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言葉が言葉の意味を越えて羽ばたく風景を

親子ほどに歳の離れた若手監督が撮った映画にだってもちろんボクは共感はできるよ。たとえば山戸結希監督は1989年(平成元年)の生まれだけど、作品を観ていると1960年生まれのボクの深層心理を代弁してくれているような気になるからね。たとえば[ホットギミック ガールミーツボーイ](2019年/主演堀未央奈)は自分に自信が持てない高校生の恋の行方と人間関係の葛藤が描かれるんだけど、山戸監督ならではの切りつけるような鋭いセリフの応酬に登場人物と一緒にボクたち観客の気持ちにも切り跡が残されるんだ。映画のナイフよって裂かれた傷口をよく見ると、それは新しい傷ではないことがわかるよ。古傷なの。これは古傷の再認識なんだね。ボクの心の古傷を映画はなぞるように引っ掻いていたんだよ。それは痛いよ、でも快感。ツラいからこそもっと観ていたい。高校時代という四十年以上前の記憶が在り在りと蘇る、と、言いたいところだけれどそうではない。これはボクにとっての現在の物語。遠い思い出ならこんなにヒリヒリしない。忘れていた傷跡から熱い鮮血が滲むのさ。2016年に公開された[溺れるナイフ](主演菅田将暉)の題名からもわかるように、比喩としての刃物は山戸監督の表現ツールなんだろうと思う。癒えない傷を切開して塩をすり込んでくれる残酷な親切にボクは感謝してるよ。深夜目覚めて疼く古傷にそっと手を当てて一人で自分を慰める闇の部屋に馴染んでしまったボクは何を守ろうとしているんだろう。「薄弱な価値観を頑なに信じ込んでいる自分像と現実のズレを知っているのに知らないふりをあなたは続けているだろう」と、このナイフは真っ直ぐに語りかける。これは荒々しい箱庭療法なのかな。そうだよ、ボクはボクを誤魔化している。ボクの箱庭は物たちが散乱する都市の裏通りだ。うつむいた人々が足早に通り過ぎていく。笑い声も聞こえるけれどチューニングが合っていない、歪んでいる。[ホットギミック〜]では埋め立て地に林立する高層住宅の群れが高校生たちの生まれ故郷だった。仕掛けられた心象風景に観客の意識は繋がれてしまう。高校生はモノレールで通学し、センチメンタルな夕暮れには人口の浜から海を見つめる。インターチェンジの高架ループが思春期の迷いが螺旋であることを仄めかす。ガールとボーイは何度も何度も同じセリフを言う。そうやって互いの粘膜を触り合う。このような瘡蓋(かさぶた)を剥がしちゃう系の表現は1961年(昭和三十六年)生まれの園子温監督の流儀とも通じていると思う。[冷たい熱帯魚](2011年)なんかは痛くて痒いえぐる表現の代表格だろう。世代に関わらず、目を凝らして井戸の底を覗き込めば、闇の中に光る石が見えるのかもしれない。言葉が言葉の意味を越えて羽ばたく風景を描くことができる二人の監督は共に文芸人だ。そういえば[ホットギミック〜]の成績優秀な男子が非常階段に座り込んで読んでいたのは坂口安吾の[堕落論]だったよ。

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