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息子の部屋⑤(第50回新潮新人賞二次通過。最終候補一歩手前)

 マンションの通路の終わりまでそろそろと進み、裕の部屋の前へたどりつく。見分けもつかないドアが静かに一列で並んでいて、そこに区別は当然、ない。なんの変哲もない、隣の、私たちの部屋の左横のドアをしばらく眺めた。
 台所の床にはビニール袋に入ったままの氷が次第に増え、ただでさえ狭い道をさらに塞ぎつつあった。堆いそれはあたかもゴミ集積所に似ている。もしくは、いまだに現実を直視することができずにいる意気地がない私の亡骸だ。
 できるだけ静かに、重ねて氷を積み上げたのに、冷たい水飛沫が手にかかった。
 出迎えのつもりか、玄関前に溜まりに溜まった氷を風呂場に運んでくれるつもりなのか、どちらにせよ顔がほころんだ私は、裕の手元に釘づけになった。台所に携帯電話を置いて画面を熱心に読みだした裕は、私の呼びかけに反応もしないで顎を揉み、私は、浴室に身をひるがえしていく姿をそういう絵画みたいに見送っていた。彼も私自身が透明にでもなってしまったのではないかと不安にさせるほど、私を無視した。
 目を伏せたまま、裕は浴室と台所のあいだで脚をまごつかせて、一旦部屋に戻り、空いている方の手にノコギリを持って帰ってきた。生成り色の照明を人の陰があちこち切り取る。自分が寝ぼけているのか、それともずっと夢の中にでもいるのか、起きている出来事全部が薄い膜に包まれているかのように息子の行動がどこか他人事に思えてならず、ぼんやり眺めていて、伸ばせば簡単に手が届く距離なのにとてつもない断絶を覚えた。
 手が払われた。スウェットをつかんだ腕が肘で払われた。またつかんだ。もっと強く弾かれた。叩かれた衝撃によって痺れた掌が痺れているという感覚を認識しながら、また手を伸ばした。私は裕の腹を抱え込み、なにかを必死に叫んでいて、硬い氷をごつごつと背中に感じ、玄関のドアに当たって金属音を立てるノコギリを頭上に知って、気が付けば息子を見上げていた。
 台所に早い息の音だけが充満し、多分この何日かは歯磨きをしていない裕の口の臭いを嗅いだ。言葉も発しないでにじり寄ってくる息子の目的は、刃先を見るだけでは判断できず、それはあちこちに遊ぶ。
「親のふりすんなよ。」
 裕は醒めた声を静かに上げた。
 汗が噴き出すそばから室温に冷やされて、皮膚に張りついてくる。氷がこすれ、軋む音を立てた。私はおずおずと立ち上がって、裕と向き合っていた。不思議と喜びのほうが恐怖を勝り、それはなぜなら、こうなることを最初から望んでいたからだったとすぐに腹へ落ちた。卑怯な私にはふさわしい結末だったし、もはやどれだけ悩んでも出口の見えないこの状況には、絶好の逃亡先に間違いなかった。
 裕がみじかく悲鳴を上げ、急いで包丁を引いた。
 意識もなく私は、向けられた包丁の刃を素手でつかんでいた。肉を切り分ける、鋭い切断を味わった。
 裕は私の掌と包丁を何度も見比べて、徐々に赤く濡れだしていく床に気が付いて、顔を引き攣らせた。滴る真っ赤な滴はすばやく身を寄り添わせあってみるみる大きな血溜まりになっていき、時には溶けた氷のしずくの中に落ちて、浅い水中にうっすらと低い煙も立てる。
 手首を握りしめた私を置き去りにして、裕は風呂場へと走り込もうとした。勢いの良い動きが汗の臭いを撒き散らした。
 無我夢中で身体ごとぶつかった。
 掌に、初めて痛みを感じた。
「相手が他人か自分かの違いだけだろ!」
 後ろから抱き抑えた私を息子は振り払い、足元に転がった私に叫んだ。
「なにがダメなんだよ! なんでダメなんだよ! 教えてくれよ! 死んじゃえばみんな一緒だろうが! 大体関係ねえだろっ、てめえには!」
 動悸が急速に高まり、床に横たわる自分のつま先を見た。勇気ではない、こんな時に必要な感情は勇気ではないし、使うべき状況が違う。気が動転しているのか知らないが、意味もなく自分にそうやって言い聞かせた。スウェットの腹まわりには赤黒い掌の痕がついている。
 背中にも。
 部屋から、裕はグラインダを握って帰ってきた。ディスクよこせよ。その、塞がった腕をつかんだ。瞬時に、息子の全身が大きく跳ね上がって私の手を置き去りにして、親の握力をいとも簡単に引きちぎった。宙を舞ったグラインダが、台所のシンクを激しく叩いた。
「今更父親ぶるんじゃねえよ! てめえ!」
 腹の上にのしかかってきた。
「てめえのことなんか昔から親だとも思ってねえんだ!」
 振り上がる拳。
下から見れば、刃先はわずかな線にしか見えず、とても潔くて安心した。身体を突き通される覚悟をしたのに、誰もが最期の時に目の当たりにするという、頭の中を駆けめぐるあまたの思い出は拍子抜けするくらいになにもなく、裕をひたすらに見つめていた。
「いいぞ、好きにしてくれて。」
 牽制でもなく、挑発のわけもなかった。自分で言ってみて、本当にそうだなと納得した。
 私は知っていた。残念だが、この部屋の中で私にできることは、あまりにも少なすぎた。解決の術、息子が起こした事態を丸くおさめられないのは、四肢が捻じ切られるほど痛感していた。逃げる。確かにそうだった。居なくなりさえすれば、こんな世界から解放されるからだ。それは全部を、それどころか、さらに重い罪まで息子に抱え込ませてしまうのにも関わらずにだ。
 それが私だ、これが私なのだ。結局自分自身が一番かわいくて、たとえ身内であっても人の泥をかぶる器量なんかまったくなくて、築きあげた自らの世界を穢されるのが我慢ならなくて、世の中とも、息子とも妻ともつながることができない、所詮、私はそういう人間なのだ。
「遠慮するな。」
 猛烈に震える拳を私は見つめた。
 口の中が、喉の奥まで全部が見えるくらいに唇を開いて、なにかを呻き、裕は奥歯を噛みしめた。目尻を押しつぶした眼差しが、もうひとつの、空いている掌を包丁の柄に添えた。握りあった拳を高く掲げて、持ちうる膂力全部で励起させた全身が落ち着きなくゆれている。
 私はできるだけ苦労をさせないように、自分が下手に苦しみたくないだけなのか? 大きく腕をひろげ、胸を曝け出した。
「すまんかった、至らない親で。」
 勝手に口が動いた。しばらく見ないうちに、随分と大人になっていた面構えと出会った。親の上背を、とうに追い越した裕がいる。
 緩慢に、ひどいくらいゆっくりと息子の顔が歪みだした。身悶えするほど醜く表情を壊して、うなだれた。
 顔の造りがぼろぼろと床に零れ落ちてしまうくらい、裕は泣いた。走りまわる、顔中に刻まれた皺が手に取るように静かで、私は、さっきまでが嘘みたいに心が穏やかになった。
 目尻にたくさんの皺を蓄えた裕は、頬の肉を大きく上げる。それはとてもおおらかな笑顔に似ていて、それなのに快活さは微塵もなく、今まで散々積もらせてきた感情の爆発だった。
 私には受け入れることしかできなくて、ただ黙った。
 咽ぶ声が響く。抑えきれない嗚咽が聞こえる。
 あのおとなしかった裕が、ここまで感情を剥き出しにさせた。掌は疼き、怒声はまだ耳の奥に痛くへばりついていて、すべてが初めての出来事だったのに、私が抱く気持ちは愛情しかなかった。あらゆる想いが脱落していき、卑屈な劣情がほどけていって、研ぎ澄まされた先に残ったのは愛情以外には何もなかったのだ。生命まで、持って生まれたものをひとつ残らず投げ出してまで、なりふり構わず自らを匿おうとした自分自身に唾棄したくなった。
 秘密を守りきれなかった時、世間は私をどう思うだろうか、糾弾するのだろうか、妻は、母は、私の行為を赦してくれるのだろうか。私は、私の犯した罪悪に、良心の呵責に、果たして耐えられるのだろうか。浮かんでは消え、消えては浮かびあがってくる苦悩を、わがままな願望を、とてつもない孤独を、清濁あますところなく飲み込んで、私は裕を守りたいと思った。
 高く突き上げられた拳が、振り下ろされる瞬間はとうとう訪れなかった。
 もうよせ。私はそう声をかけて起き上がると、力なく横に転がり落ちた身体に手を差しのべた。
 腕で顔を覆い、泣きつづける裕にこの手は見えていないだろう。
「お父さんな、こう見えても工事の腕はなかなかなんだぞ。」
 うつ伏せに倒れた息子にふれた。
「資格だって社内で一番たくさん持ってるしな。今は安全面にうるさいからなんでもかんでも資格を要求されるんだ。」
 身体が温かいだけで充分満足だった。
「お父さんが全部やる。」
 首を何度も振るだけで、泣き声は止まなかった。なにか、一生懸命に、声にもならない声をあげる。
「もう泣くな。わかったから。」
 頭を撫でてやったら、髪の毛が脂っぽかった。
「大丈夫だぞ、お父さんが守ってやるからな。任せとけ。」
いつの間にかカーテンは陽射しが透けていて、布の生地が格子状の模様に変わっていた。
 手にタオルを巻いた。
 いつもなら他愛のない段取りを怪我が邪魔する。
 絡まっているグラインダのコードの渦を宙に持ち上げ、大きく振りまわした。黒い塊は一瞬のきっかけで線に戻り、床にまっすぐ落ちた。コードを根元からゆるくしごいていって、コンセントを握った。
 グラインダをチョン回しし、一拍遅れて腕全体に慣れ親しんだ手応えが伝わってきて、反射的に、掌に力を込めていた。
 なめらかに残像を残していた円盤は、次第にざらついた地肌を取り戻していく。ゆるやかに止まり出す回転を、ただ眺めた。
 ディスクが、若干、波を打つ。
 コンセントを抜いて本体の首元にあるボタンで回転をロックしてから、素手で締め直した。とても気持ちは凪いでいた。これから行う作業に恐れは一切なく、自分でもそれはとても不思議で、不安があるとすれば、過去の仕事で扱った経験がないということだけだった。こいつじゃもしかしたら煙が出るかもな、単にそう思った。
 今となってはエアコンの冷気も頼もしい。コンロに乗った雪平鍋が正面にある。その、強烈な香辛料の匂いもあからさまな味方だったから、妙に照れくさくなってしまった。
 私は細かく切り刻んだ後のことを考えて少しだけ悲観したが、すぐにそれは親としての責任感が打ち消してくれた。鍋に沈んでいるおたまで、中身を入念に掻き混ぜた。
 風呂場の扉を開けた。
 誰もいなかった。
 何もいなかった。
 氷すらなかった。
 風呂場は広く、ひどく殺風景に感じ、留め具に引っ掛けられたシャワーがひとりきりお辞儀しているだけだった。たった今、確かに手に取ったはずのグラインダも消えていた。巻いたタオルもなかった。私は、自分の掌を握っては開いて、久しぶりに手相をよく見た。
 思わず溜め息が洩れてしまい、趣味の悪い冗談だったのだとやっと理解できたが、怒る気にもなれなかった。腰が抜けるくらい全身が弛緩してしまって、空中に浮いているような感覚でよろめいてしまい、急いでもたれかかれる場所を探した。猛烈な脱力とともに、とめどなく溢れ出てくる笑みを必死に噛み殺した。だが、さすがに少々度が過ぎた悪戯なので、こればかりはこっぴどく叱らないといけないと思い、眉間に意識を集中した。
「裕、駄目だぞ。こういう悪戯は。」
 風呂場での自分の声はいつもより野太く聞こえた。返事はなかった。まだ泣いているのか、いや、泣き真似ももう必要ないのだから、大成功の笑いが噴き出すのを必死で堪えているのだろう。
「裕?」
 部屋には誰もいなかった。
 もぬけの殻で家具もなく、伽藍としたマンションの一室で私は立ち尽くしている。
 引き返して、風呂場を覗いた。寒かった。息が白かった。一滴の雫すら存在しない空間から、軋む音が聞こえてくる。どこかから、融け、水をまとい、次の均衡を求めて、下の隙間へと崩れ落ちる音がかすかに響いてくる。瞬きすると浴槽の縁からポンプ式のシャンプーとリンスの容器が滲み出してきて、ぽってりと丸みを帯びたボトルの淡い黄緑色はやけにやさしく目には映え、まだ一緒に居たいのに、それなのにつれなく視界からすり抜けていってしまう。取り囲む白い壁のパッキンを、細かな黒い黴が所々浸蝕している。
 浴室の鏡に映る私が、私をまっすぐ見つめている。
 窓からの景色は広い。けれどもあんなに燦々とカーテンを照らしていた陽の光は、かよわくしか射し込んでこない。
 私は部屋から立ち去れず、まだここに居る。


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