけです。
こんな荒唐無稽な話もないですよね(笑)。
しかも、さらにややこしいのは、上のことは何とか理解できたとしても、今度は、以下のように思えてきます。
ところがそんなことはありません。
これが、わかってみると実にやばいことなんですよね。
自他の間で実際に共有されているのは、「あなたと私は身体として、共に「この世界」に生きている」という信念だけ、なわけですよ。
実際には、自他の間では、これ以外は何一つとして共有されていません。
「この世界」という知覚ないしは認識ですら、実は共有されていません。
繰り返し言うと、実際に共有されているのはただ、「あなたと私は身体として、共に「この世界」に生きている」という信念(つまり前提)だけだった、というわけです。
正確に言うと、例えばですが、目の前の「スマホ」「マグカップ」「三角形」といった形は共有されているかもしれません。
「特定の地点にいる」という場所性もまた共有されているかもしれません。
あるいは、場合によっては言葉は共有されているかもしれません。
しかし、それ以外には何一つとして共有されていません。
共有されていないものの典型が、自分や相手の気持ちです。
これは、共有されていないのが割と普通ですが、しかし人は心の中では、「相手のことは相手自身よりこちらの方がよくわかっている」という感覚に基づいて相手のことを捉えていたりします。
これが、「自分が見ている相手とは、とどのつまり、ただ自分の心の中に登場しているにすぎない」ということです。
そしてこれは、ここでは認識上の話として記述していますが、ハートが開くと、これは「ありのままの様子」のことだった、ということがわかります。
私自身の体験から言うと、ハートが開いたら、「それまで外界だと思っていたものの方が、実は「心の中」だった」という、実際にリアルにそういう感覚に変わってしまうので。
だからこそ、これは理屈とか思弁的な話ではないわけです。
その時の体験のことをもう少し言うと、その時、窓の外を救急車が通っていきましたが、救急車と自分は当たり前に一つだという感覚でしたし、さらに言うと、それまで私が自分だと思っていたものは、実は自分の身体の側ではなく救急車の側にあった、ということもまた、理屈ではなく実感しました。
これと似たような体験は、探せばいろいろな人が述べているので、詳細はそうした人に譲りますが。
これが、「自分は、関係認識によって相手を自分の心の中の姿として、それを心の中で延々と裁き続けることによって、相手を心密かに十字架刑に処している」ということです。
先の体験談でいうと、私の心の中に登場している救急車と、実際の救急車とは、実は「全くの別物」ですが、普段はそのことが完全にわからなくなっている、ということです。
ですから、ハートが開いた段階で体験されるワンネスは、ただ自分にとってのみ起きているにすぎない、という事実は、現段階ではまだ、ほとんど知られていませんが、これ、実にやばいです。
自他の間の「共有不可能性」感は、ある段階のワンネス体験をしてもなお、癒されるどころか、その断絶感はむしろますます強まり、深まっていくからです。
この、自他の間に潜む「意識の断層」があらわになり、そしてそれをどうすることもできなかったという体験が、例えば晩年のニーチェが直面し続けていた状況ですが、このことに関しては別の機会に譲ります。
話を戻します。
例えばこれぐらい、実際には自他の間では実は何一つ共有されていないというところから、人類は営々として共有度を高めてきた結果、たどり着いたところが、以下のような信念だったというわけです。
これなら、現時点での人はほぼすべて同意できると思います。
ここまでに要した努力は、大げさではなく文字通りの意味として、先人の「天文学的な」努力の蓄積によっているわけですよ。
なぜなら、この無意識の前提が確固たるものになってきたのは、数字でいうと高々この数百年、時代でいうとせいぜいルネッサンス以降の、「比較的最近」のことであり、つまりこの感覚は、それまでの膨大な蓄積によってようやく開花した「産物」であり、これは事実上、曼殊沙華の開花レベルだというぐらい「レア中のレア」ケースですからね。
ちなみに、ここでいう「先人の努力の蓄積」とは、今回の人類のことだけではなく、記憶からはほぼ消えている歴代の人類もすべて含めた上でのことです。
例えば、この世界はこれまでに6回滅びているとか、あるいは4回とか3回とか、伝承によって回数は異なりますが、この世界の前にも世界があったということ自体は共通しています。
この、今回の世界以前の世界に関しては、全く記憶がありませんが、例えば、他者の世界というのもまた、このように、自己の側からは決してうかがい知れないものがある、ということでなら、多少の類推が可能かもしれません。
というのは実際に、「到彼岸」のようにして想定されている「彼岸」とは、単に「他者の世界」のことだからですが。
ですから人の意識の開花とは、文字通り曼殊沙華の咲き誇るさまだというわけです。
ただしここで、「他者の世界」とは、間違っても「他人の世界」のことではない、というところに注意が必要ですが。
「他人の世界」への適応は、すなわち自己の喪失となっていて、「他者の世界」への到達は、すなわち自己の復活となっている、というぐらいの違いがあります。
これは、「他人の世界」とはあくまでも想像的なものであり、全く実在していず、「他者の世界」とは現存する世界のことを指している、というぐらいの指摘にとどめておきます。
ここでもすでに、「現存する世界」という言葉に関しても、意味の「ずれ」が生じてしまうため、こうしたことに関してやたらと言語化する意味は、本当はあまりないんですよね。
ただ、一種の「道しるべ」としてなら、多少の意味はあろうかと思っていますが。
「他人の世界」とは、「明るいベール」に覆われた「闇の世界」であり、「他者の世界」とは「まんま」の世界ですが、当座のところは、こわごわ生きるしかないようですが、それは、今まで自分はあまりにも、「まんま」の上にいろいろとベールを「かぶせすぎ」てきたため、それは一朝一夕には剥がれませんから、「もうその必要はない」と自分が納得いった分ずつ、少しずつ取り去っていくしかないようだからです。
つまり、「他人」と「他者」との差異は、「明るいベール(そしてその裏に潜む闇)」と「まんま」との差異に相当している、ということです。
ですからここでも、例えば「啓示」を意味する「revelation」に関して、「再びベールで被う」という意味と「ベールを取り去る」という意味との、いわば「意味の分化」が生じていることがお分かりいただけるかと思います。
そのように、「recover」に関しても、「再び覆う」という意味と「覆いを取り去る」という意味との、2つの意味が分化しています。
ですから、先ほど、「現存する世界」というとき、それは従来の感覚では「「明るいベール」に覆われた「闇の世界」」のことを指している、ということになるため、意味がずれてしまうと感じたわけですが、ここでも、いきなりベールを取り去ろうとすることが、どれだけ「恐ろしい」ことになるかは、想像がつくかもしれません。
つまり、ただベールを取り去るというだけでは、自分が信じている闇がそのまま表れるにとどまりかねない、ということです。
だからこそ、ベールと闇の「対消滅」によって、少しずつ解消していくことが、時間がかかっても結局は実際的なのでしょう。
なんてことを、あの大津波が来るという年になる前日に書いているというのも、何だかなあですが。
さて、では「他者の世界」とはどのようなものかを、最後に図示してみましょう。
ここで、「見える」は「まみえる」つまり「真見える」です。
ここで、3番目の意味として「妻として夫に仕える」とありますが、これはおそらく、観察位置としての女性性のこと、つまり自己という視点のことを指しています。
で、この図はまんま、マッハの自画像なわけですが。
この画像のタイトルが「Inner perspective」つまり「内的な遠近法」あるいは「内的視座」となっているところが、実に興味深いですね。
なぜならば、ここで見えている光景は、まんま外の世界のはずなのに、なんでこれが「内的」なのか、なわけですよ。
つまり、ここにも「天国への脱出口」が顔をのぞかせている、というわけです。
そしてこの「まんま」に対して、自己はただ見(まみ)えるのみ、です。
さて。
先の「他者の世界」の図を見て、「あれ?」と思われるかと思います。
というのは、あの図はこの図ではないのか、みたいなことですが。
似てますね~(笑)。
でも明らかに違いますね~(笑)。
その「違い」をわかりやすくするために、先の図では、世界の下方にちらりと、「自己の身体らしきもの」を描き加えておきました。
はい、「従来の世界」とは単に、「まんまの世界」を「第三者目線」で捉えたものだったわけですよ。
つまり、「世界」というものを漠然と捉えているときに、自分もまた「一個の身体」としてその「世界」に存在している様子までも、何となく想像されてきたりしますが、それが単なる想像ではなく、現に実際に起きているものとされている、というのが「人間の現状」です。
その体験は実際の体験そのものではなく、体験している「かのごとき体験("as if experience")」です。
しかし現段階の人は、この、「かのごとき体験」こそが実際の体験だとしてしまっている、というわけです。
これ、言葉にすると非常にややこしいですが、例えばですが、セルフイメージがとことんおかしくなっている状態もまた、これと同様のメカニズムによっています。
ただしこれは、厳密に言うと全くの仮想的な体験ではなく、実際の体験に基づいて、それに複雑な解釈を無意識的に施すことによって得られた「結果」のことです。
それは空間的に言うと、反転状態が正しい状態だ、としているようなことになっています。
ですから、この「ねじれ」を「ねじれ」のままに自覚していると、とてつもない「生きづらさ」を恒常的に感じ続けるようなことになりますが、ここで、ある種の「内的切断」を施す、つまり、「かのごとき体験」と「実際の体験」とを切り離し、「実際の体験」を自分の中で「抹消」し、「かのごとき体験」だけが体験だとすると、実はなんと、嘘のように生きづらさが消えるんですよね。
これは言ってみれば、ある種の「霊的痛覚ブロック手術」ですが、このようにして「セルフミュータント化」することが、人が「他人の世界」へと参入することとなっております。
つまり、「他人の世界」とはいわゆる「人間界」のことだった、というわけですよ(笑)。
実際、人間界には他人しかいません(笑)。
誰一人として自分ではない世界です(笑)。
この世界ではどうしたって「他人のふり」をせざるを得ません(笑)。
この辺、通常の意味の他に、もう一つの意味がパラレルになっています(笑)。
さて、すでに長さが半端じゃなくなっているので、この辺にとどめておきます。
では、皆様もどうぞよいお年を。