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“ダメな自分“が人からみて魅力的なこともある

前回の記事で、自分の実態と“これがわたしだ“と思っている自分が、実は全く正反対であったという話を書いた。

わたしの場合、「完璧主義の自分を本当の自分だと思っていたのだが、実はそうではなく、実態はかなりのズボラで、それを“自分で認めたくない“、“人に知られたくない“と隠していたが故に、頑張って自分に鞭を打っていた。」というもの。

これを書いたとき、“そういえば“と気づいたことがある。

ダメな自分、いわゆる“弱み“とか“欠点“は、例え自分が認めていたとしても、人に見せたいものではない。
それは少なからず、誰の心理にも働いていることだと思っている。

だから皆、恐らくそれらを隠す。

でもそれは、あくまで自分からみて、「これって自分のダメなところだよね。だから当然、人も同じようにダメだと思うところだよね。」といった具合に、「自分と人の捉え方は同じだろう。」という思い込みから発生している。

だが、本当にそうだろうか?

“自分のここがダメ“と思っている部分が、人も同じように感じるかどうかは別だからだ。

一般的に、“弱み“とか“欠点“といった類のものは、イコール

良くないもの。
人より劣っているもの。
相手にとっても迷惑。

といったように捉えられていると思う。

わたしの場合、「ダメな自分を認めること」、そして「それを人に見せると負けたように感じていたこと」もあり、意地を張ってなかなか素を出すことができなかった。
(現在でもその傾向にあるが。)

だからこそ、あまり表立って見せたくない部分ではあると思うのだが、ある時身近な人を観ていて思った。

その人は自分の素をさらけ出すのを極端に嫌っているのだが、実はその素こそがこちらからすると魅力なのに、わざわざ隠すから、「なぜ隠すの?それが良いのに。」と、思ったことがあった。

でも、当の本人はそんな風には思ってはいないようで、
素の自分=ダメな自分
それを見せると、「嫌われるのでは?」くらいに思っているらしい。

あーもったいない。

その“ダメな部分“と思えるところが、すごく魅力的なのに。
こちらから観れば、“弱み“でも“欠点“でもないのに。

当然、人によりけりなので一概には言えないが、すごくしっかりしている人の素がとても抜けていたり、その逆に適当だと思っていた人が実は相当しっかりして抜け目が無かったり。
人はそのギャップに惹かれる傾向がある。

でもそのギャップとは別に、その素が自然に見える状態、いわゆる“自然体な状態“を、すごく魅力的に感じるのだ。

要するに、「“自然体“で“自分の弱み”を人に見せられる方が魅力的」ということなのだろう。

それにその方が、“人に愛される“のでは?

とも感じている。

だから、自分のダメな部分にこだわって、隠すことはないのかもしれない。
どうしてもその手の“悩み“は、自分の中で拡大してしまい大事に捉えてしまう傾向がある。
だからこそ、「自分の世界の中で作られたそのイメージは、単なる虚像かもしれない。」と、視点を変えてみることが必要なのかもしれない。

自分にとっての問題が、相手にとっても問題であるとは限らない。

そして、弱みは強みに通じるし、“ダメな自分“も受入れ認めてしまえば、自分がすごく楽になれる。

その方が「人間味があって面白い。」

そんな風にも感じている。

ちなみに、先日の記事で共感してくださった方のほとんどは男性であった。

男性の方がプライドもあって、素の自分をさらけ出すことに抵抗があると思っていたのだが、実は素直に、「自分のダメな部分を認識できているということなのかな?」そしてそれを抱えながらも、「対外的には、“こう在ろう“と頑張っているのかな?」と思えた。

でもこの辺り、男性も女性も基本的には変わらないと思っている。

いずれにせよ、
自分の正体がばれるのは、誰でも怖い。

人にどう思われるか、分からないからだ。

しかし、その怖さを乗り越えると違う世界が広がる可能性もあるから、「思い切ってさらけ出すのも、一つの生き方かもしれないな。」と、今では思っている。




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