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からだの声を聴く
この世に生を受けて50年。
「よくぞ、付き合ってくれたこのからだ。」
最近は良くそんなことを思う。
振り返ってみると、幼い頃から何かしら“からだの不調“を感じていることが多かった。
小学校に入るころには既に花粉症に悩まされ、当時は有効な治療薬もなかったので、鼻とのどが腫れてつまって、窒息死しそうになることもあった。
思春期に入ると、かなり重度の生理痛で気絶しそうになるほどのたうち回ったり、大人になっても症状は変わらず、外出中に一歩も動けなくなって、人に助けてもらったりしたこともあった。
そのうち心身共に病んで、“こころ“だけでなく“からだ“も自分の思い通りに動かなくなってしまったこともあった。
それでも何とか学生生活を送り、社会生活を営み、からだを騙しながらも動いてきた。
30代の後半に入ると、子宮筋腫ができはじめ、今ではだんだん大きくなって「婦人科で切除したほうが良いのでは?」と言われている。
それでも大病せずにここまでこれたのは、本当にからだのお蔭だと思っている。
でも思い返すと、わたしの自分のからだに対する扱いは、かなり“ぞんざい“なものだった。
自分にとって不都合な“痛みやかゆみ“、“不快感“など、本当はからだがいろいろとわたしに対して発している信号があったのに、それをまともに受け取ろうとしていなかったのだ。
痛ければ、とりあえず痛み止めを飲めばよいし、かゆければ薬を塗ればよい、と言った感じで対処療法でその場を乗り切ってきた。
しかし、からだがそのような信号を発している時は、ほぼ自分が無理をしすぎていたり、自分が本当はしたくないことを嫌々していることが多かったように思う。
わたしの場合、あまりにからだが凝りすぎると、一日中くしゃみと鼻水が止まらなくなる。
それは10代の頃からだった。
でも今ではわかる。
くしゃみや鼻水を出すことにより、自分のからだを強制的に緩めているのだ。
それが分からなかった頃は、「なぜいつも、わたしのからだはそうなるのか?」とかなり自分を責めていた。
それ以外でも何か不調や症状があると、「なぜ?」といつも責めていたように思う。
結局、からだは自分にとって良いことを自浄的に行っているに過ぎない。
そしてその結果、「症状や病気として表現しているに過ぎない。」と思えるのだ。
しかし現在では、「自分を責める行為が、いかにからだに余計な負担を負わせていたのか。」ということに気づき、考えを改めた。
だからどこかに不調があったとしても、最近では、
「この症状は、自分に何を教えてくれているのだろうか?」といった視点で自分を観るようになった。
正直、分からないこともあるが、よくよく観察していくと、
「あー。こういうことなのね。」と、思い当たることも多くなった。
からだは何に対しても即座に、“快““不快“を判断し、自分に合わないものを判断し、自分に害をなすものを判断する。
良くできたセンサーであり、嘘をつけないセンサーだと思う。
それ故に、「思考よりもからだが判断していることの方が正しい。」と思っている。
自分にとって嫌だと思えるものを我慢しすぎると、からだは何らかの症状でわたし達に教えてくれることがあるが、それをキャッチしようとしないことは良くあることだ。
からだが判断したものを、思考でねじ伏せたり、無視したり、あたまの中から排除しようとすることは多い。
からだは正直。
あたまは嘘つき。
からだは無意識が支配している領域だが、何かしらの不調や症状を無意識からの訴えだと考えると、“無意識が何を言いたい“のか、考える必要があるということだろう。
働きすぎだよ。
我慢しすぎだよ。
本当は嫌なのに、なぜ嫌なことばかりするの。
からだは症状を出しつつも、自分を守っているということだ
わたしは緊張症で、すぐにからだが緊張する傾向がある。
これにより、からだのあちこちに緊張がでて、からだの凝りだけでなく、のぼせたり、不眠に繋がったりする。
でもこれらの症状が決して悪いわけではない。
緊張することで、わたしという人間を守ろうとしたからだ。
ということは、症状は、
わたしという存在を、からだが守ろうとした結果だと言えるだろう。
思考優位のわたしは、気をつけないとすぐにからだを蔑ろにする傾向にあるが、からだの健気な働きを感じてからは、それを改めるために、夜寝る前にあることを始めた。
それは、“からだに対する感謝“である。
以前から、「体の不調箇所に声を掛けると良いよ。」とか、「からだを神社のように取り扱うと良い。」といったことを話している人がいたのは知っていたのだが、なんとなくスルーして本気にすることは無かった。
だが今回はあえて、自分が使っている量子場調整®を使わずに、自分のからだに対する意識を変える意味でも、「自分のからだに声掛けをしてみよう!」という気になったので、ここのところ毎晩寝る前に、何らかの感謝の言葉をからだにかけるようにしたのだ。
すると、最初はあまり感じなかったのだが、凝りすぎて痛かったからだの痛みが「スー」と消えたり、不調を感じている箇所が温かくなってきたり、これまでとは異なる反応が出るようになったのだ。
からだは、
自分に気づいてもらいたいんだな。
もっと意識を向けてもらいたいんだな。
大切に扱ってもらいたいんだな。
これまでのぞんざいな扱いを反省した次第だ。
からだは自分という人間に対して、決して自分の意にそわない、不都合なことを表現したいわけではない。
むしろ、何かに気づいて欲しくて症状として表現しているのだと思うと、本当に優秀な大切に扱うべき、“わたし“である。
日常生活において、「意識的にからだの声をくみ取りつつ、行動を組み立てることで、自分のからだがどう変わるのか。」「からだへの感謝でどう変化するのか。」実験を続けてみたいと思う。
その結果は、後日改めて書いてみたいと思っている。
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