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息子の部屋②(第50回新潮新人賞二次通過。最終候補一歩手前)

 凍えるくらいにエアコンが効いているらしく、間仕切りドアが開け放たれたままの部屋からは、ぞわぞわした冷気が私の前面だけを舐めてくる。悪寒を感じ、玄関から動くことができない。壁に寄り添い、ちらつくベッドを視界から遮る。
 台所はせまく、まな板を置く場所もなくて、正方形の小さなシンクのすぐ横に、IHのコンロが一口あるだけだった。そのコンロに鍋が乗っている。蓋はかぶされていなくて、中には具のないカレーがたっぷり入っていた。温かい。でも表面は乾いて膜が張り、ひび割れみたいな皺が何本も走っている。三段の網棚に置いてある食器はすべて白かった。フォークやスプーンの銀色に、白。当たり前といえば当たり前なのだが、食欲も湧かない、そもそも味覚すらも必要ないような台所だった。
 一本だけ、網棚に寝かされた文化包丁が鈍くくすんでいる。
 閉められたカーテンが日光に照らされ、生成りに色を変えていて、電気もついていないここからは元の正確な色も判別できず、生地の繊維が縦や横に透けて見える。身体中にくまなく張りめぐった血管を連想させられたが、直線や織りなす直角は生命には不似合いな気もして、ちょっとだけ安心した。  
 かすかにチャイムの音が聞こえた。空耳かもしれないが、そんな雰囲気を感じた。もしかしてこのマンション内を、なにかの勧誘がまわっているのだとしたらと考えると、身震いした。一気に動悸が高まり、脈が内側から身体を打ち据える。鍵を締めるべきかと手を伸ばして、サムターンを静かにつまんだ。
 ドアの穴から外を覗いた。丸みを帯びた風景に人影はなく、せわしなく這わせる目の玉がドアの厚みを見た。
 無造作に音を立てて傾くドアレバーに、飛び上がるくらい驚いた。
 裕は、そんな私に身を引いて、肩を怒らせながら目を大きくした。
 手にぶら下げたビニール袋には大量の氷が入っていた。左右の足の裏で靴を交互に踏みつけ、伏せた眼差しのまま上がってくる。脱ぎ捨てられたスニーカーは若者がよく履いている、跳ね上がったロゴマークが特徴の有名なメーカーのもので、踵が潰れ、汚れも酷く、主がいなくなった空の靴はのたうつ芋虫みたいに反り返っていた。入り口の横に置かれたスチールラックには、目あたらしいスニーカーが何足か置かれている。思わず、脱いだばかりの汚い靴を指さし「もう捨てろよ。」と注意しようとすると、指先も追わない裕が無言で向かってきた。
 息子の躊躇のない直進に追いやられて、私は、電気も点いていない部屋へと足を踏み入れた。誰もいなかった。誰も寝てはいなかった。背中で音がする。振り返ると、裕は買い込んできた氷を持ったまま、中折れドアに粘っこい音を立てさせ、手前で曲がっていった。
 浴室へ消える、後ろ髪を見つめた。
 さらに冷たい寒気を頬で感じた。
 部屋は、色の違いがかろうじて見分けられるくらいの明るさしかない。六畳くらいの空間にあらゆるものがひそかに息を潜めているようで、壁に張りついた電気のスイッチを入れてしまえば、知りたくもない現実が猛然と目を覚まし始めるように思えてならなくて、一瞬だけ躊躇した。
 明かりは細かく振動してから、しばらく経って安定した。
 光を浴びた部屋は、私の目には食べ物に繁殖した黴のように緑がかった、腐りかけの物質の集まりに見えて、しかし、少しの時間と瞬きだけで錯覚だと気持ちを整理することができた。
 ついこの間まで子供だった裕が、独りで生活を送っている部屋に私は居た。
 壁にくっつけて置かれたシングルのベッドには漫画が二冊乗っていた。反対側に小さなテレビがあり、その左右に合板の、三段式の収納家具が並んでいる。まだ外は明るい時間帯なのに、窓を閉ざして布で蓋をしたこの場所は不健全の温床でしかなく、無性に景色が欲しくて仕方なくなった。窒息しそうに感じた。だがカーテンを開けることにためらってしまい、すぐに引き返した。足の裏を刺す硬く尖った感触の後、やわらかい沈み込みを感じて、ティッシュペーパーを踏んだのだとすぐに想像がついた。それはまだ開けたばかりの箱だったので、新品を踏み潰してしまった不注意に気落ちした。
 私の後ろをすり抜け、裕が入ってきた。床に置いたビニール袋を物色し、グラインダの箱を開封しはじめる。
「壁は厚いのか? ここ。」
 品物に夢中な息子はなにも喋らない。私は立て続けに質問し、勢いで脆くも決壊しそうになる感情を抑えながら、もう一度ゆっくり、たしなめるように訊いた。
「壁は厚いのか?」
「だからいないし。」
「なんでわかるんだ、そんなこと。」
 息子は私を見上げた。しかし視線は合わない。
「空き部屋なのか? 隣。」
 顎を上げ泳いでいた目をグラインダに落として、裕が、また工具をいじりはじめた。「これ、どうやって使うの?」と説明書を開いて、私のことなど目もくれずに言う。
 グラインダとは、工事現場では必須のハンドツールであり、円筒状の本体の先に高速回転するディスクがついている構造だ。そのディスクを用途によって交換すれば、金属の研磨から切断まで可能である。うすい鉄板くらいなら、一瞬で加工できてしまう。
 意を決したはずの唇は動かず、つぐんだままだった。私はどうしても息子との距離感が得意ではなくて、肝心なあらましはなかなか訊くことができない。簡単に言えば、真相など知りたくもないのかもしれないし、単に弱腰なだけだったのかもしれない。
 目で催促する裕に、ディスク交換の時は面倒くさくても必ずコンセントを抜くようにと、最大の注意点を教えて、目の前で取りつけてみせた。そして交換専用の工具も一応あるのだが実際はそんなもの必要ではなく、本体の首元にあるボタンを押せば回転にロックがかかるので、素手で締めることも弛めることだって可能だと教えてやった。
「でもこれ使うなら、革手がないと危ないな。」
「……軍手ならある。」
「軍手は回転体に巻き込まれるからやめとけ。」
 理解できてないようだったので、軍手は編み込んであるから、糸の端が引っ掛かりでもしたら軍手ごと引っ張られて危険だとつけ加えた。
「それなら買ってきてよ、かわて。」
 屈託がないと表現すれば適切なのだろうか、まるで安いおもちゃでもおねだりするかのようなあどけない顔つきで要求してきた。不安だった。もし私が部屋から出ていこうものなら、裕はひとりで作業を始めてしまうのではないかという懸念があって、やすやすと腰は軽くならなかった。
「工事でもないから軍手でいいか。」
 本音も半分は混じった曖昧な妥協をした。だが決定した事項が増えるたび、懸案がひとつひとつ解消していくたび、徐々に外堀が埋められていって、やがて実行へと否応なく突入していくことに私は慄いた。
「お前、これからなにをしようとしているのか本当にわかってるのか?」
 胸倉に飛びかかりたい衝動に葛藤して、年甲斐もなく波打つ声を上げた。
 裕が一人暮らしを始めてから定期的な音信があるわけでもなかったが、特に心配もせずに、なんだかんだ言って自立できたのだろうくらいに高を括っていた。妻のほうはメールのやり取り程度はしていたのかもしれないし、もしかしたら彼女から月々の仕送りが行われていたのかもしれない。実際のところはなにも知らない。夫であり父親である私は、母子の関係すらも一切顧みたことがなかったのだ。
 夫婦のみでの生活が始まった後、息子の今後については、妻とも、責任のなすりつけあいというわけではないけれど、話題として意図的に避けているところがあって、お互いが腫れ物に触ろうともしない、処置に困った茫漠とした問題と化していた。先に口を開いてしまえば、重責を背負いこんでしまうようで、息がつづくかぎり潜水をしていたようなものだった。

昨日、珍しく、私の携帯電話に連絡が来た。その時に、裕が起こした結果については聞いていた。抑揚もない、ひどく淡々とした報告だったせいか、耳を疑う気すらも起きず、空虚に、一切の状況を理解できないまま逃げるように電話を切った。芝居なのか素の自分なのかもはっきりしないもう一人の私が、話の内容を尋ねてくる妻の前でわざとらしくおどけてみせた。
 幸い、今週の土日に工事の予定はなかったので、世間と変わらずに休日だった。最寄りの駅で落ち合い、その足でホームセンターに向かったのだった。経緯は、今のところなにひとつ説明してもらっていない。それをずっと不満に感じているのに、裏をかえせば、いまだ訪れない絶望に安心もしていた。だが、私から訊かなければいけないとも思った。どうせ嘘に決まってる、そうやって囁く楽観した私がいた。
「相手が誰か教えてくれないか?」
 溢れて仕方ない唾を飲みこんで、次につづけるべき言葉も思いつかずに唇ばかり噛んだ。答えない。呆けた口で説明書を読み、額に垂れた、癖の少ない前髪が短冊みたいに目元を隠している。再び、まったく同じことを訊いた。また尋ねた。説明書をめくる指先はとても速い。そもそも読むべき枚数は多くなく、たいして熟読しているわけでもなさそうなのに、それでも口を割らない息子に目が眩むほど苛立って、無意識に殴る箇所を探した。私の、説明書に伸ばす手をよける。肩で払う。
 背中を向けた。
 スウェット姿に覆いかぶさって、夢中になっているものを鷲掴みにして取りあげた。
 すぐに甲高い声があがり、あたりかまわず振りまわしだした拳を顔や腕に何発も受けた。暴れる手を追った。それは規則性もなく、狙いすらもあきらかではなかったので捕まえるのに苦労し、諦めた。襟元を両手で握りしめ、なんとか壁に押しつけた。
 唇の端が大きく脈を打って、血の味がした。
「誰なんだ、相手。」
 目が合い、お互いにすばやく逸らした。
 拘束から逃れようとしても、腕力は私の方がまだまだ上だった。多少歳を喰っていようが、毎日現場に出て工事をしていれば衰える暇がないのだから。
 観念した裕の身体は弛緩して、まるで生気でも抜けてしまったかのように、いつから着ているのかもさだかではない灰色のスウェットにかろうじて吊るされているみたいだった。手を離すと弱々しく床に滑り落ち、口をもごもごさせた。
「相手の人、誰だ?」
「……マンション。」
「ここに住んでる人か?」
 裕は頷いた。
 脳が妙に引き締められ、四肢が飛び散りそうな感覚に襲われて、自分の思考まで遠のいていってしまうのを必死で堪えた。
 五十代。今、会社を放り出されて、再就職が簡単にできるはずもない。そもそも加害者の親には、転職先の心配よりも普通に生活していくことすらできない可能性のほうが高かった。自分が、なにを考えているのかわからない。親らしいことを言わなければならないし、行動で示さなければいけない。けれども、親らしさを、父親である証明を、この場で、状況で、どうやって体現すればいいのか、一切わからなかった。
 うちの会社は、退職金の額は在職期間によって大きく左右される。一年の違いで大幅な格差が生まれるというのは中途採用組の先輩から聞いて知っている。そんな早見表が頭に入っているわけもなく、今ここで計算はできない。裁判や、損害賠償とか謝罪とか身内への説明や私への非難も、敬遠されるかもしれないこれからの近所付き合いだとか、後をついてとめどなく溢れかえってくる問題に、私の思考が全然追いついてこない。
 保身ばかりを考えて、そんな私自身にほとほと呆れかえって疑問を持つのだが、大黒柱である私が無事でいることが家族の将来を支えられるという自負がそれを上から塗りつぶしてしまい、保身ばかりを考えた。
「いつだ? もうどのくらい経ってる?」
 怯えるように、裕は膝を抱いて小さくなった。
 ふわふわ浮いている気がしてならない。身体が床に留まれないほど軽いのに、地面に捻り潰されるくらい重みを感じる。
「父さんに教えてくれ。もうどのくらい経ってる? 風呂場にあるんだろ?」
 ある。
 居ると言えない時点で、絶望を勝手に逆撫でしているように思えてきて、うなだれた。裕は頷いた。この期に及んで見苦しく現実を拒否していた私には、崩壊を生身で感じた瞬間だった。
「いつだ?」
 裕は身体を絞らせて、さらに小さくなった。
 意思は事の変遷をたどろうとするのに、思考が寸前で反発し合って散漫に飛び散ってしまい、私からすり抜けていく。漠然と、ちょっとぼうとしているだけで数時間が過ぎてしまっているような気分に陥り、意識を留めておくのも難しかった。
「一昨日。」
「一昨日からずっと部屋にあるのか?」
 裕は首を振った。口の中がぱりぱりに乾き、喉はしつこく粘ついてかすかに余った唾を飲みこむのもままならず、わけもわからずに、私は急いでエアコンのリモコンを探した。
 何もなかった。頭上にエアコンはなく、リモコンも見つからず、家具も家電も壁も天井すらも一切合切が消え失せていた。
 真っ白い空間に驚き、方角も、天地すらもなくなってしまった空間を目で追った。
「……三日くらい前。」
 気付かないうちに皮膚の毛穴すべてから汗が噴き出していて、シャツがびっしょり濡れていた。エアコンの冷風が凍えるくらいに寒い。今更冷たい。
 寒さで我にかえると、急速に部屋が視界の中に炙りだされた。真っ白で殺風景な空間に放り出されていた二人の周囲に、一瞬で、様々な色でできあがったセットが四方からせり上がってきたようだった。だがさっきまでとは違い、白々しく、漂う空気が霞みがかっている気がした。私は、あらかた確認したはずの部屋の内装を物珍しくふたたび見渡した。ベッドには見覚えがあった。さっきと漫画の数も一緒だった。エアコンのリモコンが載っていた。このテレビも初めてではないはずだが、来た時の印象よりも断然あたらしく見えた。合板の収納には漫画がきれいに整頓されている。
 ハードカバーの、愛蔵版の火の鳥が並んでいた。かつて、私も大変熱中した漫画だった。
「お前、こんな古い漫画も読むのか?」
 裕は少しだけ股から顔を上げ、すぐに膝の間にまた隠れた。
 卑怯なのは充分理解していた。漫画の話がしたいわけではなく、懐かしく思ったのは事実だが、その回顧にいち早く逃げ込んだだけだった。激烈な速さで爛れていく思考を他のことで埋め尽くしたくて、それでも強烈な吸引力に引きずり戻されていくのだけれど、なんとか抵抗をつづけた。
 身体中が虫でもたかってきているみたいにチクチクし、慌てて首を撫でまわした。手で強く摩った。身体中を掻き毟った。大声を上げて暴れまくりたい感情を必死で抑えつけた。
 極力漫画で気持ちをごまかし、読み耽った遠い記憶をなんとか紐解いては思い出に浸った。けれども、当時大好きだった作品にも再会の感動はまるでなく、その理由が時の流れのせいだけだと断言できるはずもない。当てもなく、本棚を見つめた。一冊、漫画の背表紙に指先を引っ掛けて、前に倒した。街灯の光に群がる細かい羽虫のように、埃がすこしだけ舞った。
 楽しめるはずがないのに、その漫画を絵だけで読み、あっという間に読み終わると次の巻に手を伸ばした。無残に何冊か破り捨ててしまえば、僅かでも気が晴れるのだろうかと自問する。
「昔のも結構漁ったりしてる。」
 突然の息子の返答に、私は、逃避から目を覚ました。何の質問への返事なのかもさだかではなかったが、記憶は思ったよりも早くつながった。息を飲んだ。抑圧した感情が、ゆりかえす振り子ように獰猛さを孕んでいくようで、シャツを強く引っ張った。認めがたい感情の萌芽に、自分を疑った。「そうか、漫画にすごく詳しいんだな。知らんかった。」
 率直な感想が詰まっていないわけでもなく、かと言って本音がともなっているのかもあやしい適当な言葉を、なかば投げやりに吐き出した。声はうわずり、目頭が熱くなった。手塚治虫の漫画面白いよなと、ただ、人格が融解していくのを喰いとめたくて、つづけた。
 今まで口が重かった息子は、若干頬を弛ませた。その、なぜか嬉しそうに喜んでいる表情に憤慨を覚え、もどかしく頭を抱えた。
 それから、終始うつむき加減な態度は変わらないが、裕は急に饒舌になり、とても人に聞かせているとは思えない独り言のような口調だったけれども、好きな漫画家が休載してしまいムカつくと不満を洩らしたり、毎週欠かさず読んでいる雑誌を教えてくれたり、昔の漫画のほうがそれぞれの個性があって好きだとか、生意気な主張までしてきた。スマホにも漫画が入っていると自慢した。それだけでは終わらず、今度は私に若い頃はなにを読んでいたかと尋ねてきて、あの漫画の連載中はどういう風だったのかなどと、興味津々で訊いてきた。
 不意の、急激な活力に面喰らいつつ、体裁よくなけなしの救いを追憶に求めて、私はできるかぎり学生時代をたどって答えた。一時でも忘れたくて、無我夢中で過去を掘り返した。皆、雑誌の発売日は毎週楽しみにしていたと。完結した大人気漫画には当時の読者が皆悲しみ、インターネットなんかなかった時代だから、喪失感の発散場所といえばかぎられていて、友人たちとの会話はそういった話題で持ち切りだったと。
 裕は前髪で見えにくい眼差しをおだやかに細め、口の端をあげながら、照れくさそうに髪の毛を揉んだ。顔を背けた。急いで膝を抱える。だが、さっきと変わらず小さく丸まっているのにどこかほどけた感じがして、私も心がやすらかになった。
 とうの昔に忘れてしまっていた、鮮やかな喜びに再会した。
 恥ずかしかった。ただただ恥ずかしさが去来してきた。まさか実の息子と、大切な息子なのに、こうやって文字通り膝を突き合わせて会話をするのに二十年もかかったのだ。こんな、巷ではありふれている日常が私の家庭では当たり前ではなかったので、心を搔き乱されるほど嬉しく思った。
 息子を、裕を、誰にも渡したくない。
 今この時点からならば、子供と上手く付き合っていけるのではないだろうか。そう思えてならず、だからこそ、何としても守らなければならないという気持ちが湧き上がった。
 今までの私たちが失敗であるならば、これまでの親子の関係を全部水に流して、このたった今から、あらたに築き上げていけばいいじゃないか。大丈夫、大丈夫だ、きっと隠しおおせる。しかし間違っているのは当然理解しているし、これもひとつの身勝手な私欲なのだろうし、裕の犯した罪からわずかに離れているというだけで、所詮目的地を同じくする、似たような直線上に存在していることがわからないわけではなかった。

 裕の家に来て、すぐに体調を崩した。常にエアコンが全開の空間に、歳をとった身体はすぐに拒否反応を示しだし、全身の節々が悲鳴を上げはじめた。
 息子に季節外れの毛布を出してもらい、くるまった。懐かしい。鶯色をしていて、引っ越す時に自宅から持って行った毛布だった。裕はとくに多くは喋らない。そういえば私自身も軽口を叩くほうではなく、むしろ人付き合いが苦手な方で、だから就職の際には営業職をなるべく避けて、機械メーカーのアフターサービスの部署に配属が決まった時には、心の底から胸を撫でおろした。
 機械保全や保守という職種は、一度売った機械のルート営業という側面もあるのだが、イチから商談を持ちかけて製品を売り込むよりも格段に私には向いていた。突発に起きた機械の不具合により、急いで駆けつけなければならないし、故障がつづけば客先から散々厭味を言われることも珍しくはない。だが対処すべき機械はなにも喋らないから気楽でよかった。そもそも構造は人間が造れるように組まれているので、故障の原因も目に見えるので発見しやすく、可視化できない、電気の分野よりも断然に対応しやすかった。
 弛い鼻水がとめどなく流れ落ちてきた。急いで顔を上げ、箱の角が潰れたティッシュペーパーに手を伸ばした。
 息子はもちろん造り物などではなく、単純にできてはいないだろう。思い起こせば、私自身がお喋りも世渡りも下手くそなくせに、息子にだけは協調性を要求して、タイミングを外して返ってくるたどたどしいつぶやきに、声を荒げたことは数えきれないほどあった。無いものねだりで自分に備わっていない気質を子供には欲しがり、自分は微塵も持っていない社交性を子供には身に付けさせようとしていたのだろう。故障した機械でも修理するつもりで、裕の尊厳を蔑ろにしていたのだ。彼からすれば、周囲を拒絶するような父親に困惑するところもあったはずだ。それなのに私の方は一向に変わろうともせず、家族に灯をともそうと努力もしないで、いち早く息子を放棄したのだった。表向きは太っ腹な放任をよそおいつつ、本当は、住み慣れた、無関心の世界に閉じこもっていたのだった。
 人の親になるという、子供を持つという体験は、子を鏡にして自らを映し出し、人生を最初からやり直す絶好の機会なのかもしれない。過去に戻れない人生だからこそ、自分自身に再度向き合うために与えられた、唯一の好機なのかもしれない。それなのに私は知らないうちに裕を自分に同化させて、そこに見た、見たくもない、関わり合いたくもない、内包した宿痾のように不器用で無様な自分を目の当たりにし、同族厭悪を募らせていたのだろう。
 明確にせり上がってくる悔悟は、私に反省ばかりを促した。
 やはり守らなければならない。根底に横たわる、根源的な原因は私にあるのだと思うようになっていた。
「どのくらいうるさいか、グラインダのスイッチをチョン回しするからな。音にびっくりするなよ。電源が入った瞬間だけ、結構腕にくるぞ。」
 話す内容に正解なんかない。理解してほしい事柄を説明する、不器用な私にできるのはこんな愚直な接し方だけだった。
「チョン回し?」
「すまん。うちの会社だけの言葉かもしれん。スイッチを入れて、すぐに切るのを『チョン回し』と言うんだ。ちょっと回しみたいな意味なんだろうな。お父さんの会社だけだぞ、たぶん。」
 裕は黒い瞳を宙にめぐらせてから、細かく頷いた。
 グラインダを渡した。
「しっかり握ってろよ。」と円筒の、本体の尻にあるスナップスイッチを斜めに倒した。肩を怒らせ、裕の掌が筋張った。衝突するような音の後、金切り音が耳をつんざく。刹那、惰性に変わり、緩慢にディスクは回転して、やわらかく動きを止めた。
「やってみるか。できるだろ。」
「チョン回し?」
「ん? ああ、チョン回しだ。」
 頬が弛んで仕方ないほど楽しく思った。かつて考えた憶えもなく、頭の片隅にすら湧かなかった理想だった。
 息子と一緒に現場に出られたら、どれほど充実した毎日を送れるだろうかと想いを馳せた。
 五年もあれば必ず一人前にしてみせるし、それどころかどの工事現場に出しても恥ずかしくない、作業の二歩も三歩も先を読める、そんな作業員に仕上げてみせるのにと、膨らむ未来を思い描いた。しかし、そんな生活が本当に訪れてもいいのだろうかと私が私に詰問する。訪れて欲しいに決まっている。息子の人生が閉ざされる、そんな不幸せを望む親などこの世のどこに居るというのだろうか。
 これから私たち親子によって、おそらく紡ぎ出される将来は、決して色鮮やかではない、むしろ薄墨がかった醜い現実でしかなくて、後悔に苛まれながら毎日を送っていくのはたやすく予想できた。
 ごまかしたかった。少しでも気持ちを紛らわせたかった。訊かれてもいないのに『チョン回し』の話を蒸しかえして、元々は機械の動作確認だったり、三相モータを結線した後、回転の方向を確かめるために行う作業だと説明した。
 裕は反応がうすく、ちゃんと聞いているのかもさだかではない。
 彼の興味はすでにグラインダ自体に移っていて、周囲についてはまったく関心もないように電動工具のいたるところをいじっている。それが単なる知的好奇心なのか、それとも目的を遂行するための必要な知識の習得であるのか、その姿は見るに堪えなかった。
 熱心な横顔に私は言い澱んでしまって、あのな、喩えば、もしモータの回転が逆だった場合には結ばれている三本の電線のうちどれでも二本を逆につなぎなおせばいいんだと、問われてもいない話題のつづきを独りうつむいてつぶやいた。

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