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息子の部屋③(第50回新潮新人賞二次通過。最終候補一歩手前)

 まるで初対面のように、過去の積み重ねが皆無な親子だからまだ気まずさもあり、以降なかなか思うように話題は弾まず、それでも多くもない会話の中で裕の生計の手段を聞き、日雇いのアルバイトではあるけれどもちゃんと働いていたことにまず安心した。
 私は現在の会社の人員をそらで数えながら都合の良い夢絵空事を思い浮かべて、あれこれと、経験を積ませる期間に自分は関与しないほうがいいだろうとか、コンビを組ませるのならば誰となら馬が合いそうだとか、考えた。壁に触れた。頭の中のなにかを整理したかったのかわからないが、知らないうちに爪で引っ掻いていて、指の腹でなぞり、ありきたりの壁紙が張られた壁をしきりに撫でていた。
 私の、その手の動きを見た裕はおもむろに立ち上がった。
 冷凍庫の中を確認し、その足で風呂場へ向かった。
せまい台所にはスペースの空きがないので、部屋の方に冷蔵庫が置いてあり、その上に、塗装の艶を埃で失ってはいない、黒光りする電子レンジが載せられている。頬にできたにきびを触りながら足早に戻ると、また冷凍庫を開け、氷の詰まったタッパーを腹の前に積み上げて、両手で支えて出て行った。私は電子レンジの、温め時間を設定するダイヤルを逃げるように見つめた。
 裕は、なかなか戻ってこない。冷凍庫を開けてみると食べ物は何もなく、白く膨張したタッパーがまだ数個入っていた。
 毛布を脱ぎ捨てて立ち上がると、膝が軋んで鋭い痛みが走った。足音を立てずに近づき、風呂場の入り口の縁に息を潜ませて背中を寄り添わせた。ドアのかたちの、長方形の隙間から冷気が滲み出てきていて、頬の肉を硬く強張らせる。浴槽を見ずに、風呂場を高く見上げた。浴室の鏡に映るのけぞった私が、瞼の底に立っている。多分、おそらくだが、タッパーの中の氷が取り出せなくて息子は困っている。何度も容器を折り曲げようとしたり、押し潰そうとしている。
 血の気が引いた。眩暈を覚えた。
 声をかけずに、足音を忍ばせて部屋に戻った。毛布を頭からかぶり、できるだけ隙間なくくるまった。
 本棚の横に腰を下ろして、気もそぞろに、漫画を抜き出してめくった。なんという題名なのかも読み取れなくて、科白どころか絵すらも頭に入ってこない。それでも落ち着かない指先になにか仕事を与えたくて仕方がなく、だがこの部屋でできる無害な遊戯といえば、こんな牧歌的な行動しか見つからなかった。指が勝手に紙を揉みしだきはじめ、ゆっくりとページを破っていく。毛羽立った紙の繊維がエアコンの風にそよいだ。早くにこの世から自ら去った父親のことを考えた。取り立てる理由もないのに、わけもわからず両親をうっとおしく感じだした私の、誰もが通るのかもしれない気難しい年頃に、急に家から消えた大きな背中をひどく懐かしく思った。その、二度と会えなくなった悲しみはとうの昔に和らいだが、同じ年代になった今、親としての手本をもっと見せてくれなかった父親を恨みたくもなった。
 テレビを点けた。これといった番組もやっていないのに、ひととおりチャンネルを替えて、すぐに消した。
 もう夜をむかえてしまったので、作業は明日にしようと私から提案し、息子もそれを承諾していた。もちろん、綿密な計画を立てているはずもない。
 ほんのわずかだが、疎遠で理解もできなかった息子とは距離が縮まった気がし、数言でしかなくても会話をかわすようになれた。私にすれば、隔世とも言える前進だと思う。今日はここに泊っていく。寝るまでの間、漫画の話はもしかしたら花咲くかもしれないし、できたら一緒に酒も呑みたい。酔いにかこつけて、就職についても切り出してみようか。この瞬間から私たち親子ははじめるしかないのだ。しかし遅すぎたと嘆く必要などどこにもない。私たち家族は、まだ手遅れではなかったのだから。
 だからこそ妬ましかった。この部屋の、風呂場の浴槽に横たわっている障害、それが疎ましくて仕方がなかった。それさえこの世から消えてなくなければ、月並みな言い方だけれども、温かい家庭を創ることができるはずだった。
 祝ってくれる誕生日に照れくさく笑い、でも私は素直に喜びを伝える。息子の誕生日にはもう立派に成人した男なのだから、私はぶっきらぼうに欲しい物を訊く。「金。」と現実的なつまらない希望を口にする裕に苦笑いもして、プレゼントを渡すだろう。
 社内ではお互いに他人行儀に接し、私は私でどうも照れくさく、どちらからもほとんど話しかけたりしない。まだまだ下っ端だから片付けるべき残務も多く、押し付けられる雑用だって少なくないし、だから私とは帰宅時間はあまり同じにはならず、たまに一緒に定時であがっても、帰り道は絶対別々にさせられてしまう。若者だから遊んで帰ってくる夜もあって、夕食時間にいないのもしょっちゅうだ。まれに食卓を囲めば、時折、仕事の話をしてきたりする。そんな時は簡単には答えを与えないで、当時私が勉強に使った資料などを貸したりする。おかずの上を飛び交う専門的な会話に、ぽつんと取り残されてしまったお喋りな妻は、つまらなそうにふて腐れている。でも、そんな妻だって、きっと幸せなはずだ。
「……なんて知ってるんだ。」
 後ろから声がした。
 裕の手にタッパーは握られていない。大方、諦めて容器ごと放り込んだに違いない。
「いや、どんな漫画かなと思って。」
「面白いよ、後半はダレるけど。」
 両肩に強い倦怠を感じた私は、「そうか、作者がネタ切れしたのかもな。」と本を両手で折り曲げ指をすべらせて、ページを勢いよく冒頭から走らせた。ちぎれた部分が目に留まり、そこを隠すように指を止めた。見たこともない登場人物たちが、その物語の中で溌剌と生きている。仲間同士の軋轢があったり、シュートを決めたり、試合に勝ったのか、抱き合っている。
日灼けもなく、漫画の角はどの巻も全然潰れていなかったので、とても本を大切にしているのがよくわかった。
「なあ、そんなに風呂場に行かなくていいんじゃないのか。」
 目を合わせる自信も決意もなく、私は床の木目を眺めながらつぶやいた。
じんわりとやわらかい板目調の床材は、押せば抵抗もなくかすかにへこんで、人目を気にするみたいにおそるおそる戻ってくる。まわりと区別がつかなくなれば、同じところをまた爪で抉った。
 足音も聞こえない。
裕は私の目の前を行き来して、冷凍庫に残った氷を運んでいく。風呂場から衝突する音が轟いた。軋む音を耳が拾った。代わりに空の容器に水を張り、さっきよりも断然忍び足で、足の裏を床に滑らせてぬるぬる歩いてくる。
その、懸命に守ろうとする周到さに狡猾さに、そんなものを作るために行き来しているのに臆面もなく何度でも父親に対面できる図太さにも、やたらと許せないものを感じた。
「こっちに居たらいいじゃないか。」
 床から起きあがって、横に立った。
 なにも言わず、水のゆれる容器を電子レンジの上に一旦置き、冷凍庫の扉を開ける。水面は波打って鈍角の角になり、白く輝いて、次の瞬間には容器と変わらないうすい青のくぼみに変わる。上の半身ごと上下させ、慎重に前かがみになってプラスティックの容器を冷凍庫におさめる。再び、踵を返す。
「裕! まだ風呂場になんか行かなくていいだろうが! 聞こえなかったか?」
 思わず、私は声を荒げた。
 裕はあからさまに眉間をせまくして、なにかを囁いた。二度と聞きたくもない言葉だったと思う。無性に腹が立っていた。だが耳を塞ぎたくなる返事のせいで、私は臆病に固まった。
「……だから腐っちゃうし。」
 壁に叩きつけていた。胸倉につかみかかり、力任せに、めちゃくちゃに振り回していた。誰かの、人間の本性がめくれかえった声色が鳴り響いた。当惑した裕の顔だけが凝縮され、脳裏に張りついたまま離れない。堰を切った口は雪崩れだして止まらなかった。自制など効かず、部屋の空気が怒号に入れ替わるほどみっちり喉を震わせて、呼吸をすれば、自分の内臓まで罵られている気分だった。
 顔を逸らし、自分が着た灰色のスウェットから脱皮しようとするかのように、裕は首を長くした。首筋に太く盛り上がった血管が癪に障った。伸びきった襟元では暴れる若い肉体を拘束しにくく、掌に生地を巻きつけ、服を手繰り寄せて力を込めた。
「お前、自分でなに言ってるかわかってるのか?」
 壁にもたれながら、腰から崩れ落ちていく裕の襟を絞めた。
「なあ、答えろよ? おい。」
 怯える顔に掌が嗤った。悲鳴か、奇声なのか、獣が、野生の動物が敵を威嚇する時に発するような、そんな音だけが聞こえた。口を塞ぎたい。この争いは周囲に勘付かれる。もしも気付かれたら、他の住人に気付かれでもしたらどうなる? 頭の中に利己がさもしい塊を作り出して、しかしその思考は、裕の生を求める声に搔き消され、憎らしく、掌は服の襟をにじり上がり、なめらかな若い肌にたどり着いた。
「自分だけは生きたいのか?」
 手が私のYシャツの袖を這い上がってきて、ゆっくりと顔めがけて登ってくる。
「そうだよな、死にたくないんだよな、お前だけは。」
 私は脈動する顔に問いかけ、体重を載せた。事の経緯を問い詰めて、それなのに、答えを待たず、口を開く余裕も与えずに、さらに親指で喉をしごきあげた。裕の顔が急激に紅潮しだし、私の腕を握りしめた。空気を遮断された喉の奥から鼓動が噴きこぼれる。
「勝手だぞ! 裕は!」
 喉を親指で搾り上げると、知らないうちに顔が近づき、足掻く指が、私の頬を瞼を鼻先を、激しく撫でまわした。うっとうしく、かぶりを振って振りほどき、一心に膂力を込めた。
 遠のいていく息子は、苦悶と快楽のあいだを上手に行き来して、得も言われぬ表情を創りだす。
 徐々に、じわじわと裕の輪郭がほつれはじめ、夢うつつな面持ちまで溢れ出していき、私は瞬きをくりかえした。朧の、あやふやな色の中から幼い裕がみるみる象られていき、今度は雄々しく成長していって、まだ自分の脚では満足に歩けない未熟な姿へと戻っていきもし、絶えず変化しつづける。ケーキの蝋燭にいくら息を吹きかけても焔を消せず、仕舞には癇癪を起こして拗ねてしまった子供には手を焼いた。愚図る泣き顔は滲んでいき、寡黙に、まだ若い衆のくせにてきぱきと現場の段取りを済ませてしまう。工事のお膳立てはあっという間に整えられ、滞りなく作業は進行し、次に使う工具の用意にも余念はなく、予定していた時刻よりも早く片付いてしまう。棟梁であるはずの私は多少苛立ちまじりの指示に従って動くだけで、どうやら私の技量では足手まといらしく、くやしいが追い越されてしまったのだと認めざるを得ない。
 ゆりかえす記憶はすべてがやさしい。
 私の耳を、首を目を、髪の毛を、息子の指が蠢いてはくすぐったく感じ、その都度掌の冷たさが伝わってきて、どこかに留まることは決してなく、最後に肩を撫でてから床に落ちた。
 私は、焦点も合わない目で歪んだ景色を見渡していた。
 とうの昔に見慣れたはずの部屋が知らない空間として立ちはだかる。人と物の区別すら怪しくなるくらいに不鮮明な視界は、本当に自分がここに存在しているのかすらも曖昧で、確信が持てなくなった。
 カーテンから透けていた陽射しは、今はもう翳っており、本来の布の色がこげ茶だったのだとやっと知った。いや、本当は、もっともっと以前からとっくに気付いていたことだと思う。エアコンはシャフトが曲がっているのか、細かく振動しながら冷たい風を送ってきて、全身にまとわりつき、根こそぎ体温を奪っていく。
 強張った指先に意思がうまく伝わらず、かじかんでいるみたいで中々動かなかった。空の空気を力いっぱいで握り潰し、やっと掌は自由を取り戻した。
 痺れ、落ち着かず、まだ細かく震えている掌を握り合わせた。芯まで冷えきってしまった手に、感覚はまだ乏しい。
弛めた力の先に見える情景、それは、きっと、親なのだろうと思う。
 それなら、彼の生を終わらせた先にひろがる世界は、一体誰なのだろうか。
 一括りで、この世に誕生させた親として与える罰だと説明してしまえば、ひどく偽善をともなっている。私が込めた力に断罪の意識や、ケジメの意味合いを見いだすとするのなら、それは多分に欺瞞を孕んだ自己弁護にすぎないのだと思う。日々に満ち足りた幸福など多くはないけれど、さして不満も抱いていない平穏な生活を踏みにじられた、それを憎み、怒りのままに裕の首を絞めていただけだったのだから。いまだに紐解くことができない息子の罪に、息子の奥底に湧き上がったのであろう欲求に、私は内心で恐怖し、厭悪もしていたのだ。
 そして、心の片隅で、終わらせた先に、私自身に現出する世界に慄いて腰が引けたのを否定できないからだ。
 私の息子だ。だから殺せなかった。もしも同じ罪を犯せば、少しでも理解することができたかもしれないのに、ささやかであっても肯定してあげられたかもしれないのに、しかし私にはできなかった、責任を果たせなかった。
 父親としてこの風景に踏みとどまったはずなのに、傍若無人に当たり散らしたあげく、本当の彼のところまで降りていく努力を放棄して、あさましく今ここにしがみついている、この人間は一体誰なのだろう。
 裕は喉を抑えて転がり、ずっと咳き込んでいる。
 隔たり、太くて深い轍、それをまじまじと実感して、途方に暮れた。

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